死にたてのゾンビ

ゾンビになった瞬間、私は何も怖くなくなった ~妊婦、電車の中で倒れる~《不定期連載「死にたてのゾンビ」》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:戸田タマス(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「すみません!! どなたか、次の駅まで席を代わっていただけませんか!!」
 
私は、暗くなっていく視界の先にかろうじて見える、優先座席に向かって叫んだ。
これは、ほんの2週間ほど前の実話だ。

 
 
 

私事で恐縮だけれど、私はこの記事を書いている今、妊婦である。
まだお腹はそれほど大きくなっておらず、コートやダウンジャケットを着ていれば全く分からない。
 
しかし私は、今、妊娠期間中で最も過酷な時期を過ごしていると断言できる。
なぜなら、悪阻(つわり)中だからだ。私は悪阻がけっこうひどいタイプなのである。
 
悪阻を説明するのは難しい。一切気持ち悪くならない人から、水すら飲めずに入院してしまう人まで、とても個人差が大きいものだからだ。
私の母は全くなかったと言っていた。しかし私の場合は「ひどい船酔い、もしくは二日酔いの気持ち悪さ・めまい・頭痛が24時間3ヶ月以上続く」という表現がぴったりくる。しかも、何が吐き気のトリガーになるのかが全く分からないので、いつも嘔吐の恐怖におびえている。
 
先日、ふと鏡で自分の顔を見て、本気でびっくりしてしまった。
真っ青な顔、半開きの目と口。ボッサボサの髪の毛。前傾姿勢でヨロヨロ歩く姿。
我ながら、こりゃ「瀕死」だなと思った。
 
あえて「瀕死」という言葉を使うのには、理由がある。
それは、どうしても「死んでしまう」わけにはいかないからである。
上の2歳の娘のお世話と、家事、そしてもちろん自分の会社の仕事もある。激務で泊まりがけの多い夫に頼めることは少なく、結局は、自分で必死にこなさなくてはならない状態だった。いわゆるワンオペ育児というやつである。
時にはお惣菜や家事代行サービスに頼りつつも、やらなきゃ、という責任感でかろうじて生きていたのだった。

 
 
 

そんな状態が2か月近く続いただろうか。
ある朝、私は出勤のため電車に揺られていた。
 
この日は、朝からとても体調が悪く、ハンカチにレモンのアロマをしみ込ませ、それを嗅ぎながら吐き気に耐えての通勤だった。残念ながら空いている座席がなく、私はつり革につかまって立っていた。どうやら電車の揺れが吐き気のトリガーであったようで、電車が出発したり止まったりするたびに、私は肩で息をしていた。
 
するとその時、何の前触れもなく、吐き気ではなく強烈なめまいが襲ってきたのだ。
 
視界が、コーヒーにミルクを垂らした時のように、ゆっくりと円を描いて回り出した。
 
あれ……?
 
そうかと思う間もなく、今度はステージの幕が下りてくる時のように、視界の上からだんだんと紫色になっていった。すぐ近くに立っている女性の顔が見えなくなり、足がガクガク揺れ出した。
 
電車の中はかなりの満員状態。皆、自分のスマホを見ているため、誰も私の状況には気づいていないようだった。身体に力が入らず前のめりになっていき、私は電車の中で膝をついてしまった。
 
こんなところで倒れるわけにはいかない! 恥ずかしい!
電車止めたら周りの人に睨まれる? 迷惑だよね。
いやいや、とりあえず会社に行かなきゃ!
吐くかも? でもエチケット袋持ってない!
ていうか、お腹の子供は大丈夫!?
 
頭の中はたくさんの考えでパニックだった。
しかし、あまりの辛さに、最後、私の中に残った考えはこれだった。
 
もう嫌だ、何もしたくない、休みたい。
いっそ死にたい。
 
……いや、もう死んでしまおう。
2か月以上「瀕死」で、私はもう十分頑張った。もういいよね……?

 
 
 

そう思った瞬間、私の中で何かが変わった。

 
 
 

私は今、死んだ。そして、今ここにいる私はゾンビだ。
ゾンビには何も怖いものなんかない。痛みだってない。
 
誰に何と思われてもいい。もう、絶対に今すぐ休んでやる!!
 
「すみません!! どなたか、次の駅まで席を代わっていただけませんか!!」
 
気が付けば、優先座席に向かって声を張り上げていたのだった。

 
 
 

すぐに数人が、飛ぶように立ち上がってくれた。私は礼を言って座り、次に着いた駅で降りてそのまま1人で家に帰った。会社には事情を話して欠勤の連絡をした。
そして布団にもぐり込み、寝て、寝て、とにかく寝つづけた。気が付いたら夕方の5時になっていた。娘の保育園にも事情を話し、急きょ20時まで延長保育をしてもらった。お迎えは夫に頼んだ。その間もずっと、私は布団の中にいた。本当に何もしなかった。

 
 
 

今思い返しても、あの日は心身ともに疲労がたまり、限界が来ていたのだと思う。
あの瞬間、死んだばかりで、まさに「死にたてのゾンビ」の私は最強だった。
普段の私からは絶対出ないような大声が出せたし、会社や保育園への連絡の際も「申し訳ありませんが……」という態度ではなく「もう限界なんです」と強気に説明していた。
 
そして同時に、相変わらず吐き気とめまいがひどかったものの、とても晴れ晴れとした気分になった。もう頑張らなくていいんだ、寝れるんだ……と最高の気分だった。
 
1995年公開、スティーブン・スピルバーグ氏が制作総指揮をとっているコメディー映画「キャスパー」のワンシーンを思い出す。
ヒロインの女の子キャットの父親、ハーヴェイ博士がうっかり死んでしまいゴーストになった時、セリフはうろ覚えなのだが「すばらしい気分だ!」と大喜びするというシーンだ。
 
死んですぐのゴーストは、きっと今までのしがらみや重圧から解放されるわ、空も飛べるわ壁もすり抜けられるわで、最高に楽しい気分になるのだろう。
私は残念ながらゾンビだったので、空を飛んだり壁をすり抜けたりはできなかったけれど、あの時の気持ちはまさにハーヴェイ博士と同じだったように思う。
 
その後ハーヴェイ博士は、娘の悲しむ顔を見てすぐに正気に戻り、キャスパーによって人間に戻してもらうことになる。
私も、最高の気分で休んだのはその日1日だけ。翌日にはまたいつもの日常をこなすため「瀕死」状態に蘇生していった。

 
 
 

しかし、無理をしすぎていたことは、事実として重く受け止めた。
 
幸い大事には至らなかったものの、私が今、一番大切に考えなければいけないのは、お腹の子供であるべきだった。無理をせず辛い時には「死んで」良かったのだ。万が一の事態が起こっていたら、本当に取り返しがつかないのに。
夫とも話し合い、今後は絶対に無理はしないこと、サボっていいものはサボること、どうしても辛い時は何もせずに休むことを誓った。夫も出来るだけ家事を引き受けてくれた。

 
 
 

私は、今回のことは妊婦だけの話にとどまらないと考えている。
「自分がやらなきゃ」と、たくさんのタスクに日々追われ、心身ともにすり減っていく人は多いだろう。真面目な人ほど、どんどん自分を追い込んでしまう。
しかし、それは本当に自分でなくちゃいけないのか? 必ずやる必要はあるのか? そして、一番大切にしたいものは何なのか……。
しっかり取捨選択し、時には休み……と、負担を軽くしていくことも、とても大切なことなのだ。

 
 
 

私も今後は、何が一番大切なのかを忘れず、できる範囲での「瀕死」で頑張っていきたいと思う。
少し不謹慎だけれども、実は、疲れた時はまたゾンビ状態になってもいいのだ、と思うだけで気持ちが楽になった。今度は2日くらい寝続けてやろうか。それとも、本をたくさん買い込んで、ゴロゴロしながら読んでやろうか……と、ちょっとワクワクしてしまう自分がいる。
 
ん? 私、もしかして、最近ちょっと元気になってきてるのかな?
 
長かった悪阻も、もうすぐ終わる日が近いのかも知れない。
とりあえず、それまでにもう一度くらい「死にたてのゾンビ」になっておかなければ。
そう思っていることは、もちろん夫には秘密である。

 
 

❏ライタープロフィール
戸田タマス(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
滋賀県出身。同志社大学卒。
派遣社員として金融機関を中心に従事する傍ら、一児の母として育児に奮闘中。
あるオウンドメディア内でライティングを初めて担当し、「書くこと」の楽しさ、難しさを知る。スキルアップのために、2018年8月天狼院書店のライティング・ゼミ日曜コースに参加したことをきっかけに、ますます「書くこと」にハマる。
しがない三十路の主婦がどこまで書けるようになるのか。ワクワクしながら自分へのチャレンジを楽しんでいます。

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2019-03-21 | Posted in 死にたてのゾンビ

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