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山かけ蕎麦の罠


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:秋田あおい(ライティングゼミ・平日コース)

 
 
夫と私は、揃って蕎麦が好きである。
私たちはよく、行きつけの蕎麦屋に食事に行く。
夫は「天ざる」の大盛、私は辛み大根が刺激的な「おろし和え蕎麦」、
これが私たちの定番になっている。
 
この店の蕎麦は、昼食にいただくことが多い。
開店時刻を少し過ぎたころ、「古式手打ち生そば」とうたった
お店の看板の奥に見える白い暖簾をくぐる。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれるのはいつも、
この小さな蕎麦屋の店主の奥様とおぼしき年配の女性であった。
しかし、ここ2、3年くらい前から、
彼女の「いらっしゃいませ」の声に、若い女性の声が重なるようになった。
その年配の女性に年齢的なお疲れが見えはじめているのが
その理由ではないかと思っている。世代交代もそう遠くないのかもしれない。
 
私たちが店に行く時間帯は、まだお客さんが少ないため、
いつも決まって、奥の座敷に上がらせてもらっている。
この店は、席に座ると、香りの良いほうじ茶を出してくれるのだが、
それが出てくるまでの間に、私たちは形式的にメニューを手元に置き、一通り目を通す。
しかし、そうする前にすでに、食べたいものはたいてい決まっている。
 
「私は天ざるの大盛で」という夫の声に続き、
「私はおろし和え蕎麦でお願いします」と、
いつもと同じ調子で注文を済ませ、ほうじ茶をすする。
私はこの店の香ばしいほうじ茶が、密かに気に入っている。
 
蕎麦が運ばれてくるのを待つ間に、店は徐々に混んできた。
今しがた店に入った若い男性二人組は、
ちょうど空いていた私の背後のお座敷席に落ち着いたようだった。
 
やがて、背後から注文の声が聞こえた。
「俺、山かけ、あったかいの」
もう一人が何を注文したのかは不明だったが、
山かけ蕎麦の注文だけはクリアに私の耳に響いた。
 
しばらくして、私たちの蕎麦が来た。
姿勢を正して手を合わせ、「いただきます」といって、割り箸を割る。
大根おろしが入った蕎麦つゆに冷たい蕎麦を絡め、それを口に含む。
辛み大根特有の強い辛みと蕎麦の香りが鼻腔に広がっていく感覚。
辛みに一瞬、顔がゆがむ。
「あぁ、美味しい」
美しく盛られた彩り豊かな天ぷらの向こう側で、
夫は私の言葉に深く頷きながら蕎麦をすすった。
 
「あったかい山かけでーす」
私の背後に、蕎麦が運ばれてきたようだ。
注文の主である「俺」の前に、出汁の香りが立ち上るあったかい山かけ蕎麦。
器の中の蕎麦を覆いつくしてしまいそうな真っ白なモワモワ、
その真ん中で、ほそく刻まれた柚子の皮が上品な色と香りを添えて……。
つい、他人の蕎麦を妄想してしまったが、すぐに自分の蕎麦に意識を戻し、
また、ひとくち……。
 
「ずぉっ、ずずずぉっ!」
濁った大きな音が、突発的に背後から聞こえた。
音声マイクで増幅されたかのような大きな音だ。
おそらく蕎麦をすする音だろうとは推測したが、
それにしたって、私が知っているそれとはまったく違っていた。
「ずずずぉ、ずずっ、ずっ!」
その音を聞いて、私は口に含んでいた蕎麦を吹き出しそうになった。
犯人は間違いなく「俺」の山かけ蕎麦である。
いや、山かけ蕎麦を豪快にすすっている「俺」が犯人である。
その豪快な音は断続的に、構わず背後から私に襲いかかってくる。
もはや、私は蕎麦の味が感じられなくなってしまった。
それどころか、蕎麦を口に運ぶことすら、ままならなくなってしまっていた。
 
早く自分の蕎麦を食べ終えたかった。
そして、一刻も早くその場から逃げ出したかった。
しかし、その音に襲われると、可笑しくて箸が止まってしまう。
私は目の前にある蕎麦に全神経を集中させることで、それを必死に紛らした。
夫と食事を楽しむどころではなくなっていた。
 
蕎麦を食べ終え、ほうじ茶のおかわりは遠慮して逃げるように店を出ると、
駐車場に停めた車に乗り込み、私はホッと一息ついた。
そして夫との車中の会話はもっぱら、私の背後の山かけ蕎麦で盛り上がった。
 
よくある話で、
音を立てて食事をするのはマナー違反だが、蕎麦はすすって食べるものであり、
それはマナー違反には当たらないというもの。
しかし、あの背後の山かけ蕎麦の一件はマナーとしてはいかがなものか。
あれは衝撃的な大きな異音でしかなかった。お世辞にも上品とは言えない音だった。
あれは私の背後の無神経な「俺」に限ったことなのか、それとも、
もしかしたら山芋のせいで、誰が食べてもあんな音が出てしまうのか。
考えているうちに、私は「山かけ蕎麦」を自分で検証してみたくなった。
 
いくらか間があいたある日、
家族でいつもの蕎麦屋に向かっていた。
店に入ると、ふたりの女性が迎えてくれた。
年配の女性の方は、幾分疲れが増したように見えた。
 
いつもと同じ奥のお座敷席に座り、ほうじ茶を待ちながら
私は子供たちと一緒にメニューを見ていた。
今回、私は「あったかい山かけ蕎麦」と決めている。
もう、ずいぶんと前からそう決めているのだ。
山かけ蕎麦の音について検証したいからだ。
「私は天ざるの大盛」
夫のいつも通りの注文のあと、目の前に漂うほうじ茶の香りに急かされながら、
私は自分と子供たちの分の注文を続けた。
「えっと、卵とじをひとつ、鴨南をひとつ、それと……」
いよいよだ。
「……おろし和え蕎麦をひとつお願いします」
自分の言葉に拍子抜けした。いつもの蕎麦の名前が出てしまった。
山かけ蕎麦の検証のチャンスと、心待ちにしていたはずなのに、なぜ。
 
急に恥ずかしくなったのだ。
私には、あれを食べたら、きっとあの音が出てしまうという
根拠のない確信があった。
「ずぉっ、ずずずぉっ!」
あんな耳障りな大きな音を立てるなんて恥ずかしすぎる。
そもそも、周りに「騒音」という名の迷惑がかかってしまうではないか。
 
いろんな想像と言い訳が頭の中を錯綜したが、結局のところ、
それをしたくないと、私自身が私の試みを瞬時に拒んだ形で、
山かけ蕎麦の検証はあえなく失敗に終わった。
そして私は、涼しい顔でいつもの蕎麦をおとなしくすすった。
 
そういえばあの日以来、
目まぐるしい日々に忙殺されて、あの蕎麦屋に行けていない。
そろそろ蕎麦が恋しくなってきた。
それはそうなのだが、実は、あの日に拒んだ山かけ蕎麦に、
一度はきちんと向かい合いたい気持ちが、私の中でずっとくすぶっている。
あのとき、罪のない山かけ蕎麦という料理と、
その作り手に対する無言の無礼を申し訳なく思っているのだ。
それとは別に、店主の奥様と思しきあの年配の女性のことも少し気にかかる。
 
「そろそろあの蕎麦屋に行かなくては」
そんな、義務に似た焦燥に駆られることも多くなり、
今まさにそのチャンスを見計らっている。
 
 
***

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2017-08-08 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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