プロフェッショナル・ゼミ

壊れない女は、夜の公園で身を竦ませる《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【10月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《平日コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:西部直樹(プロフェッショナル・ゼミ)
※この記事はフィクションです。

秋は、好きな季節だ。
高い空、落ち着いた色に染まる街、
暑くもない、寒くもない気候。
食べ物は美味しいし、なにをするのも気持ちがいい。
仕事だって楽しい。仕事仲間は愉快だし、お客さんに会えるのは嬉しい。
ただし、この通勤の満員電車以外は。

電車の到着を待ちながら美紗は、溜息をついていた。
人に押され、揉まれ、あえぎながら乗り込む。吊革に掴まることができるのは、週に1回あるかないか。
朝から汗臭い人や、朝から餃子でも食べたのかという人や、背負ったリュックで脇腹を小突かれたり、足を踏まれたり、そして、痴漢にあったり、やれやれ。
今日もギュウギュウに押される。でも今日はなぜだか不愉快さはない。
爽やかだったり、甘やかだったり、涼やかだったり、清らかだったりという香りに包まれているからだ。
美紗の周りは女性ばかりだった。たまたまなのか。しかも、美紗の周りの女性たちは、美紗をみていた。
「あの~」制服を着た少女が美紗に話しかけてくる。
温和しそうな可愛らしい少女である。
「先日は、ありがとうございました」少女が頭を下げる。まわりの女性たちも「ありがとうございました」と頭を下げてくる。満員電車の中で突然はじまった感謝の言葉に、周囲の乗客は怪訝そうに見ている。
美紗も訝しげに女性たちを見る。何のことだ?
「先週、助けて頂いて、本当にありがとうございました」可愛らしい少女が頬を赤らめる。
少女の制服に何となく見覚えがあった。先週、いささか体重オーバー気味の男にくっつかれて困っていたのだ。触られているな、と分かったので、その男のベルトを持って持ち上げた。男は天井近くまで持ち上げられて、何が起こったのか分からず、うなり声を上げた。しかも、ズボンのチャックは半ば空いままで。ベルトを持たれたので、ズボンが股間に食い込み苦しそうだった。0.1トンを超えていそうな男をつるし上げたままホームにおり、ベンチに半ば叩きつけるように座らせ、耳元で呟いた。「チャック開いているよ」と。
「わたしも、先々週……」「わたしも……」
美紗は、ここしばらく寄ってくる痴漢野郎たちを締め上げたり、電撃を喰らわせたりしていたのだ。
美紗の周りにいるのは、痴漢の被害に遭っていた女性たちだったのだ。
いえいえ、どうもどういたしましてと、美紗は突然のことにへどもどしながら、頭をかく。
感謝されて悪い気はしないけれど、電車の中でというのは、なんとも照れくさいというか、恥ずかしい。
頬が赤らむ。実際には赤くはならない、鉄の皮膚だから。温度が上がるという感じか。
「いえいえ、どうもどうも」と腰を引きつつ、いつもの駅で降りると、足早に職場に向かった。

70億人に一人の皮膚が鉄になってしまう鉄皮症になってから、体重がいささか増えたのが気になっていた。でも、気持ちが上向くと身体も軽いように感じるのだろうか。可愛らしい少女の赤らむ頬を思い出して、頼まれて取ったツーショット写真を見ながら、少し口もとがにやけた。思わずスキップしてしまった。そして、トンと地面を蹴ったとき、着地まで時間がかかるなと思った。地面に着いたとき、周囲から「オオ~!」というどよめきが聞こえた。
えっと見渡すと、職場のビルが目前にあった。駅から職場まではわずか5分の距離とはいえ、さっき駅から出たばかりなのだ。駅から職場までには、大きな通りがある。そうだ、横断歩道に向かうところでスキップしたのだ。スキップの一歩で、すぐ職場が目の前にきたのだ。
「美沙さん、スゴーイ!」と恵理ちゃんが駆け寄ってきた。今日は同じ早番だ。
なにか、凄いことした? と美紗が戸惑っていると「だって、道路をひとっ飛びしたじゃないですか」と、手を握りぶんぶんと振り回す。「スーパーマン、いや、ワンダーウーマンみたいでしたよ」と、と両腕を顔の前で交叉させる。危なかった、スマホを見たままスキップしていたから、下手すると道路の向こうのビルにぶつかっていたかもしれない。安堵の息を吐くと、美紗は慎重な足取りで、仕事場へ向かう。まわりで呆然としている人たちは無視することにした。

早番でもないのに来ていた店長を捕まえて、恵理ちゃんは先ほどの美紗のワンダーウーマンぶりを話している。店長が少しずつみさとの距離を広げているのは、気のせいか。美紗は店の前に積まれた段ボール10個ほどを一度に運んでいる。恵理ちゃんはカフェの準備で、大きな氷をアイスピックで細かくしていた。
「今時、アイスピックで氷を砕くのって、どうなんですかね」と、手にしたアイスピックを美紗の手の甲に振り下ろした。
「あ、だめ」と店長が声を上げる。
「ダメだよ、恵理ちゃん、アイスピックが駄目になるじゃない」美紗の手の甲の上で、アイスピックの先端は曲がっていた。美紗の手には傷はない。
「美沙さんの肌は、ますます強くなっていますね」恵理は感心しきりだ。
美紗はバッグから小さな砥石を取り出しアイスピックの先端を研ぎ始めた。
「美沙さん、それなんですか?」恵理ちゃんが不思議そうに砥石を指さす。
「砥石、包丁とかを研ぐ石だよ」店長は驚いていた。
「ほら、爪も鉄なのよ。普通の爪磨きや爪切りでは駄目なのね。だから、砥石なら」
話をしているうちにアイスピックの先端は研ぎ上がった。
「ヒャー、アイスピックも敵わない女って、凄いですね」と感嘆の声を上げながら、恵理ちゃんは淹れたての珈琲を持ってきた。
「わたしのおごりです」
ありがとうといって、美紗は一口飲だ。
「熱っ! 口の中やけどしちゃった」美紗が軽く恵理ちゃんを睨む。
「やけどしちゃうんですか? この間は火の中でもやけどしなかったのに」
「身体の中は、鉄じゃないのよ」と美紗は口を開けて、剥がれた上顎の皮膚を見せる。
「いやあ、やけどした皮膚は見たくな~い」恵理ちゃんは逃げ出した。
二人のじゃれあいを見ていた店長は、大きな溜息をついた。
「まあ、そこまでにして、そろそろ開店だよ」と手を鳴らすのだった。

満員電車で女の子たちから感謝の言葉をもらい、ちょっとワンダージャンプ(恵理ちゃん命名)をしてしまったけど、あとは平穏な一日になるはずだった。遅番の千里ちゃんが来れば、夜の7時には帰れるはずだった。でも、千里ちゃんは熱を出してお休みに。恵理ちゃんは料理教室があるといい、店長は組合の会議だという。もう一人の遅番はアルバイトの吉岡君だ。社員がいないことになってしまう。仕方ない、と美紗は残業することにした。鉄の女だ、たまに一日働いてもいいだろう。

朝の満員電車にはうんざりするけれど、明るい中だし、人は多いし、身の危険を感じることはない。しかし、帰り道は恐い。
駅からマンションまでは、住宅街と回廊型公園を10分ほど歩く。
静かな住宅街と緑が豊かな公園は、朝は爽やかでいいのだが、夜は静けさと緑の暗さが不気味だ。
住宅街は空き家も多く、街灯も少ない。公園はさらに暗い。公園の入り口に「痴漢に注意!」という看板にさらに恐ろしさが増す。
美紗の皮膚は鉄で固く強くても、心は鉄でできてはいないのだ。

仕事が終わるのは、遅番だと10時を過ぎる。
夜更け近くの住宅街、公園は人気もなく、暗い。
暗い道を少し早足で歩く。
思い出したように吠える犬の声にびくつく。
公園を数分歩けば我が家だ。マンションというには気が引けるけれど、一応鉄骨造りのアパートに入れば、安心だ。
公園は静かすぎる。静けさ恐い。美紗は携帯で音楽を聴くことにした。イヤホンを耳に刺せば、爽やかなアイドルの歌声が聞こえる。美紗は女性アイドルが好きだった。可愛らしく爽やかな少女たちの姿に日頃の疲れも癒される。彼女たちの歌を口ずさんでいた。

公園の出口、少し広い道路にでた。家まであと少し。
イヤホンから流れる歌声に、ワゴン車が隣に来たことに気づかなかった。
ワゴン車はフロントガラス以外には暗いシールが貼られ、中が見えない。運転席の男がウィンドウを下ろし、話しかけてきた。
「お嬢さん、駅はどっちかな。道に迷っちゃた。教えて」
口のまわりにひげを生やし、夜だというのに薄い色のサングラスをしている、いかにも軽薄な若い男だった。
突然のことに、美紗の身体は固まった。
美紗が顔を向ける。運転席が見えた。ナビが付いている。
「ナビが付いてますね。それでわかるんじゃ……」と言い終わらぬうちに、後部席のスライドドアが開いた。
目出し帽を被った二人の男が美紗を捕まえ、車に引きずり込む。
あっと声を上げる間もなかった。
ワゴン車の後部は座席がフラットになっていた。美紗は仰向けに押さえ込まれた。一人が美紗の両肩を両膝で押さえ、髪の毛を触っている。もう一人は脚を押さえ、スカートの中に手を入れて下着を下ろそうとしていた。
「もう、しちゃうの、俺にも残しておいてね、あんまり汚すなよ」運転席の男が笑いながら話しかけてくる。
呆然としていた美紗も事の次第が飲み込めてきた。
これはかなりまずい状況だ。
火も刃物もアイスピックも恐くないけど、身体の中は生身だ、というか生肉のままだ。
脚を押さえていた男は、ズボンを脱ぎだした。
恐怖と怒りが身体を駆け巡る。
肩を押さえていた男が、美紗の頭を脚の間で挟み、腕も押さえる。
二人の男の下卑た笑いが車内に満ちる。
男が覆い被さってきた。
恐怖に毛が逆立つ。
美紗の頭を押さえていた男が、「ぎゃッ」と声を上げ、倒れた。
覆い被さってきた男も、「ふぎぃー」と呻いて、股間を押さえてうずくまる。
美紗の毛が逆立っていた。ピンと、ハリネズミかヤマアラシのように。
逆立った毛を触ってみた。固く、針金のようだ。
二人の男たちは、股間を押さえのたうち回っている。
運転席の男は、人気のない道端に車を止め、「何をした!」大きな声を上げ、振り返る。
美紗は自分の髪の毛を数本引き抜き、振り向いた男の肩と座席を固い針金のような髪の毛で刺し貫く。細い髪の毛が男の肩を貫通し、運転席の背もたれから突き出す。髪の毛の両端をより合わせ、男を座席に縫い付けた。
「こういうこと」
運転席の男は、シートから身を剥がそうと動くが、さらに痛さを増すだけだった。
のたうち回る男たちを車の片隅に放り投げる。
「忘れてた……」美紗は呟いた。ヤワな男など片手で持ち上げられる。二人でも投げ飛ばせる。もしかすると、この車も持ち上げられるかもしれない。いや、ワンダージャンプで逃げられたかもしれない。
恐怖にすくみ上がっていたのだ。やれやれと溜息をつきながら、美紗は、スマホを取り出し、110番に電話をかけた。ついでに救急車もお願いした。

翌日、美紗は遅番だった。電車ではゆったりと席の座り、駅から仕事場までは、ゆっくりと歩いた。スキップはしない。
仕事場では恵理ちゃんがレジをやっていた。
美紗が髪の毛をポニーテールにして更衣室から出ると、すかさず恵理ちゃんが、美紗の髪を触ってきた。
「鉄の肌でも口の中は、ただの肉、そして、髪はサラサラ。どうして?」と小首を傾げる。
「どうしてからしらね、まあ、そうでもないだけどね」美紗は昨夜のことを思い出して、クスリと笑った。

***

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