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プロフェッショナル・ゼミ

成長も冒険も、50代にこそ必要だ。《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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夏目則子(プロフェッショナル・ゼミ)

「ご無沙汰しています。実は、6月いっぱいで会社を辞めて、7月からジュエリー会社に転職することにしました。51歳でのチャレンジは、ドキドキワクワクです……!」

前職の広告代理店で同僚だった男性から、久しぶりにMessengerが届いた。転職の際の定番、有給消化中の海外旅行先イタリアから。いつも海外ハイブランドのファッションに身を包んでいた彼のこと、イタリアで買い物に明け暮れている姿が目に浮かぶようだった。そういえば、プラダのジャケットもよく着ていたことを思い出す。典型的な日本人体型だけれど、ヨーロッパの男性を意識した無精ひげをそれなりにカッコよく生やし、おしゃれへのこだわりは相当強かった。私がファストファッションブランドの服を着ていると、
「大人の女性が、そういうの着てるの良くないよ」
と怒られたものだ。
彼とは、彼は営業、私はスタッフの関係でよく一緒に仕事をした間柄。クライアントの評価も高く、とても優秀な営業ではあったが、社内政治に疎いというか、そういった発想自体が嫌いな真っ正直な男で、能力の割にはそれに見合うポジションに着くことはなかった。
それにしても、広告業界からジュエリー業界へとはまた思い切ったなあ、と思ったが、彼がその年で、そういう決断をするに至った思いについては、十分に想像ができた。
「卒業おめでとう!」
と返信しておいた。

私のタイミングは6年前だった。

広告代理店の戦略プランナーとして働いていたあの頃。毎日の仕事は楽しかったし、目の前の仕事へのやりがいは十分に感じていた。多少の不満はあれど、会社に対して絶対的な不満は感じてもおらず、上司にも恵まれ、割と好きなようにやらせてもらえる環境にもあって,
居心地は良かった。
けれど40歳を過ぎたあたりから、猛烈な渇望感が押し寄せてくるようになった。
プランナーとしてのキャリアも20年近くなってくると、どんなプロジェクトも、良くも悪くも“こなせる”ようになり、自分が成長している実感がどんどん薄れていく。
と同時に、自分の能力もある程度見極められるようにもなり、新しいトレンドや技術が絶えず繰り広げられる広告業界で、若く新しい人材の活躍も目立つ中、自分が広告業界のプランナーとして第一線でいられる時間はもう短いだろうなあと予感していた。
新しい研究プロジェクトを立ち上げたり、海外業務を兼任させてもらったり、管理職(といっても、完全なる中間管理職だが……)のポストに着けてもらったりはしたものの、どれもどこか中途半端で、仕事人生の次の一手を私は完全に見失っていた。

何も崇高なキャリアプランを掲げたかったわけではない。
普通の大学を、普通の成績で卒業して、流れに身を任せているうちに広告業界にたどりつき、仕事を楽しませてもらい、その間に娘も育てたのだから、私の仕事人生は恵まれたものといってよかった。

ただ、楽しく仕事ができればよかったのだ。実際に、30代まではそうであったように。
けれど40代に入ったあたりから、何かが変わっていき、このままの楽しい時間は、そう長くはないだろうことがわかってきた。
40代半ばになった頃、私は1つの結論に至るようになった。
徹底的に会社で上を目指すか、会社を出て新しい道を選ぶか、2つに1つの選択だと。

ISMSをご存知だろうか?
情報セキュリティマネジメントシステムのことで、企業における情報管理が厳格化するにつれて次から次へと導入されていった社内管理システムの1つで、その必要性はわかってはいるが、日々の業務に追われる現場にとっては、ただただ煩わしいものであった。
それゆえ、本当にひどい話ではあるが、社内の管理部門の人がどんなに一生懸命に説明をしても、誰もちゃんと聞かないし、だからとチラシを作成して一人ひとりに配布に回っても、面倒くさそうに受け取られるだけで、その業務の虚しさが痛いほど感じられた。

ちょうど私のいたセクションでISMSが導入されたときに、その業務を担当していたのが、過去に私も仕事をしたことがある元支社長だった。役職定年後、支社長のポジションから管理部門に移り、そういった庶務的な業務に携わっていたのだ。支社長に上り詰めるくらいだからある程度の切れ者ではあったが、やや横柄な人柄でもあった。彼が出席する会議では、随分と気を使ったものだ。
が、どんなにポジション上のぼりつめても、役員になれなかった人間は、その当時、55歳で役職定年を迎えることになっており、役員になれなった彼は、栄華を誇った支社長時代から一転、本社管理部門のイチ社員となったのだ。
あれほど上から目線だった人が、腰を低くして、ISMSの協力をお願いしてくる。

その様子を、私はどこか、憐れんで見ていたと思う。でもそれ以上にその存在は、私にとって、恐怖以外の何ものでもなかった。

それは、10年後の自分の姿だった。
このまま楽しく仕事を続けていても、10年後には、ああなるのだ。
新人の頃から見ている部下がいて、先輩面、上司面して偉そうに指導してきた彼らに、ISMSの協力依頼に頭を下げている自分を想像して、背筋が震えた。もはやホラーだ。死んだほうがましだとさえ思えた。
ダウンタウンが、この先あまり売れなくなって、後輩芸人の舞台で前座をする気持ちを想像してみてほしい。役員になれないということは、そういうことなのだ。

そして順調に役職にはついても、役職があがるほどにその席取り争いは激化していく。
仕事の成果をちゃんと残していれば与えられる役職には上限があり、私はすでにその上限にいた。
そこから上は社内政治で取りに行かなければ手に入らない。まして役員の席は、もっと上級の政治の駆使と、運がなければ得られないものだった。
それが組織として正しいか正しくないかは、関係ない。いつか組織の不思議について研究してみたいと思っているが、そんなことを悠長にやっている場合でもない。
私は私の少し上の、主に男性たちが繰り広げるその戦いを間近で見て、勝てるかどうかもわからない、その熾烈な戦いに参加することの恐ろしさを感じていた。

出世争いも地獄、出世をあきらめるのも地獄。

残る選択肢は、会社で出て新しいチャレンジをすることだった。

そしてそのときは、突然やってきた。
社内で転進支援制度が交付されたのだ。退職金に加算金が上乗せされる。新しいチャレンジをするなら、今だと思い、私は手をあげた。
どうせ同じ悩みにぶち当たるだろうから、転職という選択はなかった。会社に残るか、起業するか。決めるまでの1ヵ月は、毎日吐きそうになるくらい悩んだ。ぬくぬくのサラリーマン生活を本当に捨てて、本当にやっていけるのだろうか。期待より不安の方が大きかった。

そしてそれでも割と打算的な私は、その間にしっかり人間ドッグを受けて健康状態に問題がないことを確認し、やりたいビジネスの方法を模索しながら、申請の日を迎えた。
十分な準備をする間もなく、新しいチャレンジの勝算について検証できてはいなかったが、
当時大学3年生だった娘の学費分はもう用意してある。1年半後には彼女も社会人になるし、自分一人くらいならどうとでもなるだろうと思った。
最後はエイヤッ!である。

そして今にいたる。まあ、何とかやっている。
ただ、独立して6年目。そろそろ次の準備が必要である。
なにせ私たちは、100年生きなければならない。

60歳で定年を迎え、5年から10年ほど、会社の再雇用制度を利用して、あるいは幸運なら天下り先を用意してもらって、本当に会社に役に立っているかどうかわからない、やりがいがあるかどうかもわからない仕事で、それなりの収入を得つつ、余生を楽しみながら人生の終わり仕度をしていればよかった上の世代とは違う。
彼らとは違う、新しいモデルが必要なのだ。
私たちは、これまで一般的な仕事の現役引退とされていた年齢から、50年近く生きなければいけない。余生というには長すぎる時間だ。
お金も必要である。生きがいも必要である。

私は40代半ばで、10年後の自分を想像し、先手を打って準備をしたつもりだった。
実際、私が辞める決断をした時、同世代の同僚たちに相当羨ましがられたものだ。まだ小学生や中学生の子どもを持つ男性には、冒険する権利もなかった。職種として独立して稼ぐことが難しいセクションの人も、会社にしがみつくしかなかった。タイミングとプランナーという職種のおかげで、私はうまく次のステージに移行でき、役職定年の恐怖から逃れられたと思った。それなのに、ここに来て60代を見据えると、また次の一手が必要なことに気づかされる。

私の夢は死ぬまで現役でいることだ。死ぬその瞬間まで仕事をしていたい。そのために、今の会社、今の仕事をどう設計していていくか、その再構築を着々と進めなければならない。
若いときよりも失うものが多くなった分、怖くないといった嘘になる。
若い時のような無茶ができにくくなった分、思い切りも悪くなったかもしれない。
そのせいか、ストレスだって半端ない。
それでも自分を鼓舞し続ければならない。
100年、楽しく生きるために。

先日、私のプランナーの師匠ともいえる先輩も、私に遅れること6年、転進支援制度で会社を辞めることを決めた。
私が会社を辞めることを一番惜しんでくれた人で、プランナーの魂みたいな人だった。どうすれば会社のプランニング力が高められるのか、一緒に考え、一緒に色々な試みをした、同志のような人。プランナーとして仕事にピュアすぎて社内政治は上手くなかったが、その秀でた能力でそれなりポジションについていた。が、役員手間のところで階段を上り切れなかった。
彼がその上司である役員に報告したとき、
「人生100年。そりゃ定年になってフリーになることを考えるのは遅いよなあ」
と、役員としての他人事のように言った。
それでも同世代としての個人としは、共感していたらしい。
彼は今、54歳。
私が最初に相談を受けたときは、遅いよと思ったけれど、ひと昔前だと、今さらと思われたかもしれないけど、今の時代、人生まだ半分。
十分新しいチャレンジが楽しめる年齢である。
何もしないで定年を待つ方が、よっぽどリスキーだと思う。

そういえば、あるWEBプランナーが大学生向けの講義で話していた。

「先輩や上司について修行するとか、石の上にも3年とか、もうそんな時代じゃない。
成長できるのなら、1秒でも早く成長した方がいい。
成長した先に、違う景色が見えて、また新たな成長ができる。
そうやって世界はどんどん広がり、自分はどんどん大きくなれる。
仕事を楽しみたかったら、常識とか会社の教育システムなんかにとらわれないで、とにかく猛スピードで成長しよう」

若者も常識を変えてきている。
私たちだって、常識を変えよう。
成長も冒険も、もはや若者だけの特権ではない。
年齢なんて関係ない時代なのだ。
いや、成長も冒険も、50代にこそ必要だ。

最も強いものが生き残るのではない。
最も強い種や最も賢い種ではなく、最も変化に強い種が生き残る。

有名なダーウィンの進化論。
人生が100年になった今、改めてそのことを考える。

死ぬまで楽しむために、まだまだ変化しなければならないのだ。

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