プロフェッショナル・ゼミ

燃えない女は、夜に濡れる《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【10月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《平日コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:西部直樹(プロフェッショナル・ゼミ)
※この記事はフィクションです

「あ~」思わず嘆息が漏れた。
まただ、なぜ人は懲りるということがないのだろう。
隣の人を覗き見る。若い、学生のようだ。冷房が効いた車内なのに、頬が上気している。
わたしの短いスカートが少しめくれているようだ。冷たい手が太股に触れている。
ああ、もう。わたしは視線を下に向ける。
隣の彼は、わたしがなにも言えない、内気な女性だと想ったのだろう、手の動きが大胆になってくる。
どうしようか。
身体のまえに抱えたバッグを探る。いい物があった。
左腕にした時計を外してバッグにしまう。
幾分小ぶりなそれをそっと取り出す。
周りを見渡す。吊革に掴まっているわたしに触れているのは、隣の痴漢野郎だけだ。
素肌に触れている人はいない。それならいいだろう。
その小さなもの目盛りはマックスから少し下に。素肌に押し当て、痴漢野郎の手がわたしの素肌に触れていることを確認して、スイッチを入れる。電流が流れる小さな音がする。素肌の表面が痺れる。うう、ちょっと快感だ。
隣の痴漢野郎は、白目をむいて崩れ落ちた。
わざとらしく大きな声を出す。
「大丈夫ですかあ~~」
ちょうど電車が止まったので、痴漢野郎の胸ぐらを左手で掴んで引きずり、ホームに降りる。
まわりの人はちょっと驚いている。
大柄とはいえない女性が、男性を片手で引きずっているのだから、軽々と。そのまま、ホームのベンチに投げ付けておいた。一応息をしているのを確認して、会社に向かった。

「ええ、またですかあ、今度は新技ですね。でも、可哀想です、その人、まさか触ったのがこんな人だったとは知らず」
恵理が、美紗の掌にカッターの刃を当てて、思い切り引いた。ガリガリという音がして、カッターの刃がこぼれる。
「あ、ダメよ、もったいない」美紗は、少し顔をしかめてカッターを取り上げた。こぼれた刃をゴミ箱の上で払い落とした。

先日、馴染みの整体院で、この新しい技を発見した。
「肌が鉄になるんですか!」美紗が病院でいわれたことを院長につたえると、院長は少し後ずさりしながら叫んだ。
美紗は貧血気味だからと、鉄分を取っていると、世界で2例目の鉄皮症になってしまったのだ。この病を得ているのは、今のところ70億人中、美紗ただ一人だ。
院長は、この鉄の肌に整体は効かないのでは、いや、そもそもツボを押さえることも、鍼を打つことも不可能だ、と頭を抱えこんだ。
鉄の肌では、注射も打てない、注射もダメだから鍼は当然、ツボも押してもらえないのか、「絶望」という文字が美紗の頭をよぎった。
「それで、鉄の肌になって、どう調子は?」美紗の担当の生島さんの声は配慮と好奇心が入り交じっていた。
毎週通っていたので、習慣できてしまったが、美紗はハタと困ってしまった。肩も腰も背中も凝っていない。身体に凝りはない。何となくからだが少しダルいような気がする、それだけだ。
「何となくからだがだるいんです」と美紗が伝えると、生島さんと院長がうなりつつ密やかに相談をする。しばらくして、電気をやってみましょう、ということになった。
筋肉を刺激して、だるさを取り除くのだ。
電気鍼は刺さらないから、皮膚の触れるように置き、電気クリップを固定して電気を通すことにした。
弱い電気では反応しない美紗に、院長と生島さんは、電圧を上げていく、メモリがマックスになるくらいでも、美紗が平然としている。思わず生島さんが美紗の手を握る。
ギャッと声を上げて生島さんが飛び退く。
「大丈夫ですか? う~ん、少しこそばゆい感じです」と美紗はふふと笑うのである。
鉄の皮膚は電気を流すが、身体の内部には流れないようなのだ。

電気もダメか。自宅に帰り着くと、美紗は長く大きな溜息をついた。
もし、病気になったも、触診もできないし、注射もダメ、多分レントゲンなんかダメだろう。骨じゃなく、鉄の皮膚しか写らないだろう。風邪も引けないな。インフルエンザの予防接種もできない。注射がダメなのは、それは少し悪くないことだけれども。
美紗は自宅のベッドの上に座り込み、頭を抱えた。
夕食は……、鉄分の多いホウレンソウのおひたしと砂鉄のふりかけにしよう。
ベッドからいきよく降りると、窓を開けた。
自然の風を感じたかった。3階の部屋には、風が入りやすい。
針も通さない皮膚だけど、風は感じることができる。
晩夏のなごりの暑さが、風にほどけてゆく。
焼き魚の匂いがする。
隣はカレーライスか。
風に食卓の匂いがのってくる。
ああ、この匂いは、なにかを焼いている、キャンプファイアーの時、木が焼ける匂いだ。
美紗は思いきり息を吸い、ハッと息を吐き出す。
住宅街でキャンプファイヤーはないな。バーベキューなのか。
微かにパチパチというような音も聞こえる。
窓から顔を出す。
道路を挟んで斜め向かいのアパートから煙が出ている。
見ているうちにオレンジの炎が吹き出した。

美紗はそのまま窓から飛び降りた。
窓の下は、防犯用の砂利が敷き詰められている。尖った石だ。
着地の時、大きな音がした。美紗は素足だ。
フン、と一息吐き出すと、燃えるアパートに向かって駈けだした。

木造のアパートだから、火のまわりははやい。
一階から火が出たのか、既に二階が煙と炎に包まれはじめている。
アパートから人々が逃げ出してくる。
独り身か若い夫婦が住む古いアパートだ。
近所の人たちも次々と出てくる。
炎を見上げる人の中に、若い女性がいた。
「ミキちゃんが、ミキちゃんが、まだ」といってアパートに向かっていこうとする。
まわりの人が引き留める。
消防自動車のサイレンが聞こえてきた。
炎は一瞬で大きくなっていく。
美紗は、若い母親に「ミキちゃんは何号室?」
「二階の一番奥……」
二階の一番奥は、火が回っているところだ。
反射的に美紗は駆けだしていた。
まわりの人も止める間もなかった。

消防車が何台もやってきた。
放水がはじまっても火の勢いは衰えない。
その炎の中から、幼い女の子を抱えた女性が飛び出してきた。
女の子を抱えた女性の背中は燃えていた。
消防隊が彼女に向かって水をかける。
救急隊も駆けつけてくる。
放水で一緒にずぶ濡れになった幼い女の子を若い母親に渡す。
女の子は少し髪の毛を焦がしているだけのようだ。

翌日、出社すると恵理ちゃんも店長も後退った。
「昨日、テレビで見たよ。背中燃えてたけど、大丈夫なの」恵理ちゃんは少し楽しそうだ。
美紗は、少しつまらなそうに
「鉄の皮膚にやけどはないのよ」といって、大きく溜息をついた。

***

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