プロフェッショナル・ゼミ

だから私達は好きに生きなくてはならない《プロフェッショナル・ゼミ》


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記事:べるる(プロフェッショナル・ゼミ)
 
「おばあちゃん、他の人のご飯まで食べて、手を焼かれてるって」
弟から電話で祖母の近況を聞いた。今年92歳になる祖母が、老人ホームに入所して1年以上経つ。
「それに人の好き嫌いが激しいから、嫌いな職員が介護しようとしたら、手をはねのけてるらしい」
あー、やりそう。祖母は、自分勝手な人だ。いや、自分勝手というより、自分のことしか考えていないというか。自分が嫌なことは、頑として受け付けない。人の好き嫌いも激しい。弟の話を聞いて、施設の中でも自由に過ごし、職員の方に迷惑を掛けている所が目に浮かび、申し訳なくなった。
 
 
私は母方の祖父母と高校を卒業するまで同居していた。
祖母は自分の嫌なことは、頑なとしてやらない。譲らない。
私が祖母の代わりに洗濯物を干した時も「そのやり方は嫌だから」と言って、全部を干し直されたし、ご飯を作った時も「この味付けは嫌だから」と味を直された。母が買ってきた服も、気に入らなければ絶対に着ないのに「着るものがない」と文句を言う。
家族だけではない。弟の友達が遊びに来たときも、ゲームの声がうるさかったらしく「うるさいからやめろ」とやめるまで言い続け、祖父の友達にも「もう酔っ払ってうるさいから、帰れ」と言うし、祖父と喋って長居する親戚にも「疲れたから、そろそろ帰って」と容赦なく言う。
大好きなテレビに関しては、絶対に見るまで譲らない。私が違うチャンネルを見ていると
「見たいなー。違うチャンネルがどうしても見たいなー」と何度も言い、私が無視して見続けていると、勝手にチャンネルを変えてくる。「見てるよ!!」と言うと「えー、だって見たいんだもん」と、言い出す。結局私が呆れて譲るのだ。
 
晩御飯の用意も、お風呂掃除も、買い物も、気が向いた時だけしかしない。畑仕事も、梅干を漬けたりする家仕事も、気が向いた時だけする。祖父は「まったく」と言いながら、後始末を全部するのだ。
 
こんなに自分勝手な祖母なのに、祖父は祖母が好きだった。しょっちゅう文句も言っていたけれど、祖父は祖母を好きなのが私から見てもよく分かった。それに比べ、祖母はそれほど祖父を好きでもないのも、よく分かった。
 
私は祖父が大好きで尊敬していた。だから、どうして祖父は祖母を選んだのだろうと、ずっと不思議だった。自分勝手な祖母の後始末ばかりしているのに。
 
「おじいちゃんはどうして、おばあちゃんと結婚したの?」
高校生の頃、そう聞いたことがあった。
「何でって、好きだからだなぁ」と祖父は答えた。祖父と祖母は、当時では珍しい恋愛結婚だった。
 
祖父のお兄さんは教師になった。でも、祖父は勉強があまり好きではなかったので、少しの畑を分けてもらい、そこで百姓で生きていくことを決意した。
「苦労するのが分かっている人のところへ、娘はやれないよ」
祖母の母(私の曾祖母)は、祖父と祖母の結婚は大反対だったという。でも、祖母はその反対を押し切って祖父についていった。祖母がついていきてくれたことにより、祖父は自分の生き方をなんとしても成功させようという原動力になり「お金になる仕事は何でもやった」と祖父は言う。
そうして祖父と祖母は二人三脚で、頑張ってきた。わけではなく、祖父が祖母と3人の子ども達を養った。祖母はこの頃からきまぐれで、働いたり休んだりと気ままだった為に、段々と祖父も祖母をあてにしなくなり、1人で出来てお金になる仕事を見つけていったのだ。
 
猫の手も借りたい程忙しかっただろうに、祖父は1人で死に物狂いで働いた。でも、祖父は決して祖母を見捨てたりしなかった。それどころか「苦労すると分かっていたのに、ついてきてくれたのが本当に嬉しかった」と一生懸命、祖母に尽くした。自分勝手な祖母に文句を言いながらも、祖父はいつも祖母に対して感謝をしていた。
それなのに、祖母は祖父をあっさりと見捨てた。
 
祖父は78歳の時、末期の肺がんが見つかり、余命1ヶ月と言われ病院に入院した。祖母は「お見舞いには行かない」と言い張り、看病も手続きも全て私の母がした。一度だけ母と私で「一回でいいから病院に行こう!」と、無理やり連れて行ったけれど、ちょっとだけ祖父の顔を見て「もういい」と言った。そして2度と行かなかった。
 
祖父は祖母が来るのを待っていた。「おばあちゃん、来たかい? おばあちゃんは元気かい?」と私が行くたびに言っていた。だんだん意識が朦朧としてくると、私を祖母と間違えて「おばあちゃん、やっときてくれたのかい」と言ったりした。祖父は待っていたのに、祖母は病院に行かなかった。「何で祖母は病院に来ないのかな?」と親戚達は言っていたけれど、私にはその理由が分かる気がした。
祖母は、もうすぐ死んでしまう祖父に、興味がなかったのだ。
 
祖母は死を恐れていた。同級生や友達の死を聞くのをとても嫌がった。自分が死ぬことが怖かったのだと思う。死に近づいたら、自分も死という闇にひっぱられると思っていたところがあった。だから、死に近づいている祖父を見ることが怖かったのだと思う。こんなに愛してくれている祖父との別れより、自分のほうが大事なのが、祖母なのだ。
 
そして亡くなった後も、お仏壇のお世話もしない。気が向いた時に、線香は上げるだけだ。祖父の夢も見ないという。そして「やれるだけやったから後悔はない」と言っている。
私達には分からないけれど、祖母は祖母なりに、祖父に対して後悔しない程色々なことをしたらしい。
 
祖父がなくなり、我が家のバランスは崩れた。
私は高校を卒業し、家を出て、家には祖母と母と父と弟が残った。
祖母と母は実の親子だけれど、あまり仲がよくなかった。小さい頃から、自分勝手な祖母にあまり母親らしいことをしてもらえなかった母は、祖母があまり好きではなかった。そして父も、祖母とは仲良くなかった。
母は祖父のことは好きだったし、祖父が間にいることで、家族のバランスは割りと保たれていた。だけど、祖父がいなくなり、祖母は母にだけしかワガママを言えなくなっていた。祖父も亡くなり、友達もどんどん亡くなり、1人ぼっちの祖母は、毎日、毎日、テレビを見て、好きな時に寝て、好きな時に起きて、好きに暮らしていた。祖母は自分の母親が88歳で亡くなったので「自分も88歳までは生きる!」と宣言していた。
 
好き勝手生き、ワガママばかり、自分のことばかり言う祖母に母は疲れていた。
 
更に祖母は80歳を超えたあたりから、認知症になり、少しずつ悪化していった。
元からワガママで自分勝手な性格は、更にどんどんエスカレートした。好きなときに寝て好きなときに起きるので、夜中に台所を片付けてみたり、外を散歩してみたりするようになった。母が「夜中に出歩くのは危ないからやめて」と言っても全然言うことは聞かない。祖母は指図されたり、自分の自由に出来ないことが嫌いで、そういうことばかり言う母のことは無視する。それなのに「ご飯まだか?」「テレビが見られない」など、自分の要求は叶えてくれるまで言い続ける。
祖母は体だけはすこぶる健康で、持病はなかった。今までに胆石に手術で入院したことしかなく、風邪もめったなことでは引かない。足腰も丈夫で「膝が痛い」とか「腰が痛い」と言うのを聞いた事がなかった。
認知症は徐々に進んでいったが、体は元気なので身体的な介護は必要なかった。その分自由に歩き回ることのほうが、心配であり苦痛の種であった。
 
祖母が家にいると、どうしても気にかかるので母の心労は大きかった。それに祖母は家にいるとテレビばかり見ているので、デイサービスに行くことを提案するも、家で自分の自由にしていたい祖母は、絶対に家から離れなかった。
それから10年ほど、母は祖母とぶつかりながら、イライラしながらも家で祖母を見ていた。
認知症が進み、1人で家に置いておける状況ではなくなり、親戚の勧めで祖母はようやく老人ホームに入居することになった。
 
祖母が老人ホームに入って一年後、母は末期がんと診断され、余命わずかと宣告された。まるで祖母の面倒を見ることが終わったことで、肩の荷が下りたかのように。
 
 
祖母は家にいる間、好き勝手生きた。自分の嫌なことは頑なに拒み、自分の欲求は絶対に通した。88歳まで生きるという目標を達成し、今は、92歳だ。
でも、どんなに長生きしたって、1人で孤独で、それって意味があるのだろうか? 好き勝手生きた報いで、祖母は1人なのではないだろうか。「好き勝手生きた結果」は「最後は誰もそばにいない」という状況を生んだような気がしてならなかった。
 
「はなえさん、施設で人気者ですよ」
でも、私の予想に反し、祖母は施設でイキイキと暮らしていた。もちろん、他人のご飯を食べたり、嫌いな職員の手をはねのけたりしているというが「そんなのは全然どうってことないです」と、職員の方が話してくれた。
 
「人の好き嫌いは激しいんですけど、それがはっきりしていて面白いんですよね~。あと、職員に『大丈夫か』とか『ありがとう』と気遣ってくれるんですよね。はなえさんは、本当に職員からも利用者さんからも、人気ですよ」
 
信じられない言葉に、私は唖然とした。祖母が人気者? あのワガママで自分勝手な祖母が人気者? 祖父にも母にも、一度も感謝の言葉を口にしたことがなく、してもらって当たり前だと思っていた祖母が、相手を気遣う言葉をかけている……?
 
でも確かに施設での祖母は、職員さんの言うとおりだった。他の利用者さんと話をしたり、一緒にテレビを見て笑ったり、とてもイキイキしていた。実際には声もほとんど出ないから、呼びかけているつもりだけだけれど、コミュニケーションが取れていた。仕事というものあるけれど、職員さんにも本当によくしてもらっていた。もちろん、祖母はワガママだ。「絶対にこの席じゃないとヤダ!」と言ったり「もっと食べ物をよこせ」と言ったり、他の人のご飯をたべてしまったり。
でも、確かに何かしてもらうと、職員さんの腕を叩いて「ありがとう」と伝えたりしている……。
祖父や母には感謝したことなかったのに。
 
認知症が進んで、私や弟や叔母さんのことは分からなくなっても、母のことだけは分かっていた祖母がついに、母のことも分からなくなってしまった。外出許可をもらって祖母の元を訪れた母のことを、祖母は「誰?」と言っていた。
あんなに世話をしてくれた母のことまで忘れ、祖母は老人ホームで幸せそうに暮らしていた。
 
一方、母は病院で、とにかく我慢ばかりしていた。余命3週間と言われているのに、痛いとも辛いとも言わない。私達が毎日見舞いに行くと「そんな毎日来なくていいんだよ」とか「早く帰れ」「大丈夫だから」と気を使う。我慢して、気を使うばかり。もうちょっと、ワガママ言ったらいいのに、とみんなが思っていた。
 
「今日、おばあちゃんところに行ってきたよ。気になる?」と言うと、こくりと首を縦に振る。こんな状況でも、どんなに喧嘩ばかりで合わなくても、それでも母は祖母が気になるのだという。
 
これって、何なのだろうと私は思う。
好き勝手生きてきた祖母の方が、幸せそうだった。祖母の面倒を一生懸命見てきた母のほうが、辛そうに見える。何でなのだろう。好き勝手生きてきて、最後までイキイキと暮らすなんて。好き勝手生きてきたほうが、幸せだなんて、何でなのだろう。
 
私はやるせない気持ちを抱えたまま、母に言われた言葉を思い出していた。
私は高校を卒業してからずっと、実家には戻っていなかった。でも、母が辛そうなのを見ていたので、一度実家に戻ろうかと言ったことがある。その時、母は「やめなさい」と即答した。
 
「親のために生きると、いつか絶対親を恨むようになる。だから、好きに生きなさい。好きに生きたって、大変なことはあるけれど、好きに生きなさい」
 
本当に好きに生きるというのは難しいと思う。自分の思いに忠実に生きるということは、苦労も、人に嫌われることも、孤独すら恐れないことだと、祖母を見ていると思う。
ただ、その方法でしか人は幸せになれないのかもしれない。
「好きに生きるしかないなぁ」と、私と弟は、祖母と母を見ながら言い合う。
いや「好きに生きるしかない」という生易しいものではなく「好きに生きなければならない」と、母と祖母の生き方から、私達は感じるのだった。
 
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