プロフェッショナル・ゼミ

コーラさんと呼ばれる男《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【10月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《平日コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:山田THX将治(プロフェッショナル・ゼミ)

コーラさんは、誰からもこの呼び名でしか呼ばれない男だ。
コーラさんは、絵を描くのが大変お上手だ。
コーラさんは、小生の恩師だ。

小生の母校では、在学中から先生を「○○先生」ではなく「○○さん」と呼ぶ風習が有った。いつから始まったのか、知る由も無いが、先輩達もそう呼んでいたので、いつしか小生達もそれに倣う様になった。
その上、親しい教師に対しては、‘さん付け’の上に、ファーストネームやニックネーム(あだ名)で呼んだものだった。
“ジョーさん”(伊藤丈一先生)、“ボケさん”(天然ボケだった先生)、“ヘータさん”(平田先生)といった具合だ。同じ名字の先生が、複数在職されていた時もだ。
男子校だったせいか、教師と生徒の距離感が、過剰でもなく疎遠でもなくとても良い関係だったと思う。‘さん付け“呼びは、その距離感の表れだった。

コーラさんは、本名、中村光良(なかむらみつよし)という。
何故それが、‘コーラさん’と呼ばれるようになったかには、諸説存在する。
小生が聴いたところでは、コーラさんが下戸だった為にそう呼ばれるようになったのもこと。
周りの教師が連れ立って酒宴を開いた時に、一人コーラを飲んでいた為そう呼ばれるようになった説が有力だ。何故コーラばかり飲んでいたのかは定かではないが、当時はまだ烏龍茶が世に出回っておらず、オレンジジュースでは女の子っぽくて何だか気恥しかったらしく、やむなくコーラに落ち着いたそうだ。
もう一つの説は、本名の‘光良’を音読みしたのが‘コーラ’と呼ばれるゆえんというものだった。これも一理ありだが。

小生の母校は男子校だった為、教師は看護教諭と図書館教諭を除いて全員男だった。これは女性を差別していたからではなく、当時の粗野な男子生徒相手では、教師は男で無ければ務まらなかったからだろう。
そんな男ばかりの職場なので、教師の集まりでは必ず酒が出た。今では考えられないことだが、まだ緩やかな時代だったので、恩師たちの酒量は半端なかった。
冗談抜きで、二日酔いで教壇に立つのが当たり前で、それを咎めても始まらない状況だった。何しろ、一校時目などは、近寄っただけで酒臭さが分かるほどだった。三校時までは、何故か自習が多かった。教師が二日酔いで、まともに授業どころではないからだった。
五教科や美術は、自習で済んだが、一番酷かったのは体育だ。或る体育教師などは、点呼が済んだら「俺が、いいと言うまでグラウンドを走れ!」と言ったきり、グラウンド脇のベンチに横になっていた。小生達は、ただただ一時間走らされていた。現代なら、虐待となって問題になることだろう。
その内、小生達も知恵を付け、自習時間は勝手に他の科目を勉強し、体育は教師が突然起き上がっても見えない木陰に隠れたりしていた。

そんな酔っ払い教師でも、専門の科目以外に特技を持つ教師が居たりした。書道で日展に入選した英語教師、元ハンドボールの日本代表だった英語教師、ウッドベースが得意でたまにライブハウスに出演している理科教師といった具合だった。
中でもコーラさんは、絵画以外にも卓球が得意だったり、クラシックギターがプロ級だったりしていた。そういえば、卓球部とクラシックギター部の顧問を担当していた。
コーラさんの絵は、お住まいになっている川口で、市民展覧会等の入選の常連だ。先日も、コーラさんの画が市の展覧会で入選したとのことで、川口まで出向いて見学させて頂いた。数年前に定年退職したコーラさんは、孫の子守のかたわら、近頃の創作活動が盛んだからだ。
展覧会の帰りに、コーラさんが常連になっている珈琲豆屋さんに連れて行って頂いた。珈琲豆を炒ってもらっている間、店内を眺めるとコーラさんの絵が掛けられていた。仏像を模写したものと、珈琲屋さんらしく珈琲を入れる‘麻袋’を描いた油絵だった。
その絵を眺めていると、珈琲豆屋の店主が
「中村先生は、どんな美術の先生だったのですか?」と、背後から声を掛けて来た。
小生は、頭の上に“❓”を立て、何の事か理解出来ないでいた。
「コーラさんは、美術の先生じゃありません。数学を教えて頂いてました」
「えっ!? そうなんですか! てっきり、美大とかを出た美術の先生かと思ってました。そういう風貌をなさっているし」
「はい。うちの学校は、変わった教師ばかりでして。コーラさんは特に変わっていて、卓球とギターも得意なんですよ」
小生は、自分の事の様に自慢気に言ってしまった。コーラさんが、ギターが得意と聞き付けた店主は、さっそく店でミニコンサートをしてくれと頼んでいた。
川口は、思いのほか文化的な街だ。

小生の母校は、一貫校だったので中学と高校で、教えてもらう教師に区分けが無かった。6年間受け持って頂いた先生もいれば、中学時だけ、高校時だけの先生もいた。同じ学校に6年も通っていると、教えて頂いたことが無いのに、妙に覚えている先生もいる。
コーラさんは、小生等の学年が高校一年に成った時から受け持って下さった。教えて頂いたのは、数学、それも代数系の科目だった。
小生は文系だった為、考えてみれば高校2・3年の時にしか、コーラさんに教えて頂いて無かった。それでも、とても印象に残っているのは、何故だろう。卓球も、クラシックギターも縁が無い小生なのに。
思い返すと、中学時代から夏休みに行われていた、補講授業で教えて頂いたからかもしれない。コーラさんの授業は、とても解り易く、お蔭で小生は、中学の時から数学が得意になった。文系に進んだにもかかわらずだ。

コーラさんは、普段から厳しくはないが決して積極的に笑わない、笑わせない教師だった。良い意味で、生徒に媚を売らない姿勢だった。
それでいて、授業中は眠くはならなかった。小生達が、理解するのを楽しんでいる様だった。変わった(特徴がある)授業をする先生が多かった中で、コーラさんは、実に正当な授業だったと思う。
ただし、試験の問題は難しかった。特に年に数回行われる学力テストは、とても解けたものではなかった。難し過ぎて、手も足も出ない程だった。或る年など、学年の平均点が、20点にも満たなかった。平均点がですよ!
しかし、そのテスト後のコーラさんの解説を聞くと、ちょっと工夫すれば解けることが分かるのだから不思議だ。その効果は絶大で、小生は今でも、センター試験の数学(ⅡBまで)なら、かなりの点数を取ることが出来る程だ。

小生が中学・高校生だった頃、休みともなると教師の御自宅に遊びに伺うのが普通だった。先生達の奥様方も、歓待してくれた時代だった。
コーラさんの御自宅にも、よく伺った。コーラさんは当時から、御自慢のステレオを御持ちだった。小生等には手の届かない、管球(真空管のこと)式アンプや、“タンノイ”という輸入品のスピーカーが備わっていた。数人で各自レコードを持参して伺うのが、恒例だった。
もう一つの目的が、コーラさんの御令嬢に逢うことだった。まだ小学生だったが、大人びていて将来美人になることは請け合いだった。コーラさんの奥様が、とても美人だったからだ。
そわそわしている小生達に、目ざとく認めたコーラさんは
「あ、娘は塾に行ってるよ」
等と、イタズラで笑顔を作られていた。小生達は、がっかりした。男子校の生徒なんて、こんなものだ。男子高校生なんて、単純だ。

コーラさんは、御宅に御邪魔し音楽(クラシックが主)を聴き入っている小生達に、いつも珈琲を淹れてくれた。それも、今では珍しいパーコレーターという器具で。
「折角の珈琲だから、ブラックでいけよ。砂糖やミルクを入れた珈琲は、子供が飲むもんだぜ」
間接的に、大人の男を教えて下さった。今でも小生が、ブラックでないと珈琲を飲むことが出来ないのは、コーラさんの影響だ。

小生達が、大学に進んでからコーラさんに関する素晴らしい情報が来た。愛車をブルーバードからいきなり、ポルシェに乗り換えたというのだ。いつもは集団行動なんてする訳ない連中が、大挙してコーラさんの御自宅に集まった。
伺ってみると既に、御自宅の前に漆黒のポルシェが、爆音を響かせていた。小生達は、それこそ子供の様に周りで騒いだ。時代は、スーパーカーブームだった時だ。
運転免許取りたてで、運転が楽しくて仕方ない頃の小生達に
「クラッチを減らすから、下手くそなお前らには運転させない」
笑顔でそう言うと、代わる代わる運転席に座らせてくれた。実際、そんな高級車を怖くて動かせなかった。
順番に助手席に乗せて頂き近所を一周して下さった。小生達は、いつかはこんな車が持ちたいと思ったものだった。

在学当時、数学を教えては頂いたが、コーラさんは小生にとって“人生のスタイル”を教示して下さったといえる。趣味が合ったからだろう。
その上、こうして、今でもお付き合いが出来るのは、
「卒業後は同じ社会人なのだから、目線を揃えろ」との教えから来るのかもしれない。
コーラさんは、こうも仰っていた。これは、卒業式で小生達に挨拶された時のことだ。
「俺は教師という、狭く上から目線で済む世界しか知らない。お前らは、広い社会に出て、これからは俺に、社会の常識を伝えてくれ」
今でも耳の残る、御言葉だ。

現在では、趣味の関する会話を、定年退職し引退したコーラさんとすることが多い。コーラさんは既に、後期高齢者になろうとしている。先日も、
「○○って映画は、観た方が良いかな? 俺の好みに合うかな?」
等と、映画フリークの小生に質問して下さった。
「△△でやってますよ」と知らせると
「遠くて行き辛い。近場の昼間が良い」と、わがままを言ってくる。こればかりは仕方が無いので、昼間の上映が有り車で行けるシネコンを知らせた。住所を知らせれば、タブレットのナビでとこへでも行けるらしい。大した高齢者だ。
「夜は外出しないことにしてるんだよ。徘徊って、孫から言われるから」
夜出歩かなくなった理由を、お茶目に語るコーラさんは、約束通り小生と視線が合うようになっていた。
コーラさんは現在も、小生の仲間の誰かに教わり、タブレットを自在にお使いになる。ナビが使えるのは、そのせいらしい。PCは以前から、得意だったようだ。流石に、理科系の教師だ。ただし、携帯は未だにガラ携だ。スマフォの大きさだと、老眼が進んだ眼には拡大しないと読めないらしい。拡大が面倒なら、ガラ携で十分だということだ。
最近では、恩師で唯一、SNSで小生達とも繋がっている。連絡は、主にLINEだ。
小生がよく、天狼院のことをFacebookにアップするので、天狼院のことには興味を御持ちだ。この記事が、Web天狼院に掲載されれば、間違いなくお読みになるだろう。
その節は一度、天狼院にお連れしなければならないだろう。
何かのゼミに、通いたいとか言ってきたらどうしようか。

コーラさんは現在、孫娘が通う地元の中学に通っている。妙な徘徊ではなく、卓球の指導をしに行くらしい。
「男ばかり相手にしてきたから、女の子の扱いが分からん」
等と言いながら、埼玉県の大会で好成績を収めたことを、嬉しそうにFacebookにアップしたりしている。完全に“ジジ馬鹿”である。
数学の教師であったことを知らなかった卓球部員が、コーラさんのお孫さんから数学担当であったことを聞き付け、最近は卓球の練習後、試験前に数学も教えてもらっているらしい。担任の教師には、迷惑な事だろう。なにせ、小生が受けた名講義を、一部の生徒だけにするのだから。
それにしても、いつまでもお元気で何よりだ。小生も安心する。

ある時、小生がFacebookに愛車の写真をアップした。車検を更新した時の物だ。
コーラさんは珍しく、いきなり電話で
「おい、それ何て車だ?」と言ってきた。
本心は、御自身がスポーツカーを手放した現在も、運転してみたいらしいのだ。
仰せの通り、愛車でご自宅に伺った小生を、コーラさんは玄関の外で御待ちになっていた。
「年寄りに、このクラッチは硬くて踏めませんよ」
小生は、ポルシェの時の敵(かたき)を取ってみた。
「大丈夫だ」ひとこと言うと、コーラさんは早速運転席に乗り込んだ。
楽しそうにステアリングを握り、とても後期高齢者とは思えぬアクセルワークとクラッチワークを見せた。
助手席の小生は、子供の様に楽しむコーラさんに、この愛車のエンジンは同級生(同時にコーラさんの教え子)が開発したこと、整備は自動車工場を営む別の同級生がしてくれていることを話した。
「おぉ、そうかい。俺もお前らみたいな悪ガキを受け持って、苦労した甲斐が有ったというものだ」
妙に感慨深いことを仰っていた。

コーラさん、いつまでもお元気で。
小生の恩師で居て下さって光栄です。
素敵な人生の手本が有って、小生は幸せです。
コーラさんとの付き合いで、少しは「仰げば尊し」の歌詞が理解る様に成りました。
もし小生が、他の同年代の男より、少しは楽しい人生が送れたのなら、それはきっとコーラさんのお蔭です。

それと、一つだけ約束して下さい。
コーラさんに‘もしもの’ことが有ったら、一枚だけ絵を小生に残して欲しいのです。
御願いします。これだけは。

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