プロフェッショナル・ゼミ

母の四十九日に寄せて《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:安光伸江(プロフェショナル・ゼミ)

 
 
2018年1月18日未明、母ががんで亡くなった。
 
緩和ケア病棟で、看護師さん3人に見守られて息を引き取った。
「呼吸が悪くなりました! すぐ来てください!」と夜中に呼ばれてタクシーで駆けつけたのだが、支払いに手間取り、昼間とは違う雰囲気の病院の中で道に迷っていたのがいけなかったのか、病室についた時には呼吸が止まっていた。
 
母はもともとがんで闘病していたわけではない。
3年ほど前に腰椎の圧迫骨折を起こし、ほぼ寝たきりで要介護になっていた。
それまで調理や洗濯は母の仕事だったが、一気に私に回ってきた。
当時はまだ父が生きていたので、父の分の洗濯は自分でやっていたし、ゴミ出しやお風呂洗いも父の仕事だった。
私は母と私の分・家族共通の分の洗濯をし、買い出しに行き、朝ご飯の卵焼きを作り、昼は両親がパンを食べていたので、夜のおかずをスーパーで買ってきていた。そう、私は料理が苦手なのだ。
食卓はなんとなく二人しか座れないので、私が一人で先に食べ、両親があとから二人で食べるのが通例だった。
 
そんな日が1年半くらい続いたある日、父がでかけるからバスカードを貸せ、という。何やら会社のOB会で昼からお酒を飲むらしい。そんな話は聞いていなかったので、なんだかなぁ、と思いながらも私の分のバスカードを貸した。
父は飲みに行けるのでご機嫌で、「この帽子、かぶった方がええかのぉ、脱いで行った方がええかのぉ」とにこにこしながら見せに来た。「そんなんどうでもええやん、はよ行っといで!」と適当にあしらったのだが、「お母さんによう昼飯食わしちゃれ」と私に言い残し、父は出かけていった。私は母の部屋にいた。
 
「行ってくるど」と玄関で声がした。
もしこれで最後だったらいやだな、と一瞬悪い予感がよぎった。
 
その日は土曜日で、いつもなら父が1km以上離れた店まで買い出しに行くのだが、飲み会のために行かず、午後から私が近所に買い出しにでた。
帰ってくるのが遅いなぁ、と思いつつ、本当は父が買うはずだった鮭の切り身を私が買って、家の門まで帰ってきたとき、ケータイが鳴った。
 
「安光伸江さんの携帯ですか? お父さんが階段で転んで頭を打って病院に運ばれました。名前と生年月日は言えて、今のところ意識はあるようですが病院に来られませんか?」
 
気分よく飲んだあとで帰りに足を滑らせるか何かしたらしい。私は母の世話もあるし、病院は家からわりと遠かったし、叔父と兄に任せることにして家にいた。意識もあるというし、そのうち元気で帰ってくるだろうと思っていた。
 
ところが実はその後すぐ意識を失い、そのまま翌晩遅くに亡くなった。
 
県内の遠くから兄が帰ってきて病院に行き、家に健康保険証やらなんやらを2階の父の居室で探し、葬儀はどうするか、など大騒ぎになった。
父が生死の境をさまよっている時、私は回復を祈っていた。でもダメだった。
兄の話では、それは現実を見ていない、あの状態からまともに生活できるようには絶対にならない、とのことで、延命処置はしないことにしたそうだ。
 
父の葬儀に母を連れて行けるか、うつ病でパニックを起こしそうな私が出席できるのか、という問題もあったが、なんとか母も私も参列することができた。
父の骨はがっしりしていて、それまで本当に元気だったことをうかがわせた。
 
それからは母と二人の生活が始まった。
「お母さんによう昼飯食わしちゃれ」という父の遺言どおり、毎食毎食、母と二人で食卓につくようになった。というより私がいないと母は食べようとしない。
朝は卵焼きと納豆(父が亡くなってから鮭の塩焼きがなくなった)、昼はパン、そして夜はスーパーのお総菜。お米をとぐときは母と二人で協力してする。
 
そんな生活を続けていたら、今度は私の乳がんが発覚した。
以前から半分冗談で「私は乳がんで死ぬ」と言っていたのだが、本当に乳がんになってしまったのだ。父の死後ちょくちょく家に出入りするようになっていた従姉に病院に連れて行かれ、その場でがんの宣告を受けた。
父が死んでしまって母を一人きりにはできないので、手術せずに通院治療はできないかと聞いてみたが、手術ができるかどうかの方が問題なんだそうだった。手術ができないところまで進行してはいないギリギリの状態らしかった。
手術できるならなるべく早くした方がいい、ということだった。
 
そこからはまた大騒ぎで、母を別の病院に預けることになった。
レスパイト入院といって、介護する人が休養したかったり私みたいに入院したりする時に利用する入院だ。地域包括病棟というところに医療保険で入る。
母は圧迫骨折でほとんど歩かなかったので、歩けるようになるためのリハビリもお願いすることになった。私の入院の数日前から、退院の1ヶ月後くらいまで預かっていただいた。
 
その入院の間も母は寂しかったらしい。何しろ母は私のことが大好きで、
「おねえちゃん(私のこと)がええ、おねえちゃんとだけおるんがええ」とことあるごとに言っていたのだ。私の病院に見舞いに来てくれた叔母に手紙を預けたら、それをファイルに入れてもらって食い入るように読んでいたそうだ。
叔母が病室からケータイをかけてきた時は「退院いつ? ママはそれまで我慢すればいいの?」と寂しそうに言っていた。
 
私が退院してからは何度も見舞いに行ったが、私の生活がちゃんとできるようになるまで様子をみた方が、とのことで、退院後1ヶ月たって母が戻ってきた。
 
それでも作業療法士の先生によくしてもらって、「鬼!」と憎まれ口をたたきながらも、しっかり鍛えられて、だいぶ歩けるようになって帰ってきた。
 
レスパイト入院の間に介護保険の面談などもあり、退院後しばらくしてから訪問介護と訪問リハビリの方が来て下さることになった。リハビリは相変わらずいやがっていたが、廊下を歩く練習などけっこうがんばっていた。
 
相変わらず食事は朝の卵焼き、昼のパン、夜のお総菜だった。
 
下の世話はしない
トイレとお風呂は自力で
食事も普通食を食堂まで食べに来る
 
それで介護(というほどのこともしてない気もするが)が成り立っていた。
紙パンツを使っていたしトイレは時にわけもなく汚していたが、その時は私が怒るものの、それはそれでなんとか生活できていた。
 
何しろママはおねえちゃんが大好きだから。おねえちゃんと一緒にいたいから。
「ここ(家)で死なせて」と弱気なことも言っていたが、まだまた生きるのだと思っていた。
 
だが、退院後1年くらいしてから、失禁することが増えた。
からだが痛い痛いといってなかなかトイレに行こうとしない。
お風呂も自力で入っていたのが、訪問介護の看護師さんに入れていただくようになった。今から思えばその頃から様子はおかしかった。
 
食もだんだん細くなっていた。私も食べる量が減ってダイエットできるな、とのんきなことを考えていたが、明らかに食べなくなってきた。
そして食べても吐くようになってきた。
 
おかしい。
 
それまで母の介護の指示を出しているのは大病院の整形外科の先生だったのだが、吐くのを診てもらったり、家での看取りをしてくれたりする先生の方がいいんじゃないかと思って、家から3kmほど離れたところの、往診もしてくださる先生にかかりつけ医を変えることにした。
ケアマネージャーがいろいろ手はずを整えてくれて、担当者会議もした。
その翌週から新しい介護プランになる予定だったのだが「それまでの間はどうするの?」と新しい先生のところの看護師さんに聞かれた。なんとかするしかないな、と思っていた……のだが。
 
担当者会議の翌日、私は乳がんの治療で点滴に行った。昼を過ぎるのだが、私が帰らないと母は食べないので、一生懸命帰ってきた。すると母が失禁して、ズルズルとベッドからずり落ちていた。
パニックを起こした私は、母を着替えさせ、使い捨てシーツなどを交換した。
ケアマネージャーに連絡したらすぐ来てくれて、ショートステイに預けたら、ということになった。その日に入れてもらえるところを探してくれて、母は車椅子で運ばれていった。車の中から手を振る母は悲しそうで、私も大泣きした。
 
ショートステイ中は毎日電話をして様子を聞いたが、やはり吐くらしい。
刻み食にしても吐くらしい。私が料理できないのが問題なのではないようだ。
帰ることになった日、血便があるということで、医療に回した方がいいということになった。母は「ちょっとだけでも家に帰りたかった」と後で言っていたが、ショートステイから家に運んでもらった車から叔父の車に乗せ替えて、直接病院に連れて行くことになった。そこからは食事ではなく点滴で栄養をとるようになった。ともかく栄養補給ができるようになったので命は取り留めた感じだ。
 
そして2日おいて見舞いに行ったら、先生の病状説明があるという。
母は昔心筋梗塞と脳梗塞を患ったことがあるのでそれも書いてあったが、新たに「肝腫瘍」という文字が見えた。初耳だ。
聞くと、多発性肝腫瘍だという。私はその意味がよくわかっていなかったので、大病院で精密検査をして治療方針を決めるということに同意した。
兄にも連絡したが、「多発性」を言わなかったので良性かもと思っていたそうだ。
 
多発性肝腫瘍で良性ということは、まずないらしい。
翌週の大病院での検査で、胃がんからの転移によるもの、要するに末期がんということが判明した。この辺は医師をしている兄に直接話していたので、私はあまりよくわかっていないのだが、要するに積極的治療はかえって苦しむだけなので、穏やかに逝かせた方が、という話だった。
 
そしてもとの病院に戻り、年末年始をそこで過ごし、年明け早々の連休後に兄が緩和ケア病棟のある病院に面談に呼ばれた。たまたま空きがあるということで、翌日転院になった。転院の介護タクシーには私が同乗した。
 
緩和ケア病棟はひとりひとりのスペースが広めにとってあり、ゆったりと過ごせるようになっている。アロマやらマッサージやらリハビリやらのメニューもあるらしい。「元気になるのが目標ですからね」と先生は母におっしゃったが、私には「余命1ヶ月」と言われていた。骨やらあちこちに転移があるそうだ。
 
あと何回会えるかわからないね
 
と思いながら、なるべく毎日に近く見舞いに行った。
 
新月の日、眠っている母を残して「明日は私の点滴だから来ないからね」といって帰ったのは覚えている。
 
そしてその夜中にケータイが鳴った。ついに来た。病院からだ。
「呼吸が悪くなっているので、すぐ来て下さい!」
タクシーで駆けつけたが、間に合わなかった。
 
しばらく個室で手を握り
死に化粧をしてもらって
斎場直送のコースにすると兄と話していたので、葬儀社に連絡をした。
 
母はいったん葬儀社のとある部屋に安置された。もっとちゃんとしたお葬式にすればよかったかなとちょっと後悔した。
お通夜や葬儀をしないため、その日はすることもないということで、タクシーで家に一度帰ってから、予定通り乳がんの点滴にも行った。翌日は火葬場で待ち合わせることになっていた。
 
だが、翌朝早くに電話があり、出棺の時に一緒に霊柩車に乗って行けることになった。お棺の窓をあけてもらい、母の顔を見ながら行くのが嬉しかった。
寝ている母とともに移動するのは、病院間を移るときの介護タクシーなど数回あったのだが、母は死んでいるのに、転院するときと変わらないような感じだった。まだ生きているような、話しかけたら起きてきそうな感じだった。
 
でも母は死んでいて
火葬場の炉に入れられた時、私も一緒に入って焼いてほしい衝動に駆られた。
 
母の骨は、特に脚がボロボロだった。長く寝たきりだったせいもあるだろう。
父の時のがっしりした骨格とは対照的だった。
火葬場には兄夫婦と私の3人しか参列しなかったので、お骨をいっぱい拾った。
いっぱい、いっぱい拾った。ママ、ママ、と泣きながら。
 
その後、ふた七日に父方の親戚が家にきてくれて、お線香をあげてくれた。
叔母たちと瓦そばを食べにいって、どうしても気になるので、翌週お寺に私がひとりでいってお経をあげてもらうことにして、戒名もつけてもらうことにした。
叔母たちもそのことを喜んでくれた。
 
母には毎日何度もお線香をあげている。父の遺影ともならべているので、二人に拝んでいる。
 
十分な介護ができたとはいえないかもしれないが、やり残したことはない。
両親にとっていい子ではなかったかもしれないが、空の上から見守ってくれている感覚は、ある。
 
そして四十九日を迎える。
納骨法要は兄の都合で来週になったのだが、しっかり拝んでこようと思う。
 
お墓に入っても、ずっと見守っていてね、ママ。
 
 
***

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