プロフェッショナル・ゼミ

おっぱい、そして立ちあがる戦士たち《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【2月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《平日コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:木佐美乃里(プロフェッショナル・ゼミ)

「あの人のおっぱいがね……」
「いや、おっぱいが、っていうよりも……」
「最初から、難しいおっぱいだと思ってたんだよ……!」
「ああ、もう! おっぱい!」

しまった……つい、大きな声が出てしまった。怪しまれるだろうから、コソコソ小声で話していたつもりだったのに。がらんと空いたカフェの片隅。離れたガラスのつい立ての向こう側から、女子高生2人組の視線が冷たい。
わたしたちは、たぶん少なく見積もっても、1日に50回は「おっぱい」という単語を発している。なんの恥ずかしげもなく「おっぱい」と言う。だってちっとも恥ずかしくなんかないもの。おっぱい、おっぱい。ついこのあいだは、夫をつかまえて、「おっぱいが難しくてさあ!」愚痴をこぼそうとしたら、「そんなにはっきり、おっぱいとか言わないで……」と、しょんぼり小さな声で言いながらドアの向こうに消えてしまった。人の話は最後までちゃんと聞いてほしいものだ。
わたしたちは、ヒトサマのおっぱいをもんだり、乳首をつまんだり、ひっぱったりするのも大事な仕事のうちだ。1日に何人のおっぱいをもんでいるだろう。
だけど、別にエロティックな職業ではない。

「ぎゃー!ぐわぁー!」
「助産師さん、助けてください。赤ちゃんが泣きやみません!」
産後の新米お母さんから、悲痛なコールがある。赤ちゃんの泣き声をバックに、お母さんのほうが泣きそうな声だ。
赤ちゃんって、本当に思い通りにならない。泣いてもいいときには、天使のような顔で、物音ひとつ立てずに、すやすや眠っているのに、こちらが手が離せないときに限って、火がついたように泣きわめく。
「三浦くーん! どうして泣いているのかなあ! ほら、見てごらん、中川くんも、谷ちゃんも、みーんなお利口さんに寝てるでしょう。三浦くん、さっきミルクは飲んだばっかりだし、おむつも濡れてないでしょう? わたし、他にもお仕事があって忙しいの。三浦くんだけ抱っこしてるわけにいかないんだよね。抱っこしてほしくて泣くのは、ママにだけにしてちょうだい。はい、眠くなーる、眠くなーる」
夜勤中、新生児室であずかっている赤ちゃんに、真剣な顔でお願いしてしまうこともある。最終的にはおまじない頼みだ。
「木佐さん、赤ちゃんだから。交渉してもムダだから」と笑われながらも、やめられない。
本当はこの子、何もかも分かってて、わたしに意地悪してるんじゃないだろうかと思うと、つい真剣にお願いしてしまうのだ。それで大人しく寝てくれたことは1回もないのだけれど。
それに、赤ちゃんは、昔好きだった、つれない彼氏くらい気分屋だ。飲んでほしいときには、頑として口を開かず、そっぽを向くくせに、寝てほしい夜に限って、いつまでたっても眠らない。こちらは翻弄されっぱなしだ。おっぱいにしたって、最初から上手に吸える子もいれば、お母さんの乳首の形も、あげ方も悪くないのに、何故だか上手に口を開けてくれない子もいる。放っておくといつまでも寝ている子もいれば、何をやっても泣き止まない子もいる。生まれつきある程度性格は決まっているという説に一票だ。

しかも、女のひとのおっぱいは、人の顔くらい、全然違う。
パッと見てイケメン、とかこれはなかなか偏屈そうだ、と分かる場合もある。それでも、ソース顔とか塩顔みたいに、おおまかな分類はできるけれど、人によって全然違うのだ。
そこに加えて、相性もある。おっぱいを吸わせるのは、お母さんと赤ちゃんの共同作業だ。才色兼備、わたしたちからみると非の打ち所のないおっぱいでも、なんだか赤ちゃんがうまく吸えないこともある。その反対で、これはなかなか、お相手は苦労しそう、と思うおっぱいでも、あかちゃんが抜群に器用で、上手に吸える場合もある。
それが、わたしたちが、うわごとのように「おっぱい……」「おっぱい……」と日々頭を悩ませてしまう理由でもある。

そんななか、佐々木さんは、傷だらけだった。比喩ではない。
乳首が赤ちゃんに吸われて切れているのだ。左は薄く血がにじんでいるし、右はもうカサブタになっている。赤ちゃんの乳首を吸う力は、掃除機のダイソン並みだ。かわいい顔にだまされてはいけない。「イテテテテテテ……!」吸いつかせるときにうまくいかなくて、授室にどこかのお母さんの悲鳴がこだますることはしょっちゅうだ。
お産のときに裂けてしまった産道の傷もあるし、本当に満身創痍だ。

でも、悲しいけれど、これは産後のお母さんにはよくあることだ。
佐々木さんの場合はこれだけではない。10歳年上のご主人は家事全般ができないという。ご主人のご両親は、もちろんさらに高齢で、要介護の認定を受けている。けれど、自分の家に他人が入るのは嫌だと、訪問介護などは拒否しているのだそうだ。加えて、佐々木さんのご主人は自営業で忙しくて家を空けがちで、その手伝いもしなければならないという。佐々木さんは、育児も家事も介護も家業の手伝いも、全部ひとりでやらなければいけなかった。

そこに、おっぱいだ。
おっぱいがうまくいけば、育児の8割はうまくいくという人もいるくらい、母乳育児をしたいと思っている人にとって、これからの育児生活を左右する大事なことだ。
なのに、佐々木さんのおっぱいはうまくいかない。乳首のかたちがあまりよくないというのもあるし、赤ちゃんも口を大きく開けるのが苦手みたいだ。ベテランの助産師も加わって、あれこれ試してみるけれど、いまひとつうまくいかない。佐々木さんの表情にも、疲れがたまってきているのがわかる。

わたしたち助産師は、おっぱいはもう、諦めてもいいんじゃないかと思った。
母乳育児だけが育児じゃない。おっぱいなんて、これから長く続いていく育児生活の、ほんの一部だ。それに、入院中、ここまで弱音も吐かずに、ずっとがんばって、少しだけど、母乳だって直接あげられた。
佐々木さんの場合、育児も家事も夫の仕事の手伝いも、さらに介護もある。
おっぱいにこだわらなくても、ミルクだっていいんじゃないかな。余裕があるときに、スキンシップの一部として、おっぱいがあげられたらいいんじゃないか……そんな結論が出そうだった。

「わたし、おっぱいがしたいです」
佐々木さんは、まっすぐこちらを見てそう言った。
退院後、どのように赤ちゃんにおっぱいやミルクをあげていくか、話をしたときだ。
その目には、強い光があった。疲れがたまっているのだろう、顔色だってよくないにもかかわらず。
佐々木さんは、もの静かな人だった。それまで、何かたずねても、「それでいいです。お願いします」と言う人だった。
けれどその日、ミルクでもいいのでは、というわたしの言葉をさえぎるように、
「うまくできないけど、でもわたし、おっぱいがしたいんです」
ともう一度いった。

育児も家事も自分ひとりで全部しないといけない。義両親の介護もある。夫の手伝いもしないと。
でも、わたしが、自分が、したいと思ってできるのは、おっぱいだけだから。
おっぱいがあげられるのは、わたしだけだから。
わたしからおっぱいを取り上げないで。
わたしの自由を取り上げないで。

そんな悲鳴のような声が聞こえるようだった。佐々木さんの目のふちには涙がたまっていて、それがこぼれてしまわないように、まばたきを我慢しているように見えた。

なんて、きれいなんだろう。なんて、強いんだろう。なんて、かっこいいんだろう。
まるで、セーラームーンだ。いつまでもわたしたちの憧れ、セーラームーン。
小さい頃、親や保育園の先生が読み聞かせてくれる絵本に出てくる、お姫様は好きじゃなかった。きれいなドレスを着て、安全なところで待っているだけで、弱っちくて、つまらないから。もっとかっこいいお話が聞きたかった。テレビにセーラームーンが登場したとき、だからわたしたちは、夢中になった。わたしだって戦う。もう誰かに守ってもらわなくていい。大切なものを守るために、ほしいものを手にするために、自ら立ち上がって戦うんだ。大人になってからも、セーラームーンはずっとわたしの憧れだった。
佐々木さん、いま、セーラームーンになったみたい。なんてかっこいいんだろう。

そしてわたしたちも、立ち上がった。
佐々木さんには、退院してからも、数日おきに母乳外来に通ってもらい、おっぱいをあげる練習をすることになった。ベテランの助産師たちが、入れ替わり相談にのる。ちょっとした待ち時間や、おっぱいをあげている最中にも、こっくりこっくり眠ってしまうほど、疲れているようだったけれど、佐々木さんは休まず通いつづけた。
「ここに来ることが、わたしの自由で、希望なんです」と、あるときぽつりと言った。
仕事で忙しいはずのご主人も、佐々木さんの熱意に押されてか、車で送り迎えしてくれるようになった。

そうして、母乳だけでうまくいくようになりました、めでたし、めでたし、と言えればよかったけれど、現実はそう甘くない。
佐々木さんのあげかたも上達し、赤ちゃんの吸い方も、少しずつ上手になった。それでも、母乳だけで大丈夫、というほど赤ちゃんがおっぱいを飲むことはできなかった。それに、家事に介護に、夫の仕事の手伝いにと忙しい中、授乳の時間をしっかりと確保することは困難だった。おっぱいは、あいだが3時間以上あくことが続くと、出る量が落ちていってしまうのだ。このままでは、佐々木さんも身体を壊してしまいそうだった。
佐々木さんは、あのときと同じように、静かに、だけど、きっぱりと言った。
「今の状況で、何をどうするのがいちばんいいか、自分で考えました。できるところまで、がんばってみることができて、よかったです。母乳だけっていうわけにはいかないけど、できる範囲で、がんばろうと思います」
「この子がいるから、がんばれると思います」
その目には、今度も迷いはなかった。
戦士には、諦めない心も大切だけど、クレバーさも必要なのだ。今のこの状況で、自分ができること。
佐々木さんは、賢くて、強くて、その姿は、やっぱりセーラームーンみたいにかっこよかった。

わたしはいまでも、母乳育児だけがすばらしいとは思わない。赤ちゃんがきちんと成長していくために必要なものの、選択肢の1つにすぎない。何かの事情があって、ミルクだけでも問題なく成長していく子はたくさんいる。
それに、みんながみんな、赤ちゃんをかわいいと思えるわけではないと思う。母性が生まれながらに備わっているなんて幻想だ。
わたしなんて、数時間よその赤ちゃんを預かっているだけでも、あんまり泣かれたりすると、うんざりしたり、イライラしたり、優しい気持ちになれない、そんなことばっかりだ。
だけど、お母さんたちは、みんなかっこいい。「赤ちゃんが泣き止みません」と泣いていても、「傷が痛くて」とヨタヨタ廊下を歩いていても、「全然眠れませんでした」とクマをつくって顔色最悪でも、退院の日に赤ちゃんを抱っこする姿が誇らしげでも、みんなかっこいいと思う。
迷いながらでも「わたしが守る」と赤ちゃんを抱きしめる姿は、(かつて)美少女(だったに違いない)戦士だ。へこんでも、何度でも立ち上がって戦っている。

そんな戦士たちの親衛隊の下っ端として、わたしも腕を磨かなければならない。
わたしに何ができるだろう。あの人のおっぱい、あの赤ちゃん、乳首の硬さか、抱き方か、赤ちゃんの口の開け方か、うーん……、うーん……。
そしてまた、町の片隅で、「おっぱい……」「おっぱい……」とささやき続ける日々は続いていく。

***

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