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小学生から『自虐ネタ』が癖になり、高校で全盛期を迎えた自虐ピエロ(私)の現在


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:秋江愛海(ライティングゼミ・平日コース)

 
 
初めて自虐ネタを口にしたのは小学校高学年の時。確か「私みたいなブスなんて」という典型的なものだった。この時はまだネタという意識はなく、ただ単にいじけた気持ちでこう言った。それがちょっとウケた。
ちょうど自分の身なりが気になってくる頃で、同時に「自虐の目覚め」がやってくる。誰が言い始めたか、自分の弱点や容姿をいじることで笑いを取ろうとするこの手法が流行った。実際はネタと言えるほど技巧的なものではなく、大人が聞くと面白くもなんともない。当時この笑いの採点ポイントは「自分のことをどれだけひどく言えるか」この一点に尽きた。小学生にとって、自分の卑屈な気持ちを公にしてしまおうとするあり方は全く新しく、自虐ネタを使いこなすことが大人への近道のような気にもなっていた。
質より量の大自虐時代は中学生まで続いた。例えば、学校近くに変質者が出没し話題となっていた時は、「変態が後ろから近づいてきたが私の顔を見て逃げた」と言うネタが私の鉄板であった。この時ばかりはかなり話を盛った気もする。今思うと痛々しい限りだ。
 
高校生になると自虐癖はエスカレート、全盛期を迎える。郊外の小さな村に生まれ育った私は、高校入学と同時に人生初めてのクラス替えを経験した。「どうしたら友達が出来るか」少女はひたすら悩んだ。そんな時、試すつもりで小出しにした自虐ネタ。これがたまたまウケた。
これはいい。自虐キャラを演じていれば、マイナスの印象を抱かれる前にとりあえず“変なやつ”として認識してもらえる。そうすれば、それ以上にもそれ以下にもならない。仲の良い友達の一人にはなれなくとも、クラスに一人いる変な友達枠での存続が可能である。自虐はまさに私の悲しき処世術であった。
すぐにその便利さに病みつきになった。自虐系キャラが定着すると、イケてなくてもモテなくても、自らそのポジションを選んでいるかのように見える。クラスメイトの評価からさりげなく逃れることが可能だ。
また、女子の自虐は「私はモテることからおりています」という明らかなポーズとなる。これでマウンティング(※女同士の格付けバトル。早いと小学生から始まる)の枠外に出てゆき、戦線から離脱することが出来る。マウンティング女子にとっては敵が一匹減る。相互にハッピーな仕組みである。
さらに自虐が転じて、ゴミ箱の中に隠れてみたり、お昼休みに納豆を食べるという世界観に至った。こうなるともう、ほとんどピエロである。若手YouTuberのようなおどけ方をしては、周りを楽しませているような気になっていた。(多分ほとんどが思い上がりである。納豆嫌いだった人にお詫びしたい)いや、面白いかどうかなんて問題じゃなかった。ただ「私にはキャラクターがある」という安心感と自信が、初めて人間関係の大海原に乗り出した田舎育ちには何より大切だったのだ。やはり居場所を求める気持ちは人間の根源なのだな。
 
大学生になると、自虐発言に対して「そんなことないよ」と否定してくれる天使の姿がちらほら見られるようになる。その名も“優しい人”だ。この天使の存在は自虐使いたちの出鼻を思いっきりくじいた。自虐を使ったポジショニングがすっかり板についていた私は呆然とした。ホジティブな天使の優しい慰めを足し算すると、自虐ネタはたちまち哀れに映る。それだけではない。あろうことか「天使の励ましを期待してあえて自虐を放つネガティヴな勢力があるらしい」という噂まで聞こえてきて、私たちは完全に居場所を失った。
私と自虐との別れは突然やってきた。私は誰かに優しい言葉をかけて欲しくて自虐の道を選んだわけじゃない。そんな風に思われては心外だし、何より「誰にも迷惑をかけずに仲良くやる」というポリシーから外れてしまう。
治療には時間がかかると思われた自虐ジャンキーだった私だが、周りに気を遣わせては迷惑であるというシンプルな理由から、意外にもあっさりと自虐をやめた。社会人になって1年も経てば、同世代に自虐属性は見られなくなった。
 
20代半ばから、キャリア・精神共に長い迷走期に突入する。すると元自虐ジャンキーの私は、女性向けに書かれたちょっとスピリチュアルな自己啓発本の類に次なる救いを求めるようになる。
この手の自己啓発本に抵抗がある人もいるかもしれないが、心が落ち込んで何をするにも意欲のない時にはオススメの処方箋である。渋い人生を丸ごと包み込むような優しさに加え、ライトな文体は疲れた心にここち良く、新旧様々な著者の本を読み漁った。どれも中身に大差はなく、「ネガティブな言動はネガティブな現実を引き寄せる。『私なんて』は思うのも厳禁。自分自身をゲストのように丁重に扱うこと」といった趣旨がこぞって書かれていた……ショックだった。これでは自虐なんてもってのほかである。自虐ネタは卒業したといえ、学生時代の女子会やSNSなど機会さえあればまた腕を振るおう、ひと笑いさらってやろうなんて心のどこかで考えていたわけである。甘かった。自虐と手を切ったつもりだったが、こんなにも紙一重のところを生きていたなんて!
自己啓発本によると、自虐ネタを発することはもちろん、考えた時点で人生負けなのだそう。ポジティヴな思考をする人のところにだけ、ハッピーはやってくるのだそうだ。ふむふむ。
私は自己啓発本のお導きをもって自虐からは一切の足を洗った。それどころか、たまにいる真性自虐属性の人物を見かけると天使にもなった。
 
そして現在。
30歳に近づくと、自分たちの年齢に関する自虐ジョークが合言葉のようにナチュラルに飛び交うようになる。もうおばさんだ、老けた、女として終わっている……などなど。そして「高校を卒業してから◯年」に至っては、寄り合いの度にカウントする。
私はというと律儀なところがあるので、相変わらず自己啓発の教えを守って自虐を言わない。たまに昔の血が騒ぎ出し「私ならもっと豪快に自分を痛ぶって見せるのに」と内心息遣い荒くなっても、すんでのところで抑える。
だからと言って、自虐をいさめる天使になることもなくなった。
ある年齢を過ぎると女性には亡霊のようについてまわる、年齢に対する自虐。おきまりの流れをお互いうんざりしているようにも感じるし、楽しんでいるようにも思える。この種の自虐が〈あり〉か〈なし〉か、私にはまだ判断がつかない。
ただ、挨拶を交わすような気持ち良いものであれば、自虐も悪くないと最近思う。というか、自虐を口にしても爽やかな印象の女性になりたい。自虐ネタを言っても卑屈さが感じられないくらいの存在になれたら、それこそ人生勝ちだ。
 
女子からはそこそこ愛され、男子から見事にひかれることに成功した私の高校時代。女の試合は完全放棄した。自虐によって女性としての自己顕示欲を閉じ込めた反動で、実はカバンの中身がピンクとフリフリに染まっていたのは内緒だ。当時の私に会ったなら、「ちょっと頑張るところが違っているよ」と誰か声をかけてやって欲しい。
 
 
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2018-03-03 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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