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週刊READING LIFE vol.74

避難所にいた子供たちが教えてくれたこと 《週刊READING LIFE Vol.74「過去と未来」》


記事:杉下真絹子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
あぁ、また揺れてる、怖い……。
 
昨日の大きな地震以来、余震はずっと続いていた。
 
私は、東京のアパートで一人食事を済ませ、後片付けをしていた。
 
3月なのに、外はまだ寒くて、首振りヒーターで温まった室内と戸外の温度差で、窓ガラスにはたくさんの水滴がしたたり落ちていた。
 
そう、忘れもしない2011年3月11日午後2時過ぎ、東日本大震災が起こった。マグニチュード9.0とも言われる巨大地震の後、想像を絶するような津波が東北地方を襲うことを、誰が想像していただろうか。
 
日本はパニックに陥っていた。
 
東京ではほぼすべての交通機関が止まり、何百万人という人たちが自宅まで歩くか、駅で一夜を過ごさなければならなかった。
 
私もその一人で、会社がある表参道から桜新町のアパートまでひたすら歩いていた。やっと近くまで戻ってきたので、近所にあるコンビニに立ち寄ったが、必要な物品や食料を調達しようと人が殺到し、商品の棚は見事に空っぽだった。
 
自宅に戻り、テレビをつけると、映画のワンシーンのような映像ばかりが映し出されていた。見れば見るほど、目を覆いたくなるような、想像を絶する東北地方での津波の映像が繰り返し出てきて、気分が重く、暗くなっていった。正直、一人でいるのか怖かった。
 
その時突然、食事後のお茶碗を黙々と洗っていた私に、もう一人の私が話しかけてきように思えた。
 
私はここで一人、何をしてるの?
お茶碗洗ってる場合?
今こそ、役に立つことすべきなのでは?
これまでの経験を活かさないで、どうするの?
 
その言葉が聞こえるも、食器洗いを終える前に、気が付くと私は岡山に本部を置くAMDA(アムダ)という医療保健分野の国際協力事業を展開するNGOに電話をかけていた。
 
「あ、もしもし、お久しぶりです。大変なことになりましたね。人、足りてます?」
 
実は、東京のコンサルタント会社に転職する前の7年間この組織で働いていて、私はミャンマーやザンビアなどで、様々な医療保健事業をマネージしていた。その一環で、緊急救援活動でフィリピンなどにも入ることがあり、緊急支援活動は経験していた。
 
私は電話をかけた日の夜、つまり地震発生の翌日の12日夜に、東北・仙台入りしていた。
 
AMDA事務局の人たちと落ち合い、今後の緊急支援活動の予定を確認し、その晩はある民家で雑魚寝をして一夜を過ごした。
 
が、しかし、余震があまりに凄くて、ほとんど寝付けない。
いや、余震というよりも、普通の地震と言ってもおかしくない。
寝ながら、回転速度の速いメリーゴーランドに乗っているような感じだった。
 
翌朝、避難所に向かって北上しようとしていた直前、ニュースが入り、福島の原発でメルトダウンが起こっているという。時間がたつと、さらに入ってくる情報が錯綜し、現地では混乱すると同時に、このままではここに封じ込めになるかもしれないという。
 
本当に映画のようになってきた。
 
そのため、いったん緊急支援活動はやめて、まずは状況を確認しつつ身の危険を回避することでチームは、福島を避け、車を北に飛ばして、岩手・秋田を通り山形から新潟に入るルートで東北から離れることになった。同時に、そのつもりで東北入りした私にとっては、消化不良に終わってしまった。
 
そして、その3週間後、再び私は宮城県南三陸町に入った。
 
約17,600人の人口のうち半数以上である10,000人近い住民の家が崩壊・破損するなどして、震災直後、多くが避難所生活を余儀なくされていた。
 
ライフラインである、水、電気、ガスは完全に止まり、復旧のめどが立っていなかった。
 
私は、緊急医療支援チームの調整員として、派遣された医師や看護師などをとりまとめ、南三陸町にある志津川小学校の体育館を避難所の拠点として、南三陸の災害対策本部との連絡調整や地域の巡回診療の調整・支援活動をすることになった。
 
私たち医療チームは小学校の教室の中で寝泊まりし、避難所となった体育館にいる避難者の支援にあたっていた。私が初めて寝泊まりする教室に入った時に最初に目に入ったのは、地震が起きた14時46分で止まったまま、左に傾きずり落ちている時計だった。
 
なぜか、その時計を見て、広島の原爆をテーマに画いた「はだしのゲン」という漫画を思い出した。
 
傾いた時計を見て、時は、完全にあの時(過去)に止まってしまっているようにも思えたし、あの恐ろしい出来事を忘れるべきではないと言っているかのようにも思えた。
 
震災1か月経っても、まだまだ落ち着く様子が見えなかった。
 
災害対策本部が設置されていた中学校の体育館では、「行方不明者の安否確認」情報の張り紙がたくさんあった。みんな、誰かを探しているのである。
 
家にいる患者さんのための巡回診療で周辺を回ると、茶色の重装トラックから降りてきた自衛隊の人たちが、がれきの中に入り、遺体を探す姿が見られた。
 
3月・4月の東北地方は、まだまだ寒い。
体育館での夜の底冷えが半端ない。
 
そこで寝泊まりを余儀なくされた住民の人たちにも、日ごとに疲れが見えてきている。みんな、大切な家族や知人が行方不明だったり、持病があったり、家が全壊になったりと、それぞれの壮絶なストーリーを持っていた。
 
衛生環境や疲労が続き、ノロウイルスによる胃腸炎や食中毒からおう吐、下痢、腹痛などが起こるなど、感染症が流行ってくる時期で、関係者の間で緊張が走っていた。感染した患者を隔離して治療にあたらないといけないからだ。
 
ちょうど今世界では、コロナ感染が私たちの健康や生活を脅かしていることを考えると、感染症は本当にあなどれない。
 
それでも、1日1日をあきらめず、明日に向かって、一生懸命生きようとする人々の姿があった。
 
毎朝6時半、避難所である体育館ではラジオ体操が流れ、一日が始まる。
こうしてみると、ラジオ体操のすごさを感じた。戦時中は国民総動員として導入されていたそうだが、ここでも、身体を動かすこと以外に、窮地にいる者同士が団結し協力・支えあおうという機運が高められているように思えた。
 
その後、対策本部や小学校医務室でのブリーフィング、小学校自治体ミーテイングと続き、巡回診療のサポートに入る。
 
その合間をぬって、避難所にいる住民の方々と接することができた。
 
今、何食べたいものあります? と50代後半の女性に聞いてみた。
 
「やっぱり野菜は食べたいわね。
最近はお相撲さんがちゃんこ鍋を炊き出ししてくれてね、おいしかったわ。
毎日お米とかラーメンばかりなのでねえ……。
でもね、そんな贅沢言えないわよね。
食べるものを皆さんが持ってきていただくだけで本当に感謝なの」
 
血圧の薬を取りに来た60代女性は、こう話してくれた。
 
「昨日、ずっと行方不明だった娘がDNA鑑定で見つかったのよ。
最近は歯ブラシで鑑定できるのね。
だから昨日ずっと眠れなくて……。
涙が止まらなくて……。
なんで血圧も170以上になっちゃった。
でもね、こんな時は押さえないで泣くほうがいいわよね」
 
それでも、震災後2か月目に入ると、当初50か所あった避難所での医療支援も5か所と縮小となり、5月中旬の3か月目以降は、津波で4階まで浸水した志津川病院の仮設診療所が中心となって、地域医療の再開を目指すことになった。
 
4月の終わりにもなると、東北にも遅い春がやって来た。
 
鳥のさえずりと共に、淡いピンクの桜の花があちこちで咲いている。
その向こう側には、まだがれきや半壊した家が残されており、海辺に目をやると、大津波には打ち勝つことができず見事に崩壊した防波堤の姿があった。
 
あの時、これからこの町はどうなるのか、まだ見えないことが多かった。
先ずは、みんなその日を生き抜くことで精いっぱいだったと思う。
 
そんな人たちを想い、全国から何かお手伝いをしたいと、炊き出し係、床屋、整体師などのボランテイアたちが集まってきた。
 
また、不安の意識を和らげるために、落語、パン作り、わらじ草履づくり、踊りや歌、運動など様々なリクリエーションを提供する有志たちがいた。
 
もちろん、忘れてならないのは、自衛隊の活躍だった。
震災3日後には被災地に入り、毛布や食料などの配給を始めていた。
 
中でも感動したのが「入浴支援」だった。
寒い被災地で、風呂も入れず毎日を過ごす被災者のために、自衛隊が組み立てた風呂は私たち日本人の心を癒した。
 
私も入らせてもらったが、中は広くてゆったりとしていて、お湯に浸かると芯まで温まる、そんなホッとする束の間を体験できた。
 
徐々にライフラインが復旧し、仮設住宅の建設が始まりつつあった。もちろん、外に出ると津波の傷跡はまだ深いと感じる反面、人々の心にはゆっくりではあるが、次のステップのことや未来のことを考え始めている人々も出てきた。
 
当時、私に話してくれた宮城県危機管理課の方の言葉が忘れられない。
 
「今はここにたくさん緊急支援をしてくれる人たちがいますが、もうすぐ私たち地元住民のみが残されます。
町の再建には何年も何十年もかかるでしょう。
でも、(亡くなった)同僚の分まで僕はここで町のために進んでいかないといけないです……」
 
そう、地元の人たちが少しづつではあるが、立ち上がり始めていたのだ。
 
【普段の生活に戻すこと】
 
このことを目標に、避難所生活をしている南三陸の商店街でお店などを営む人たちが体育館のステージに集まり(ここは毎朝自治体と医療関係者が集まってミーテイングをしている場所だった)、全国商店街振興組合連合会のネットワークからサポートをもらいながらも、お店をいつどのように再開できるのかの話し合いが始まっていた。
 
また、復興支援のための牡蠣オーナーを募集する復興プロジェクトやセキュリティ被災地応援ファンドやなどが立ち上がり、被災地の事業者とそれを応援する人たちとのマッチングが始まった。
 
大切なことは、どんな時でも「支援される側」と「支援する側」というくくりではなく、私たちはお互いに社会の一員(belonging)として、お互いを必要とし、またされているというスタンスを忘れてはならないと思っている。
 
それだけではない、ソーシャルな面でも喜ばしいニュースが入ってきた。
ここ、志津川小学校で避難生活を送っていた男性と奈良から来たボランティア女性が出逢い、婚約したのである。二人は被災したこの町で、新たな人生を共に踏み出したのである。そう、人生失うものもあるが、新たに得るものもあるとはこういうことかもしれない。
 
最後に、避難所の子供たちが教えてくれた大切なことがある。
 
ある午後、子供たちと書初めを書いてみようということになった。
 
半紙はなかったけど、筆があったので、敷居として使用されている段ボールの切れ端を使って、子供たちは真剣に、じっと書き始めた。
 
そして、「ねえ、書いたの、見て!」
力強く書かれた文字が並んでいた。
 
【生きる】
【大きな希望】
【つらいことがあってもがんばろう】
【もとの南三陸へ】
【未来を信じてがんばる】
 
涙が出そうになった。
いや、正直に言うと私は泣いていた。
 
3月11日の津波で多くの命やものが失われたのは、隠せない事実である。
しかし、その過去を【今、ここ】でどう受け止めるのか、どう定義していくのか、によって違う未来が待っているのだと思う。
 
私は、ある意味、過去も未来も、すべては其々の中にある【今】が決めていくのだと感じてならない。過去の辛い経験や栄光の日々ばかりに留まっていると、今に生きておらず、そこから未来は開けない。同時に、将来の事ばかり夢見て、今何をすべきか考え行動を起こさないと、描く理想の未来に追いつかない。
 
そのことを、あの避難所で出会った子供たち、未来に向かって、今をしっかり力強く生きようとする子供たちから教えてもらったような気がしてならない。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
杉下真絹子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

大阪生まれ、2児の母。
90年台後半より、アジア・アフリカ諸国で、地域保健/国際保健分野の専門家として国際協力事業に従事。ザンビアでは3年間、ケニアでは5年間、保健省アドバイザーやJICA専門家として携わる。娘は2歳までケニアで育つ。
その後方向転換を果たし、子連れで屋久島に移住。
【森林の中でウェルビーングする】をキーコンセプトに、活動を展開。
森林セラピーガイド、アーシングヨガインストラクター。
関西大学(法学部)卒、米国ピッツバーグ大学院(社会経済開発)、米国ジョンズホプキンス大学院(公衆衛生)修士号取得。

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2020-04-06 | Posted in 週刊READING LIFE vol.74

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