プロフェッショナル・ゼミ

30年後にようやくわかった会社のルーツ《プロフェッショナル・ゼミ》


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記事:高林忠正(プロフェッショナル・ゼミ)
 
 百貨店に入社した私は研修期間中、会社の歴史を教わった。
1673年、延宝元年、江戸は日本橋駿河町(今の駿河銀行の中央通りをはさんだ向かいあたり)で、間口3間のスペースで「越後屋」として創業する。
店前現銀売り(たなさきげんきんうり)
現銀掛値なし(げんきんかけねなし)
小裂何程にても売ります(しょうれついかほどにもうります)
など、当時としては画期的な商法を次々と打ち出した。
 
店前現銀売りとは、店頭での品物の販売である。
現銀掛値なしは、その字の通り、売り掛けではなく、現金での販売を意味する。
小裂何程にても売りますとは、呉服を切り売りする商いである。
 
新人だった私たちは、本採用を前に、試験対策の一環として覚えたに過ぎなかった。
 
以来28年間、これらの言葉は、いつの間にやら忘却の彼方に追いやられていた。
ごくごくたまに、それも滅多に読まない社内報で目にする程度だった。
 
「店頭での現金商売って言ったって、何が問題なんだよ」
「現銀掛値なしって、単なる現金商売だろ。今じゃクレジットカードがあるだろ、何が問題なんだよ」
「呉服の切り売りって、何がそんなに画期的なんだよ」
 
新人の時の疑問は心の奥底に残っていた。
ただし、社内で正しく説明できる人は皆無だった。
社史編纂の係の方たちはいらっしゃったが、彼らにとっては、社内報で書くネタ探しの情報の一つだった。
私に限らず社員のほとんどは、その背景や経緯については一切触れずに過ごしてきた。
別に知らなくても商売には困らなかった。
 
ちょうど50歳になったとき、早期退職を選択した。
振り返ると、右も左も分からない状態から一人前の商人(あきんど)に育てていただいた28年間だった。
退職後は、東京都江東区にある独立系のケーブルテレビ局のコールセンターの統括に転職した。
 
ケーブルテレビ局の主要メンバーは、マッキンゼー出身の社長を筆頭に、外資をはじめ、戦略系コンサルから大手電機メーカーからの転職者で占められていた。
 
 百貨店出身の私は、この人たちを見てビビってしまった。
自分は単なるモノ売り出身にしか過ぎないのに、かれらは、いつも理路整然とビジネスを語っていた。
「逆立ちしたってかなわねぇや」
コンプレックスが膨らむだけだった。
 
 
「天下の○○(私の在籍した百貨店の名前)ご出身の高林さん」
「おもてなしの伝道師」
「日本の商売のルーツを知っている人」
だった。
 
 なんだかこそばゆい感じがした。
ほめられ、持ち上げられるたびに、心の中で弁解している自分がいた。
 
それはかつて、百貨店時代の先輩がいつも言っていた言葉だった。
 
「オレも含めて、百貨店出身者って、そんなに大したことありませんよ」
 
「バックの会社のおかげで仕事させてもらっていたんですよ」
 
「会社の名前取ったら、ただの人ですから」
 
 後から聞いたところでは、私がコールセンターの統括として採用された理由は、お客さま本位の接客を導入する上で最適と判断されたからだった。
 
「そんなにおれたちって……」
私が在籍した百貨店の名前を言うだけで何かまるで、水戸黄門の印籠のような受け止められ方をしたのだ。
 
決してすごくはない……と言う認識は消えなかった。
 
 そんな私にとって、自分のルーツと向き合う瞬間がやってきた。
 
 59歳の時だった。
その時は私は、体調が芳しくなかったこともあって、自営の道を歩んでいた。
出版プロデューサーとして、『人生がときめく片づけの魔法』(近藤麻理恵著)など数々の書籍の指導をしている土井英司さんの「10年愛されるベストセラー作家養成コース」に選抜された。
別に本を書きたいという動機からではなかった。
たまたま、目の前にあった土井さんの講座に「挑戦してみようか」という軽い気持ちの受験だった。
 
 そんな軽い気持ちが奏功したのか、おかげさまで合格した。
信じられなかった。
おれなんて何にもないのに、やってけんのかなとも思った。
「まあ、せっかくだから」と1回目の講義に臨んだ。
 
 結論から言って、大変なところに来てしまったと思った。
周りは著者志望の現役脚本家や、すでに著書を何冊も出している開業医さん。
さらには定期的に経済誌に寄稿している外資系金融マン……など、錚々たる顔ぶれだった。
場近いなところに来てしまったと後悔しても始まらなかった。
 
 さらには、喫緊として300字の自分のプロフィールを作らなければならなかった。
プロフィールといっても、かつて書いた履歴書ではなかった。
人生そのものを棚卸しする必要が出てきた。
 
自分の強みとともに、自分らしさをひとことでまとめなければならなかった。
プロフィールの中心、骨組みとも言えるものだった。
 
そうなると、すでに退社していたが、大学を卒業後、28年間お世話になった百貨店の話からは避けられなかった。
 
ただし、私の身体には、在職中刷り込まれ続けていたフレーズがあった。
 
それは、百貨店時代の仕事の後、居酒屋で決まって先輩や同僚たちから聞かされていたものだった。
 
「おれたちって、しょせんは物売りなんだよな」
これは28年間、セクションは変われど、常に聞かされていた。
 
そんな単なる物売りの自分が果たして、この「10年愛」でやっていけるんだろうかと思ったが、もうやるしかなかった。
 
 フォーマットを前に悶々としていた時、入社3年目に先輩から言われた言葉を思い出した。
 
それは、「変わるべきもの、変わらざるもの」だった。
 
誰が言ったか知らないが、受け継がれてきた商売の原理原則だった。
 
早速、この意味について知っていそうな人に聞く必要があると思った。
 
手っ取り早くというか、私が百貨店生活の最後の4年間で3度の社内MVPを受賞した時の上司、田中(仮名)さんに連絡を取ってみた。
 
 当時田中さんは、百貨店を定年退職後、母校の関西系の大学で、就職部長の要職に就いていた。
 東京駅に隣接しているその大学の東京オフィスで会った私は、理由も言わずにストレートに聞いてみた。
「私たちの強みって一体なんんなんでしょう?」
 
全くもって、単純で漠然とした質問だった。
 
 しばしの沈黙ののち、田中さんは口を開いた。
「高林、おまえ、おれたちの百貨店のルーツって知ってるか?」
 
入社した時に覚えた会社の歴史が蘇ってきた。
店前現銀売り(たなさきげんきんうり)
現銀掛値なし(げんきんかけねなし)
小裂何程にても売ります(しょうれついかほどにもうります)
 
「それがどんな関係があるんですか?」
 
一瞬ムッとしたが、田中さんの眼差しに引き込まれてしまった。
 
 
 田中さんは説明を始めた。
会社の歴史概要でも聞いたことのない内容だった。
 
 延宝元年、江戸の日本橋駿河町に、間口三間で呉服商を創業した時、創業者の三井高利は51歳だったんだ。
高利には、伊勢の松坂に本家はあったものの、実は江戸に出なければならない事情があったらしいんだ。
 
 私は話の腰を折った。
「なんで田中さんはそんなことご存知なんですか?」
 
 それもそのはずだった。
入社早々呉服売り場に配属された田中さんは、慶応閥の組織の中でやって行くために、スペシャリストとして生き抜くしかなかった。
 
富裕層のお客さまを開拓することとともに、そんなお客さまに提案するためにも誰にも負けない呉服の専門知識を得ることにあった。
 
 田中さんは、毎週のように定休日を利用して、西陣をはじめ、日本中の呉服の産地を訪ね歩くことを自分に課した。
 
気がついたら、入社3年目で押しも押されるスペシャリストの地位を確固たるものにしていた。
『日本永代蔵』をはじめとして、当時の文献も読んでいた田中さんは、江戸時代からの呉服の変遷も知ることになった。
すると、創業当時の越後屋は、最初から好調な呉服商でなかったことに気づいた。
 
 そんな高利が江戸駿河町の創業したものの、後発だったため、先発の呉服商の後塵を拝していたとのことだった。
 
 当時の呉服商の大半は、武家や、大名、そして豪商に対して、誂えによる売掛の販売が中心だった。
ただし、高利率いる越後屋は、そんな富裕層に営業をしようにも聞いたこともない店ということで、全く相手にされなかったという。
営業をしても門前払いされ続けたという記録が残っていた。
 
 江戸に創業したものの、全く商売にならない期間が数ヶ月以上続いた。
今さら、店をたたんで松坂に帰ることはできない事情があった。
まさに背水の陣で過ごしていた。
 
 あとひと月こんな状態が続いたら、廃業するしかないところに追い込まれていた。
 
 そんな矢先だった。
高利は、江戸の町民たちが古着を常用していることに着目した。
 
当時の江戸の人口は約300万人と言われていた。
実はこの数は、ニューヨーク、ロンドン、パリより多く当時の世界の主要都市の中でも最大だったそうだ。
 
 その人口の9割以上は、豊かではない町民たちだった。
 
「古着って、聞いて何を想像する?」
 
今のようなアンティックではなかった。
当時の古着商は、日本橋岩本町のあたりにあったと言われているんだけど、町民たちはまさに一張羅の服を着続けるしかなかった。
 
裂けたり、破れたり、ほつれたりした。
 
彼らにとって、新しいものがなかなか買えない以上、繕うことが日常当たり前のことだった。
 
繕うためには、布が必要。
 
ただしそんな布はなかなか売っていなかった。
 
高利は、店の不良在庫状態となっている反物を切り売りしてはどうか?と番頭しゃ使用人に提案してみたという。
 
しかし、案の定、大反対を受けた。
なぜなら、呉服の切り売りなんて前例がなかったからだった。
 
 高利は言った。
では、試しにわずかばかりでいいのでやってみないか?
本当に、反物一本でいいから、切り売りして、現金でその場で受け取ってみようよ。
 
少しだったらとうことで、番頭たちは渋々承知したそうだったんだ。
 
そこで、小さな看板に出したのが
「小裂何程にても売ります(しょうれついかほどにもうります)」
だったんだ。
 
そこへたまたま、新河岸にあった魚市場の女将がやってきたという。
 
 さすが商売人、目ざとく見つけた看板から、「ちょいと私にもあり切れ売っとくれよ」という声とともに第一号のお客になったと言われてんだ。
 
今も昔もクチコミは大きいもの
 
「駿河町の越後屋では、反物を切り売りしてくれるんだよ」
という噂が噂を呼んで、江戸の町人たちが殺到するようになった。
店の前に行列ができることが、ボストン美術館に所蔵されている当時の浮世絵にも残っている。
 
日本橋に上京してきた地方の人たちも、越後屋に来るようになった。
 
そうなると、最初は渋っていた番頭たちも、切り売りに励まなければならなくなってきたんだ。
 
江戸の町民にとってみれば、お好みのあり切れを、自分の希望するサイズ分だけ買えるんだからこんな嬉しいことはなかったんだ。
 
業績不振は何処へやら、潤沢なキャッシュフローによって、品物は高回転することになった。
さらには、そのキャッシュを使って両替商も始めることになったんだ。
 
窮余の策だったとはいえ、江戸の町民が一番欲しいものに着目した結果が今の私たちの基礎になったんだ。
 
変わるべきものとは、時代に合わせて変えていくこと
 
そして、
変わらざるものとは、目の前のお客さまが本当に欲しているものを、欲している形とタイミングで提案していくことなんだ。
 
私たちにはそのDNAが宿っていると知った。
日本初の百貨店のベースは、古着の繕いからだった。
 
ただし、当時の町民の一番大きな需要だった。
 
自分にとっていままで気づかなかった、強みとらしさだった。
 
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