週刊READING LIFE vol.69

涙もろいロクデナシな僕には泣く資格がない《週刊READING LIFE Vol.69 「とにかく私を泣かせてくれ」》


記事:黒崎良英(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

「歳を取ると涙もろくなっていけねぇ」
 
と、強がりというか言い訳というか、涙を見せるときにはそんなことを言っている。
 
しかし実際には、涙もろいのは今に始まったことではない。
幼少期から兎角すぐ泣く子どもであった。
叱られては泣いた。
笑われた恥ずかしさや悔しさで泣いた。
物理的にちょっと痛いことでも泣いた。
テレビで感動することでも泣いた。
なぜか『太陽に吠えろ』で爆弾解体が成功するシーンで号泣したことを覚えている。当時は確か5歳くらいだったと思うが……
 
そしてこんな状態、というか感覚は、改善されることもなく今に至るというわけだ。まあ、痛さへの耐性はついたと思うが……
 
この泣きやすい、というのは、情緒豊といえば聞こえは良いが、当時の子どもたちに取っては弱さの象徴でもあった。おかげで感動する作品を見ては感涙にむせび、そのことでバカにされていた。
 
「あんなので泣いたの(笑)」「こいつ涙流してるぞ(笑)」
 
と言った具合である。今の若い方々は信じられないかもしれないが、そういうものであった。
 
それがトラウマとなったためか、集団で感動する作品を見ることが、いまだに苦手である。
したがって映画館には誘われない限り足を運んだことがない。人生の半分を損しているとか言われそうだが、幼少期から積み上げられた経験が、それを拒否するのである。
 
とにかく、私は簡単に泣ける。全米が泣かなくても日本中が泣かなくても、私だけは泣く自信がある。
陳腐なお涙頂戴作品だったとしても、私が見れば号泣である。それこそバカにされるほどに泣ける。「こんなものでも泣けるの?」という作品でも泣ける。
 
だから、私を感動させる作品を作るのは簡単である。
大切な人が病等で死んだりすればよいのだ。なんなら余命宣告あたりでも結構である。
努力の末に何かを成し遂げ、感動するシーンでも泣けるだろう。
単なる別れを描いてもよい。ちなみに私は教職についている身であるが、この間なぞ卒業生に送る言葉を自分で書いて読んでいたら泣きそうになった。危ないところであった。
 
が、やはり効果的な涙は、大切な人の死によってもたらされる。
これは私だけに限った話ではないだろう。
実際にそういう話は感動を呼びやすく、観客・視聴者も呼びやすい(もちろん要素は様々にあるだろうが)。
全米だって泣くに違いない。
 
まあ、私のことだからそういうものだろうな、と不謹慎ながら、身近人の死について思い出していた。
 
が、そこで私はハタと気づき、愕然とする。そのとき、つまり身近な人の死に際したとき、私は泣いていなかったではないか、と。
 
幼少期、私は腎臓の病で長期入院を余儀なくされた。小学校に上がる前の幼い頃である。
そこには多くの入院仲間がいた。ともにいたずらをしては看護師さんに怒られたりもした。それでも懲りずにいたずらをやめなかった悪ガキ仲間だった。
 
長く音沙汰がなかったそのうちの一人は、私が働き出してから、葬儀で顔を見ることになる。
 
腎臓の悪化なのか、他の病の併発なのか、他人事ではないのだろうが、どこか現実感がなかった。
 
幼少期の写真も飾ってあったが、記憶に遠かった。
 
泣けなかった。
 
あれほど親しくしていたが、幼い頃から久しく会っていなかったからだろうか。とにかく泣けなかった。
 
また、同じく一緒に入院していた年上の女性がいた。間違いなく当時の私には「お姉さん」であった。持病があるとはとても信じられないような方で、退院した次の日に野球をしていたらしい。
 
その人が家の近所に住んでいる、と聞いたのは小学生になってからである。私が愛犬の散歩をしているとき、家の前を通ると、声をかけてくれた。ちょうど仕事から帰宅したときだったようだ。
思い出は美化されやすいというが、それを差し引いても元気そうな、かつ、美しい方だった。
何の話をしたかは忘れたが、私の体を気遣って、様子を聞いてくれたのは覚えている。
 
その元気そうだったお姉さんも亡くなった。最後に会ってから数年過ぎていたと思う。
 
まだ中学生だったこともあり、葬儀には行けなかった。だからなのだろうか、やはり泣けなかった。正直に言って「は?」という言葉しか出なかった。現実感もそうだが、一体何が起こっているのか、それ自体も分からなかったのかもしれない。
 
また、入院仲間ではない人の死にも遭遇したことがある。
小学生6年生の時だ。
一人の女子がいた。同じクラスで、しかし長期の入院をしており、春以降、中々登校してこなかった。私も経験していた身なので、他の児童よりかは疑問に思わなかったのだと思う。そういうこともあるよな、大変だな、ぐらいに。
 
私はたまたま彼女と保健委員をしていた。彼女が委員長で、私が副委員長だった。だから何か話はしたことがあるのは間違いない。ただ、何を話したかは分からない。もちろん係の仕事の話なのだろうが。
 
その彼女が難病で亡くなったことは、小学校を卒業してすぐに知らせが来た。担任の先生がクラスメイトを集め、一緒に葬儀に行くことになった。
親友だった女子が、別れの言葉を涙ながらに読んだ。
会場は静かな涙に満ちていたが、クソガキだった我らは待機中に取り止めのない話をして笑っていた。
だからだろうか、泣けなかった。
 
高校3年生の12月、暮れが迫った頃、一緒に住んでいた祖父が亡くなった。意識ははっきりしていたが、しばらくは寝たきりになっていた。結局は癌であった。
一時期危ないかも、と医師が家族を呼んだことがあったが、それでも容態が激変することもなく、私は「この調子だと一緒に年を越せるかも」と楽観的に考えていた。
しかしその楽観的な考えも虚しく、祖父は年を越すことなく、旅立っていった。
 
年末年始のことなので、遺体はしばらく家に置かれた。魔除のために、刃物を胸のあたりに置いていた。祖父が買った骨董品の小刀だった。
傍らでは認知症を患っていた祖母が泣いていた。その頃には私の顔も分からなくなっていたので、「どうぞこちらに来てやってください」などと他人のように言われた。
 
だからだろうか。その遺体を前にして、私は一滴も涙が流れなかった。
 
その認知症の祖母も、私が大学時代、足の手術をしている時に亡くなった。もちろん家に向かわなければならないのだが、とても移動ができる状態ではなかった。
歯がゆい思いをしつつも、私が実家に戻ったのは、それから2週間が過ぎた頃だった。
 
だからだろうか。遺影を前にしても、涙が流れなかった。
 
あれほどフィクションに対して簡単に泣けていた私は、その実、実際の死に際しては驚くほど涙が出なかった。
確かに悲しかったのだろう。だが、何か現実感が欠けていた。
 
いや、だから泣けないというのもおかしい。私が簡単に涙を流すのは、現実とは無縁のフィクションである。ノンフィクションでも泣けるが、所詮は他人事の物語である。それに対しては大いに泣ける。
 
だが、私は身近な人の死に対して、全く泣けなかった。
 
おそらく、ではあるが、私はこのあたりのことについて、全然成長していないのだと思う。
すなわち、「死を受け入れる」ということ、あるいは「死とは何か」ということについて、私の認識は幼い児童のまま、理解が追いつかないのではないだろうか。
 
いや、それも自己防衛策であるのだろう。誰かの、特にその顔を知っている人の死に対して、そしてその人が身近な人だった場合に対して、私はある問いをせずにはいられない。
 
「彼は死に、己は生きた。その違いは何であったか?」
 
この問いの裏にあるのはこうである。
 
「自分のようなロクでもない人間が生きて、どうしてあの人が死ななければならなかったのか?」
 
そんなやるせない疑問である。そしてそれはとりも直さず、自分のロクでもなさを吐露することになる。
 
この問いの答えは未だに導き出せない。運とか、天命とか、そんな形のはっきりしないチャチなものであるはずがないし、ましてや日頃の行いなどと言われた日には、私は真っ先にあの世行きである。
 
このロクでもなさを痛感する前に、私は彼らの死を「現実としては受け止められない」というこれまた陳腐な言葉で認識しようとするのだろう。
 
確かに間違いではない。特に急な死に対して、私は「は?」としか言えなくなる。
 
ただどの道、私が自己防衛しかできないロクでもない人間であることには変わらない。どんな言い訳をしても、私は、彼ら彼女らの死に、涙を流せなかったのだから。
 
今日の平和な日本において、死はもはやエンターテイメントの一部になりつつある。死という要素を入れ込めば、感動的な作品にもなるし、ワイドショーは視聴率を稼げる。
 
そう、死はあくまで一線を画した「あちら側」にあるものであり、「こちら側」で見て享受するものである。
「死」はファンタジーである必要があるし、だからこそ遠慮なく感動できるし、涙を流せるのだろう。
 
不謹慎な言い方かもしれない。しかしそうでなければその膨大すぎる悲しみに押しつぶされてしまうのではないだろうか。
 
もしかしたら、私がごまかそうとしていたのは、そんな膨大すぎる悲しみなのだろうか。
 
いや、それはあるまい。あくまで私が幼く、薄情で、ロクでもないことを隠したがる小心者であるからだ。
だから泣けないのだし、それでよい。
 
私が、このロクでない人間が、彼ら彼女ら素晴らしい人に涙を流すなど許されない。きっとそうなのだ。
 
ただ、そう、今になって少し後悔もしている。
私は、死んでいったあの人たちとどんな話をしたのだろう。それが思い出せない。
学校で、病院で、近所で、家で……私は、あの人たちとどんな時間を共有していたのだろうか。
 
学校が卒業式の準備期間になると、ふと、小学生の時に亡くなったあの子を思い出す。
あの子にとって私は、クラスメイトで同じ委員会で、それ以上でもそれ以下でもない子どもであっただろう。私も同様である。
したがってここに膨大な悲しみがあるとは思えない。別れの言葉を読んだ彼女の親友のように、号泣することはできない。またその資格もない。
 
中学生になった時、我々はまた集められ、墓参りに行くことになった。相変わらず涙は出ない。それどころかご両親が用意してくれた図書券をもらって喜んでいた。それ以降、私は彼女の墓参りに行ってはいない。
 
そんなロクでもない子どもであり、それが年だけ重ねたのが今の私である。そりゃあ泣けないし、泣く資格もないというものだ。
 
ただ一つ、怒られそうでもあるが、叶うならば一つだけ、教えて欲しいことがある。
 
僕は君と、どんな話をしたんだっけ?

 
 
 
 

◽︎黒崎良英(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
山梨県在住。大学にて国文学を専攻する傍ら、情報科の教員免許を取得。現在は故郷山梨の高校で、国語科と情報科を教えている。また、大学在学中、夏目漱石の孫である夏目房之介教授の、現代マンガ学講義を受け、オタクコンテンツの教育的利用を考えるようになる。ただし未だに効果的な授業になった試しが無い。デジタルとアナログの融合を図るデジタル好きなアナログ人間。趣味は広く浅くで多岐にわたる。

この記事は、天狼院書店の大人気講座・人生を変えるライティング教室「ライティング・ゼミ」を受講した方が書いたものです。ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。

http://tenro-in.com/zemi/103447


2020-02-17 | Posted in 週刊READING LIFE vol.69

関連記事