プロフェッショナル・ゼミ

相棒は紙とペン《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:高林忠正(プロフェッショナル・ゼミ)
  
 百貨店に入社して20年目、スポーツ用品の仕入をはじめとする内勤生活が9年を過ぎたときだった。
 
予告もなく、店頭に異動した。
異動先は旗艦店である日本橋本店の食品売場、それもマネージャーだった。
表向きは栄転だが、私の心は暗澹たるものだった。
理由は、過去に食品を販売した経験がほとんどなかったからだった。
周囲から「おめでとうございます」と言われるたびに、内心で「ご愁傷様です」とリフレームをかけている自分がいた。
 
 新任地に挨拶に行った私は、自分の担当を知らされた。
海外ブランドの紅茶、ジャム、惣菜そしてパンなどの販売と2カ所のティーサロンの運営だった。
 
 食品は口から入るものでありう以上、衛生面の業務知識が必須である。
販売する前提として、安全で安心が求められるのだ。
 
もとより、自分はその知識を持ち合わせていなかった。
驚くことに、私の担当する部門には、男性がいないことが判明した。
スタッフは正社員、派遣社員を合わせて、63名すべてが女性だった。
百貨店は女性の園とは言うものの、女性だけのセクションで働いたことは皆無だった。
 
 想像もつかない仕事である以上、自分にとっての前任者にあたる現職のマネージャーから聞くしかないと思った。
ただし、引き継ぎ時間は15分だった。
「これを読んどいてください」とB4サイズの資料を手渡されただけだった。
それは、年間計画の売上高表だった。
分かるわけがなかった。
 
 百貨店の店頭のマネージャーの仕事のポイントは大きく3つある。
販売計画の策定と実行
商品の品揃え
効率的なスタッフの人員配置と働き方の管理
 
である。
私がスポーツ用品を販売していた9年前とは、店頭のシステムは大きく様変わりしていた。
浦島太郎というよりも、別世界に来た感じだった。
 
 そんな状態で、異動初日を迎えることになった。
 
 真新しい食品販売のオフホワイト色のジャケットを羽織った私は、午前10時の開店の1時間半も前に出勤した。
女性社員にやり方を聴きながら、品物をショーケースに入れ、倉庫に運び、清掃を行った。
 9時45分からは朝礼を行い、部下となる女性社員に自己紹介をした。それまでは型通りだった。
 そして開店を迎えた。
午前10時ちょうど、開店を告げるチャイムが鳴り響いた。同時に入り口のドアが開かれた。
過去も現在も百貨店の開店時、自分たちの持ち場に立って、お客さまを迎えるのが通例である。
 
 チャイムが鳴り終わると、在籍している社員は一斉に「おはようございます」と大きな声で挨拶をする。
それが店頭での1日の販売のスタートである。
そしてお客さまがご来場されるのだ。
 
 その朝は平日ではあったが、ヨハンシュトラウス作曲の『美しき青きドナウ』のメロディが流れるなか、地下の入口からお客さまがどっと入ってくるのが見えた。
 
 入口から大きな三つの大きな通路に分かれていた。
そのうちの一つの通路沿いにいた私は、お客さまの一団が私を目がけて進んでくるように見えた。
 先頭のお客さまが2メートルほどに近づいてきたとき、その方と目が合った。
40代のご婦人のお客さまだった。
会釈をした私は突然聞かれた。
「ジバンシーの新作(の販売)はどちらでしょう?」
 
ジバンシー……!!
 
品物は知っているが新作の販売って何?
 
とっさに声は出なかった。
 
背後から、「奥のエスカレーターで1階にお上りください。左側に新作のコーナーがございます」という声が聞こえた。
 
声の主は、部下の中でも役職がトップの女性リーダーだった。 
 
同時に「ちゃんとしっかり伝えてくださいよ」という冷ややかな目を向けられた。
 
そうなんだ。1階ではジバンシーの新作を販売してるんだ。
 
 
 
 店舗内の情報はしっかり覚えとかなくちゃ
気を取り直したつもりだった。
 
 すると、こんどは右側から声がかかった。
「ハロッズの14番のモーニングティーのティーバッグはどちらかな?」
50代の男性のお客さまだった。
 
ハロッズは私の担当商品のメインである。
 
14番の紅茶って?
 
「こちらでございます」
入社3年目の若手社員がお客さまを案内した。
 
30種類はあるであろう、ティーバッグのなかから、その品物を手に取って丁寧に説明を始めた。
 
何にも知らない……
 
商品知識は覚えなくちゃなぁ……
 
開店から10分も経っていないのに、冷や汗が出てくる感じだった。
 
 すると、目の前の固定電話が鳴った。
会社内からの通話と、会社の外からの通話では、着信音が異なる仕組みになっていた。
そのときは、会社の外からかかった電話だった。
 
周りを見ると、社員はすべて接客中だった。電話に出られるような手隙の社員はいなかった。
自信はなかったが、受話器を取った。
 
「お待たせいたしました。○○(会社の名前)日本橋店食品」続く自分の名前を言いかけた瞬間だった。
 
「あんたんとこの商品って、いったい、な〜んなのよ!!!」
 
「ジャムよ、ジャムなのよ!!!」
 
「あんたんとこって、こんな品物売ってんの?」
 
なんのことやらさっぱりわからなかった。
 
「ジャムのなかに髪の毛が入ってんのよ!!」
 
ええ!!
ジャムのなかに髪の毛が……
 
「それも金髪よ!!」
 
「聞いてる⁈」
 
ジャムの中に金髪⁈
驚きから、言葉が出なかった。
 
販売している英国製のジャムだった。
私たちの百貨店は、そのジャムの日本での独占販売権を持っていた。
 
しかも品物のラベルには、私の担当するセクションの住所と電話が表記されていた。
 
 本店ならびに、全国14の支店で販売されている以上、そのジャムに関するクレームや問い合わせは全国規模でこの固定電話に入る仕組みになっていた。
 
そんな事実は全く知らされていなかった。
 
「すぐにお取り替えさせていただきます」
と言って電話を切ったものの、
どう対応して良いのやらまったく見当がつかなかった。
 
社員の女性たちを見ると、すべて接客中だった。
声を掛けようもなかった。
 
仕方なく前任者に電話で聞いてみた。
 
「代わりの品物を持っていけばいいんですよ」
 
そんなにカンタンに済ませて良いものか?と
思ったが、時間は待ってくれなかった。
 
 背広に着替えてお詫びに伺った。
そのお客さまのご自宅は店舗の近くにあった。
 
 平身低頭して謝った。
ジャムを見せていただくと確かにマーマレードジャムのなかに、長さ2センチほどだろうか、細い金髪が入っていた。
 
 あってはならないことだと知りながら、何にもできない自分が情けなかった。
 
 私にとって人生初の食品の異物混入だった。
 
 社に戻った私に、部下の女性社員が何気なく言った。
「また(ジャムの異物混入が)ありましたか」と。
 
ということは、少なくとも複数回発生しているということだとわかった。
 
心の動揺はなかなか収まらなかった。
 
 すると、私のPHSに地下のインフォメーションから電話が入った。
 
「お待たせしました」と言うや否や、悲鳴にも似た声が聞こえてきた。
 
「お客さまがご立腹されてるんです。一刻も早く来てください」
 
取るものも取り敢えず、インフォメーションに急行した。
 
カウンターの脇には60代後半と思われるご婦人が立っていた。
 
「あんたが責任者さん?」
「あたしゃねぇ、にらまれちゃったのよ。もう50年この店には来てるけど、こんなこと初めてよ!」
「天下の○○ともあろうものが、お客をにらむって、どういうこと!!」
 
 聞いてみると、ティーサロンでウェイトレスがオーダーを取る際におっかない顔をしたとのことだった。
 
 ひとまず別室に案内してお話を伺うことになった。
15分以上にわたって、ご不満を聞き続けることになった。
ただ、頭を下げて「申し訳ございません」と言い続けた。
 
 初日だけでも、異物混入とサービスのクレーム。
翌日以降もネガティブな情報がもたらされ続けた。
「誠意を持って承らなくては」という気持ちが、次第に本来の仕事を忘れさせることになった。
毎日のように予期せぬクレーム対応に翻弄されることになった。
 
「販売計画を立てる」、「品揃えを考える」、そして「部下の働きを考える」というマネージャーとしての三本柱を実行するどころではなかった。
 
 そのうえ、男性は私一人であることから、力仕事などはすべて率先垂範することになった。
部下は交代で休む以上、店頭の人数は十分とは言えなかった。
 
 現場第一ということで店頭に立ってはみたものの、内勤生活が長かったため、接客の際のリアクションがどうしてもワンテンポずれた。
品物を包むラッピングも入社2年目の女性社員より遅く、体裁もよいとは言えなかった。
なかでもリボンかけは鬼門だった。女性社員たちのように「はなまる」のような楕円にはなかなかできなかった。
 
「なんとかしなくては」と思ったが、努力逆転の法則で、がんばればがんばるほど反比例の結果がもたらされた。
 
 部下の女性社員たちとコミュニケーションも取れずに、独り相撲の日々が続くことになった。
そのくせ、不必要に体を動かすことから汗臭くなったのだろう。
ある日、バックヤードにかけてあったジャケットに消臭源の原液がかけられていた。
心理的ダメージは大きかった。
 
2日に1回は入るジャムの異物(金髪)混入、
売上高は低迷
女性社員たちのとのコミュニケーション不足
「良かれ」と思って一所懸命行ったつもりの接客について、その翌日「ウザい」とクレームが入った。
 
 さらには、電話での対応が良くないということから、クレームがクレームを呼び、新幹線で大阪までお詫びに行くことになった。
大阪の造幣局近くのマンションだった。「おまえのところは危機管理はなってない」と叱責された。
 
 クレームはすべて自分の責任のような解釈を持ち始めていた。
金髪の異物混入について会社に申し出はしていても、少しも改善されなかった。
 
 休日もなんとかしなくては、と出勤した。
いつの間にか体も心も重くなっていた。
 
 山手線のホームに立っていると、なにか吸い込まれる気持ちになったことも2度や3度ではなかった。
 
 異動して4ヶ月、何をして良いかわからなかった。
何をしても、自分であって自分でないような感じだった。
上司からは、「何やってんだよ」と叱責されてばかりいたが、何をしてよいのやら皆目見当がつかなかった。
効率的な仕事とはかけ離れていたことから、部下の社員の残業時間だけが増え続けて、組織全体が疲弊することになってしまった。
 
本来、自分の組織を俯瞰してみていなくてはいけないのに、まるで視野狭窄の状態に陥っていた。
 
 心の底で、「誰か助けて〜」と叫んでいたが、何にも変わらなかった。
 
 そんなときだった。
本社総務の人事にいた同期の男性から、心理カウンセリングを紹介された。
まさに、ワラにもすがる思いだった。一も二もなく申し込んだ。
 
 そのカウンセリングルームは会社の隣にあった。
カウンセラーは50代後半の女性だった。
 
1週間に2回、1回あたりのカウンセリングは40分ほどだった。
とにかく始めてみた。最初の2週間は私が話すだけだった。
ほんとうに効果があるのかわからなかったが、続けるしかなかった。
 
 カウンセリングも3週間目に入ったときだった。
初めて具体的なアドバイスを受けた。
 
それは、
「紙に書いてみたら」だった。
 
紙に書く
 
そんなことでうまくいくのかよ
半信半疑だった。
 
でも、せっかくだからと背広の胸元から手帳を取り出した。
 
 そういえば、異動以来、書くどころではなかったことに気がついた。
目の前ではクレームを中心に現実がまるでジェットコースター状態のアップ&ダウンを繰り返しているようだった。
そのつど、自分の頭のなかだけでことを済ませようとしていた。
 
「何を書けばいいんですか?」
思わず、ムッとして聞いてしまった。
 
「なんでもいいのよ」
「気がついたことでもいいし、あるいはお客さまとのお約束の備忘録でもいいし」
 
 そんなカンタンなことでいいの?
もっと手っ取り早く今の状態から逃れられることってないのかよ?
 
そんなことも言ってられなかった。
まずは手帳に書き始めてみた。
 
お客さまのおっしゃったこと
 
心に残ったお客さまのお買い上げになったもの
 
上司の言ったこと
 
部下の女性社員の行動
 
などなど
 
次の日から、「事実」だけををつれづれなるままに書いてみた。
 
 ひたすら書いた。
変われることを信じて。
接客の合間、休憩時間、ミーティングの直後のオフィスの片隅で……
 
しかし、相変わらず、気が利かない対応ばかりをし続けていた。
それでも事実だけを書き続けた
 
1ヶ月、2ヶ月、ただただ書き続けた。
 
カウンセラーとの会話はとりとめもないものばかりだった。
ただ、その時間は1週間のなかでも特別な空間だった。
 
 書き続けて3ヶ月になろうとしたときだった。
ある週末の朝、なぜか心が落ち着いてくるのがわかった。
 
異物混入のクレームも減らず、予告もなしくるサービス上のクレームなど、私を取り巻く環境は少しも変わらなかったものの、不思議と全体が見えてくるような気がした。
 
 そのころから部下の女性社員たちとコミュニケーションが取れ始めてきた。
 
一方では、紙に書きながら、対話をしている自分がいた。
なんだか一人ではない気がしてきた。
 
すると、お客さまとの会話がまるで動画のようにイメージが展開されるようになってきた。
 
 そんなときだった。
新たなセクションへの人事異動を受けた。
 
「法人外商本部営業(法人営業)を命ず」
今回も未経験の仕事で、しかもマネージャーから2ランクのダウンだった。
周囲はヒラに降格された私に冷ややかな目を向けていた。
 
しかし自分のなかでは、何かホッとした気がした。
 
もちろん、ジャムの異物混入からエスケープできるという解放感はあった。
 
 ただ紙に書きながら、なぜか新しい仕事をこの百貨店での集大成にしようという気持ちが高まってきたのだった。
紙とペンを見ながら心に誓った。
 
 法人外商の仕事は毎日が楽しかった。入社以来、初めての体験だった。
紙とペンで新たな世界を創り出している気持ちになっていた。
 
気がつくと法人外商の4年間4ヶ月で、3度の社内MVPを受賞していた。
早期退社の日、相棒の紙とペンに「ありがとう」とつぶやいている自分がいた。
 
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