死にたてのゾンビ

ある朝目覚めたら、ゾンビになっていた《不定期連載「死にたてのゾンビ」》


記事:相澤綾子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
*この話はフィクションです
 

 
その日はスマホのアラームが鳴らなかった。寝ぼけたまま消してしまったのか。既にいつもの30分後だった。昨日も色んなことが頭の中を駆け巡って、なかなか寝付けなかったから、寝坊した。
でも、この程度の遅れなら、急げば間に合う。
カーテンを開ける。薄暗いまま、タンスから下着を取り出す。パジャマを脱ぐと、自分の足が想像より白っぽく見えることに驚く。腕も同じように白くかさついている。朝から夜遅くまで仕事で、土日も仕事か家にこもるばかりで、陽に当たる機会などここ数年なかったからだろうか。
洗面所に向かう。髪をゴムでまとめ、ヘアピンで前髪を押さえる。
水道のレバーをひねり上げ、お湯を出す。しばらく待つとほのかに湯気が立ってくる。お湯で手と顔を温めながら洗うのは、毎日のことながらいつも癒される。一度お湯を止め、石鹸を泡立てる。泡のキメが細かくなったところで、その中に顔をうずめ、そっと顔を洗い、またお湯を出す。すすぎ残しがないかどうか、念入りに額の生え際にもお湯を当てた後、タオルを取りながら、顔を上げる。
当てたタオルを外して、鏡に映った顔は、いつもの自分ではなかった。
「ひぃいい」
がくんと腰と膝が崩れて、後ろに倒れそうになった。かろうじて手をついたけれど、その手もぶるぶる震え始める。放り投げたタオルを拾い上げ、顔をうずめる。もう一度確かめるべきか。
顔色が蝋人形みたいに白かった。目の周りが落ちくぼんでいて、黒ずんでいた。そこまではいい。体調が悪いというだけのことかもしれない。でも信じられなかったのは、瞳の色が変わっていたのだ。私の瞳はどちらかといえば、薄い茶色だったけれど、にごった灰色になっていた。一瞬しか見なかったけれど、間違いない。
もう一度手足を見る。白い。薄気味悪い感じだ。おかしい。歯がガチガチ言い始める。
震える手を洗面台にかけ、どうにか立ち上がる。鏡の中を覗き込む。さっき見た通りの不気味な姿が、そこには映っていた。
鏡に顔を近づけて、瞳の色を見る。瞳の色だけでなく、瞳孔の色も薄くなっている。薄気味悪い。震える唇の色も薄くなっているからだった。
私はベッドにスマホを取りに行き、「瞳、グレー、病気」と検索してみる。白内障というキーワードが入っているページがたくさん表示される。画像検索に切り替えると、確かに灰色の瞳の画像がたくさん出てくるが瞳孔の色も薄くなっているのは見つからない。色んなところを見てみるけれど、見え方には問題ない。それにおかしくなったのは目だけではない。
再度、鏡を見て、私は気付いた。
この顔は、ゾンビだ。どこからも血を流してないから、すぐには思い浮かばなかった。でも、額に血のりでもつけて、髪の毛を乱れさせて、血のついた風でも着れば、ハロウィンの完璧な仮装になるだろう。
私は再度しゃがみこんだ。膝を抱え、どうすべきかを冷静に考えようとした。
いつも通りなら、私は急いで朝食を済ませ、職場に向かわなければいけない時間だった。こんな顔で職場に行ったら、みんな驚くだろうか。いつもパワハラ上司の顔が恐怖にひきつった顔を思い浮かべる。ずる賢くて嫌味な新人女子社員が悲鳴を上げるところを想像する。悪い人じゃないけれど、空気の読めない先輩は、こんなでも気付かないだろうか。気弱で無能な後輩は、腫れものにでも触るように接するのだろうか。
私は仕事用のカバンから手帳を取り出し、今日のスケジュールを確認する。明日は大事な会議があるから、午前中はその準備をしたかった。午後に得意先3件を回る約束をしていた。しかも、うち1件は憧れの女性部長がいるところで、いつも伺うのを楽しみにしているところだった。ついでに言うと、その部下で担当の男性社員は知的で、対応もいつもスマートで優しかった。もちろん表向きの顔なのだろうけれど、こんな人と一緒のチームで仕事できたらスムーズにことが進むんじゃないだろうかなんて想像もしたりした。
でもこんな顔で人に会うことができるのだろうか。少なくとも、もう彼には会いたくない。女性部長も気味悪がるのだろうか。それとも午前中病院に行って、その結果で午後の予定をキャンセルすべきだろうか。
でもどこも体調は悪くない。いつも通りだ。敢えて言うのなら、あまりの衝撃で、食欲が湧かないくらいだった。行くのなら眼科だろうか。眼科なんてもうここ何年もかかっていない。スマホで検索しているうちに、今日は休みのところが多く、面倒になった。やっぱり仕事だ。
私はシャツを来てスーツを着た。化粧をして、口紅を塗り、ブルーライト用の眼鏡をかけた。普段はコンタクトレンズだけれど、眼鏡の方がバレにくいだろう。
黒い帽子を出してきて目深にかぶり、鏡の前で確認する。これでそれほど目立たないだろう。時間はギリギリだった。駅までの道のり、通勤や通学のために歩く人たちとすれ違った。その度に少し目を伏せつつ、相手の顔を窺った。けれど、誰も私のことを気にしていなかった。みんな自分のことしか気にしていないのだろうか。それとも自分が思うほど、変には見えないのだろうか。
駅までの道を歩くうちに、あまりに誰からも変な目で見られないので、少しずつ大胆になり、目を合わせようともした。けれど、目が合わないか、合ったとしてもすぐに自然に逸らされた。驚きや恐怖の表情は見られない。
もしかしておかしくなったのは、自分の見た目じゃなくて、心なのかもしれない、とも思った。
確かにここのところ私はもう疲れ切っていた。最悪なチーム、パワハラ上司に振り回されて、思うように仕事が進まない。どれも自分にとって思い入れのある大事な仕事だった。年間のスケジュールを考えて仕事をしてきたのに、上司の確認を依頼しておいたのに、1か月近く放置されることが何件か続いた。催促してもダメだった。嫌味女子の仕事はすぐ見るのに。結果的に、年度の後半に色んなことがずれこんできた。期限のある仕事が重なり、連日の残業が続いている。何かをしながらも他の仕事のことも気になって集中できない。ミスが増え、それを上司に指摘される。
「きちんと確認したのか?」
「申し訳ありません」
あなたがあれやこれの確認を放置せずに1週間程度で済ませてくれれば、こんな今大変なことにならずに済んだのですよ、と言いたくなる。上司にとっては大したことない事業にしか思えなかったのだろう。
そんなことを繰り返し考えて、昨日も眠れなかった。チームのメンバーも、私がパワハラ上司に注意されることを喜んでいるようさえ見えた。もう誰もが敵だった。怒りからもう死んでしまおうかという気持ちと、自分の大事な仕事が最後までできないことの悔しさの間で、ぐるぐると揺れていた。
もう頭がおかしくなったのか。それとも、私は本当に死んでしまったのか。でも身体のどこも傷ついてなくて、死んだっぽい感じはない。いずれにしても、こんな状態で仕事に行こうとする自分はイカれている。
家を出る時は、電車になんて乗れないのではないかと思っていた。けれど、普通に改札を通り、ホームで列に並んでも、誰の視線を感じることもなかった。私は暑く感じ始めていた帽子をとり、カバンに入れた。
電車がホームに滑り込んできた。降りる人たちの流れが落ち着いた後、その1.5倍くらいの人を吸い込んでいく。運よく座席の横の手すりに摑まれる場所に立てた。背が低いので、つり革は苦手なのだ。
ふと視線を感じて、一つ隣のドア近くを見ると、つり革につかまりながら、男が私の方を覗き見ていた。思わず息をのんだ。その男の顔が、私と同じだったからだ。彼の顔は完全に青ざめていて、目の色もグレーだった。
私が驚いたのを見てわずかにうなずいた後、彼は満足したように首を戻し、窓の外に顔を向けた。誰も彼のことをじろじろと見たりはしていなかった。
私は混雑した電車の中を見回した。すると、先ほどの男性とは反対側の座席に座っている女性と目が合った。やはり彼女も私と同じだった。口紅を塗っているから気付きにくいけれど、目の色は隠しようがなかった。目が合った一瞬「あなたもそうなのね」と伝えてきたように見えた。
やはり私の見た目は変わっていたのだ。いや、もう頭もおかしくなっているのかもしれないけれど、どちらも大して変わらないだろう。
でも多分、普通の人には分からない。同じ境遇になった人どうしにしか分からないのだ。彼らはそのことを知っているのだろう。私もこのまま生きていくことになるのだろうか。
駅から会社までの道のりを歩きながら、今日の悩みに比べれば、昨日の夜までグチグチと悩んでいたことなんて大したことがないように思えた。あの程度のことで、死んじゃおうかなんて考えいたなんて。これから私は毎日鏡でこんな顔を見なければいけないのだろうか。まだ20代なのに、これから誰かと恋愛したり、いい仕事をしたりして、幸せな人生を送るチャンスだってあると思っていたのに。というか、そもそもこのまま生きられるのだろうか。
職場に着いて自分の席に着いた。既に来ていた新人女子が私の顔を見て挨拶しようしたけれど、ぽかんと開いた口がふさがらない。化粧やマツエクでごまかしているのかもしれないけれど、彼女もきっとそうなのだ。
数分後、到着した上司も、そうだった。男は化粧をするわけにもいかないから分かりやすい。こっち側の人間だった。というか、ゾンビの話だ。私が彼らのせいで、そちら側に引き込まれたのだ。がぶりと首筋を噛んでゾンビを増やすなんて、映画の中の話だ。現実のゾンビはそんな風に増えていくわけではない。じわじわと心を攻撃して、壊すんだ。人間の心なんて、あっという間に壊れてしまう。
死んだはずなのに、不思議と力が湧いてきた。昨日まで怒りで震えつつも、どこか、自分が悪いのではないかという気持ちがあって、自分を責め続けてきた。でも上司やストレスの原因の嫌味女子がゾンビだと分かって、彼らは私を陥れようとしていたんだということに気付いた。
私も誰かを攻撃すべきなんだろうか。そう思いつつ、隣の後輩を見た。キーボードを叩いていた手を止め、後輩は私の方を向いた。
「目の調子が悪いんですか?」
と尋ねてくる。
「えっ」
私は思わず声が出なくなる。彼の目の色はいつも通り黒色だし、唇の色も自然だ。顔もどちらかといえば浅黒い。
「今日は眼鏡なので。コンタクトが入らなかったのかと思いまして」
そのことだったのかと、ほっとする。
「ええ、まあ」
向かいの席の同僚は誰かと電話で機嫌良さそうに話していた。彼はどんな攻撃もスルーして効かなそうだ。いや、そもそも私は攻撃タイプじゃない。ゾンビになったって、変わらない。それとも今はまだ死にたてだからこんな風に考えるけれど、徐々に変わってしまうのか。
吹っ切れたのか、いつになく午前中の仕事ははかどった。これまでは上司の目が気になったけれど、思う通りに作った。悪い気分じゃない。
社内には、他にもゾンビがいた。何人かは、アイツもゾンビになったんだ、みたいな視線を送ってきた。パワハラ上司や嫌味女子みたいに前から苦手だったような人もいたけれど、あの人がどうして、という人もいたりした。
午後も予定通り、得意先を回ることにした。得意先の社内にもゾンビがいた。今まで気付かなかっただけで、こういう人たちも普通に生きてきたのだ。私もこれから普通に生きていけるのかもしれない。
憧れの女性部長もいつも通りの対応をしてくれた。部下の彼がいなかったのは、ホッとした。今日だけは、彼には会いたくなかった。いや、仮に普通に生きられるとしても、もう彼と前のように話すことなんて、想像できない。
話を終えた帰り際、背の高い女性部長は私の耳元に顔を近付け、誰にも聞こえないように囁いた。
「カラコンを買ったらいいわ。ついでに瞳が大きく見えるタイプを選べば、気分も上がるわよ。不安にならないで。強く願えば、幸せになれるわ」

 

 

❏ライタープロフィール
相澤綾子(Ayako Aizawa)
1976年千葉県市原市生まれ。地方公務員。3児の母。
2017年8月に受講を開始した天狼院ライティングゼミをきっかけにライターを目指す。

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2018-12-10 | Posted in 死にたてのゾンビ

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