週刊READING LIFE vol.72

英雄ポロネーズとルパン三世《週刊READING LIFE Vol.72 「人間観察」》


記事:井村ゆうこ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

自分は人間観察が得意なのだと、ずっと思っていた。相手の行動や表情を観察して、その人の望んでいる反応を示し、求めている対応をとる。「空気を読む」なんて朝飯前だとずっと信じていた。
ところが、私は完全に間違っていた。人間観察が得意だなんて大きな勘違いだった。空気なんて読めていないどころか、感じとれてさえいなかった。私にそのことを気づかせてくれたのは、プロピアニスト辻井伸行さんの母、辻井いつ子さんだ。講演会の壇上から発せられた、いつ子さんの声が頭の中で繰り返し響く。
「子どもをよく観察すると、その子が何を求めているのかがわかります。その子の才能の芽を発見することができます」

 

 

 

生後まもなく全盲であるとわかった息子、伸行さんをどのように育てたのか。彼の中にある音楽の才能に、いかにして気づいたのか。息子を世界的ピアニストに導くため、母として何を大切にしてきたのか。
「こうしてわが子を育ててきた」と題した講演会で、いつ子さんは母子二人三脚で歩んだ道のりについて、丁寧に話しをしてくれた。
 
伸行さんは、音に敏感な赤ちゃんだったという。洗濯機や掃除機といった家電から発せられる雑音を嫌がっては頻繁に泣きだすため、母であるいつ子さんは、その度に家事の手を止めて伸行さんをあやさなければならなかった。私にも6歳の娘がいるからわかる。いったん始めた家事を中断させる赤ちゃんの泣き声が、いかに母親から気力と体力と心の安定を奪っていくのかを。泣きたいのは自分の方だと途方に暮れたこともあったことだろう。
 
伸行さんが生まれてから、辻井家にはいつも音楽が流れていた。CDをかけたり、いつ子さんが歌を口ずさむ。家の中から音楽が消えると、伸行さんが不機嫌になるからだ。生後8か月を迎えたころ、ある曲が流れると決まって彼が、小さな足をふすまにぶつけてリズムをとるようになった。ショパンの「英雄ポロネーズ」だ。息子がお気に入りのCDを、傷がついて音が出なくなるまで母はかけ続けた。1代目が力尽きるとすぐに2代目を購入した。ところが、それまで全身でよろこびを表現していた息子の体がぴくりとも動かない。いったいどうしたというのか。2代目を何度試しても、息子の態度は変わらない。答えを求めるように、1代目と2代目のCDを並べてみた。そこで母は気がつく。演奏者が違ったのだ。もしかして、この子は演奏者の違いがわかっている? 半信半疑のまま店に向かい、1代目と同じロシアのピアニスト、ブーニンが演奏する「英雄ポロネーズ」を購入した。家に帰りCDをかける。再び足を動かしてよろこぶ息子を見て母は確信する。この子は演奏者の違いがわかっている。わかる耳を持っている。
その後、いつ子さんは伸行さんのなかに、音楽の才能があることを発見していった。
 
ブーニンが奏でる「英雄ポロネーズ」だけが、伸行さんを特別ご機嫌にすることを、もしいつ子さんが見逃していたら、天才ピアニスト辻井伸行は生まれていなかったかもしれない。
わが子の才能を引き出すためには、よく観察することが大切だと語ったいつ子さんが、講演の終盤に口にした言葉が胸に響いた。
「自分の子どもには大きな可能性があることを信じてあげて欲しい。子どもの可能性を強く信じる。それができるのは親だけです」

 

 

 

現在6歳の娘がピアノ教室に通い始めて約1年が経とうとしている。最初は音符を読んで、指一本一本で音をなぞっていた練習も、今では両手を使った曲に挑戦するまでになった。週1回、30分のレッスンに嫌がることなく通っている。娘がピアノを始めるきっかけを作ったのは、音痴というコンプレックスを持つ私だった。
小学生の頃、父親が勤務する会社の社宅に私たち家族は住んでいた。その社宅から歩いて5分くらいの場所に、白い壁と大きな門をもつ家があり、同級生の女の子が住んでいた。彼女の家からはよくピアノの音が聞こえてきた。お母さんがピアノの先生だから、私も教えてもらっているだと彼女は話した。聞いたこともないクラシックの曲が流れる彼女の家に遊びに行くとき、私は少し緊張した。同じ社宅の友だちの家に行くときは気付きもしなかった靴下の汚れが気になって仕方がなかった。彼女の家から帰る度に、私は母にピアノを習わせてくれとせがんだ。母は同じ返事を繰り返した。ピアノを置く部屋も買うお金もないと。
 
「ピアノ、習ってみたい?」
1年前、娘にそう問いかけたとき、私の目は娘を見ていただろうか。娘の様子をよく観察していただろうか。習い事は本人がやりたいと言ったものをやらせようと決めていた。スイミングも英会話も同じ質問をしてから始めた。娘がやりたいと言ったから始めたのだと疑わずにきた。子どもの意思を尊重している立派な親のつもりでいた。親の夢を託そうなどと思ったことはないと信じていた。
 
リビングに置いてある電子ピアノの鍵盤を娘が叩いている。目が宿題として出されている曲の譜面を追っている。一曲弾き終えた娘が振り返って、私を見る。
「もう一回弾かなきゃだめ?」
母親の口から、練習を終わらせる許可が出るのを待っている。不安そうな目を向ける娘を見て、私は気づく。私がしていたのは観察じゃない、監視だ。
娘が何に興味を持っているのか、こころ惹かれているのはどんなことなのか、見極めようとしていなかった。親の期待通りの結果を出すために動くことを強要していた。目に見えないレールを敷き、そこから娘の足がはみ出さないように手を出し、口をはさんでいた。
私は親として愛情を持って娘を観察することができていなかった。生まれてから6年間、きっと娘が出し続けていたであろう「可能性」という空気を、読んでやれていなかった。
 
娘がまだ私のお腹の中にいたとき、娘の足が蹴ってくるのを感じようと、自分のお腹に手を当ててじっと待っていたことを思い出す。2,400グラム余りで誕生した小さな体を、初めて抱っこしたときの頼りない感触がよみがえる。あの頃、私は全身全霊でわが子に意識を集中させていた。目を開いて観察していた。お腹を蹴る足の動きが弱いと大丈夫かと心配し、強ければ元気いっぱいだねと話しかけた。生まれてから1歳の誕生日を迎えるまでは毎日ノートに娘の成長を記録した。お気に入りのおもちゃ、ご機嫌になる絵本、一瞬で泣き止む動画を見つけた。寝返りをしようと小さな体をひねり、立ち上がっては何度も尻もちをつく娘を励ました。我が子にただひたすら目を向けていた自分の姿が浮かび上がる。
 
いつから私は、娘を監視するようになってしまったのだろう。
いつから娘に、自分の夢を、価値観を押し付けるようになってしまったのだろう。
いつから娘を、親の顔色を観察する子にしてしまったのだろう。
 
週刊READING LIFEに「人間観察」というテーマが与えられたのと同じ週に、辻井いつ子さんの講演会が開催されたことは単なる偶然だろう。しかし、「人間観察」というテーマが頭になければ、いつ子さんの講演会に私はきっと足を運ばなかった。記事を書くネタが欲しかったのだ。講演会で気になる人をみつけたら観察するつもりでいた。結果は、自分という人間の内面を観察することになった。母親としての自分を根本から見直すことを迫られた。私にとっては必然だったのかもしれない。
娘が健康に生まれてくることだけを願っていたのに。娘が元気に育ってくれることだけを望んでいたはずなのに。いつの間にか私は、欲張りになっていた。子どもを親の意のままに動かそうとしていた。娘が自分とは違うひとりの人間であることを理解していなかった。新しいことに挑戦し、失敗し、傷ついた娘が戻ってこられる安全基地になろうと、こころに誓ったことを忘れてしまっていた。
 
わが子をよく観察することが親の役目であるとするなら、その役目を果たせているか確認するために、自分の内面を観察することが親の義務なのではないだろうか。親も人間だ。迷子になることもある。自分が何を頼りに、どこに向かっているのかわからなくなることもある。自分の辿ってきた道がいちばん安全な道だと思いこむ。自分の知らない道、見たこともない世界が子どもの周りに広がっていることに気づけなかったりする。だからこそ、親はいったん立ち止まって、自分の今いる場所を確認する必要がある。子どもに目を向ける前に、自分という人間を観察し、親のエゴで子どもの可能性を踏みにじっていないか、見極めるべきなのではないだろうか。私はそう思う。
 
「ママ、ちょっと来て」
ピアノを弾いている娘が私を呼ぶ。
耳に届くのは、テキストで練習中の曲ではない。幼稚園の音楽発表会で演奏した、ルパン三世のテーマソングだ。スタンドシンバルを担当した娘は、幼稚園でメロディを弾く練習はしていない。楽譜も持っていない。
 
「弾けてるでしょ!」
私が子どもの頃に聞いたものよりちょっと頼りない、ルパン三世のテーマソングがリビングに響く。
振り返った娘のうれしそうな顔を、私はじっと見つめた。

 
 
 
 

◽︎井村ゆう子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
転勤族の夫と共に、全国を渡り歩くこと、13年目。現在2回目の大阪生活満喫中。
育児と両立できる仕事を模索する中で、天狼院書店のライティングゼミを受講。
「書くこと」で人生を変えたいと、ライターズ俱楽部に挑戦中。
天狼院メディアグランプリ30th season総合優勝。
趣味は、未練たっぷりの短歌を詠むことと、甘さたっぷりのお菓子を作ること。

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2020-03-09 | Posted in 週刊READING LIFE vol.72

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