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週刊READING LIFE vol.74

過去と未来、そして現在の方程式《週刊READING LIFE Vol.74「過去と未来」》


記事:井村ゆうこ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
予定通り各駅に停車し、ゆっくりと走っていたはずの電車が、突然新幹線並みの加速を始める。大きく揺れる車体が乗客を右へ左へと揺り動かす。つり革につかまって、なんとかバランスを保とうとした次の瞬間、目の前に崖が現れた。甲高いブレーキ音を響かせて落下していく。乗っていたのは電車ではなくジェットコースターだったのだろうか。それも世界最大級の。
 
平日の朝5時45分から始まる経済ニュースが、米国の代表的な株価指数であるNYダウの値を伝える度に、ジェットコースターに乗っている感覚におそわれるようになったのは、2月の中頃からだ。新型コロナウイルスの感染拡大懸念からはじまった記録的な下落。切り立った崖のように落ちるチャートを見ながら、私は証券会社勤務時代に出会ったふたりの男性の顔を思い出していた。
ひとりは、かつての上司であり、もうひとりは、退職金を受け取ったばかりのお客さまだ。

 

 

 

「過去の数字をよく見ろ」
かつての上司は、分厚い四季報を片手に、よくそう言っていた。売上高や営業利益、一株当たりの利益や配当額といった業績の数字以外にも、従業員数や株主構成にも目を配るよう指導された。直近の数字だけでなく、何期か過去に遡って数字を確認し、推移を見極めることも重要だと教えられた。なかなかチャートが読めるようにならない私に、上司が声をかけてきたことがあった。
「男と付き合うとき、そいつがそれまでどんな女と付き合ってきたか気になるか?」
今ならセクハラだと訴えられそうな質問も平気で飛び交うような職場だった。
「まったく気になりません」
即答する私を前に、上司は苦笑を浮かべてため息をひとつつく。
「惚れた男の過去を根ほり葉ほり調べるくらいのねちっこさを出せよ。過去のない男なんていないように、過去のない会社もないんだぞ」
 
将来の株価を予想するために、過去の数字にこだわれと繰り返し訴えてきた上司の口から、正反対の言葉が飛び出すのを目撃したのは、会社から歩いて10分ばかりのところにあった居酒屋だ。一週間に一度は、上司や先輩に飲みに連れていかれた店だ。その日は、上司と私の他に、同じ課の先輩社員が3人ほどいたように記憶している。いちばん下っ端の私が、飲みものを注文し、料理をとりわけている間に、体育会系ばかりの面々は次々にグラスを空にしていく。酒があまり強くない上司の顔はすぐに真っ赤に染まった。
「どんなにチャートを分析したって、どれだけ指標を参考にしたって、大きな嵐が吹いたら、未来なんて飛んでいっちまうこともあるんだ」
生ビールのジョッキをテーブルに叩きつけるようにして上司が吠えた。ぽつりぽつりと数年前に同じ会社に中途入社してきた、学生時代からの親友の話を始めた。その親友は、山一證券の元社員だった。
 
1997年、当時、野村證券、大和証券、日興證券(現・SMBC日興証券)とともに、「四大証券」のひとつだった山一證券は、突然自主廃業を発表した。バブル崩壊から発生した大幅な含み損を簿外債務として隠していた事実が発覚し、廃業に追い込まれたのだ。
「私ら(経営陣)が悪いんです。社員は悪くありません」
号泣する社長が、言葉を絞り出していた記者会見の様子を今でも覚えている。あの会見を、山一證券の社員として見つめていたに違いない上司の親友の心境を、私はきっと正しく想像することはできないだろう。
 
「俺たち証券マンは、数字を読むのが仕事だ。数字を信じなくちゃ仕事なんてできやしない。俺の親友は自分が働いていた会社が嘘の数字を並べていたとは知らずに、証券マンとして働いていた。会社の粉飾決算と自主廃業を知ったときのあいつの心境を考えるとやりきれない」
乗っていた電車の床を突然外され、谷底に突き落とされたような衝撃だったのではないだろうか。そこからもう一度這い上がって、別の会社で証券マンとして生きていく未来を選ぶまでに、どれだけの葛藤があったのか、それはきっと本人にしかわからない。
「まあ、学生時代からあいつは優秀だったから、ウチの会社もほっとかなかったんだろうけどな。腐らず頑張っていれば未来はあるってことだ! お前も男に振られたくらいで落ち込んでいないで、前を見ろ!」
別に振られてなんていませんからと訴える私の背中をばんばん叩いて、赤ら顔の上司はうれしそうに笑っていた。
 
過去と未来は一本の真っすぐな線でつながっているわけではない。
過去をひとつひとつ積み上げた先に未来があるわけでもない。
「過去+過去+過去+過去+過去=未来」ではなく、「過去×現在=未来」という方程式の中で私たちは生きているのではないだろうか。
「現在」には、自分が意図しない数字が突然代入されることがある。それは、地震や台風といった天災かもしれない。あるいは、ドラマチックな出会いや身を引き裂かれるような別れかもしれない。あるいは、上司の親友のように、信じていた会社の裏切りかもしれない。代入された「現在」によって、未来は自分が望んだものとは大きく違った結果となる可能性がある。しかし、もしそうなったとしても、望みは残されている。「現在」は何度でも代入可能だからだ。何度でも未来を書き換えるチャンスが、私たちには与えられている。
上司の親友が、もう一度証券マンとして生きると決めた「現在」を、未来へつなげたように。

 

 

 

株価のチャートを見て思い出した、もうひとりの男性について話をしたい。
証券会社に勤務していたころの私は、リテール部門と呼ばれる個人向け営業に従事していた。担当しているお客様の中には、退職を機に資産運用を始める方が数多くいた。N氏もそんなお客様のひとりだった。
 
「退職金の運用先として、こちらの投資信託をおすすめいたします」
私がN氏の目の前に広げたのは、毎月分配型の投資信託のパンフレットだ。現在では、投資の複利効果が得にくいこと、元本を取り崩した分配による元本自体の目減りをデメリットとして挙げられることも多い投資信託だが、退職者を中心に当時は非常に人気が高かった。
「毎月分配金が支払われますので、年金以外の定期的な収入源として選ばれる方が多い商品です」
N氏はパンフレットに手を伸ばすこともなく、私の説明に耳を傾けていた。
「どのような商品なのかは、よくわかりました。年金生活の者には魅力的かもしれない。でもね……」
一通りの説明を終えた私に向かって、N氏は丁寧な口調で話をしてくれた。
「私は定年を迎えるまで、がむしゃらに働いてきました。たいして出世もしなかったが、会社員としての人生に満足しています。でも、正直に言うと、まだ老後を楽しく過ごそうとか、余生をおだやかに送ろうという気にはなれないんですよ。もうひと仕事したい、そう思っています」
私は、よく日に焼けたN氏の顔をじっとみつめた。
「日々の生活は年金と保険でなんとか賄えます。ですからね、退職金は次の仕事を始める軍資金にしたい、そう思っています。女房の了解も取り付けました。まだ、何をするか具体的には決まっていませんが、軍資金は多ければ多いほど心強い。だから分配金を受けとるような商品ではなく、元本の値上がりが期待できるようなものを教えてくれませんか?」
「わかりました。ただ、投資にはリスクが伴います。もちろんご紹介した分配型の投資信託も元本の価格が変動するリスクはありますが、格付けの高い債券を中心に運用していますので、株式や株式型の投資信託と比べるとリスクは低く抑えられています。それでも、違う商品をご紹介した方がよろしいでしょうか?」
私は確かめずにはいられなかった。
 
多くのサラリーマンにとって、退職金の受給はおそらく一生でいちばん大きな金額を手にする機会だろう。長い時間、汗水流して働いて作った大切なお金だ。だからこそ、退職金はより快適な老後を過ごすための資金にしたいと望んでいるに違いない。私はそう思っていた。
理想の「現在」に足りない分は「過去」に補ってもらえばいい。「(-現在+過去)=現在」という方程式を頭の中に思い描いて、私は退職者に金融商品を提案していたのだ。
しかし、私は間違っていた。N氏が思い描いていたのは、「過去×現在=未来」という方程式だ。過去の自分が作った資産に、今でき得る投資をして未来につなげる。代入する「現在」にリスクが伴うことを承知した上で、N氏は未来に目を向けていた。
定年退職を迎えたら、過去と現在を大切に守ることを、みなが望んでいると決めつけていた私は、完全に間違っていたのだ。
人間はいくつになっても、未来に目を向けることができる。未来に目を向け続けている限り、未来が消えてなくなることはない。そう、N氏が教えてくれた。20代だったあの頃より40代になった今、N氏の教えを深く理解できるようになったと、私は感じている。

 

 

 

「過去×現在=未来」という方程式の現在に、新型コロナウイルスが代入された結果、私たちの未来は大きく変動した。各種イベントは延期や中止を余儀なくされ、在宅勤務への切り替えや自宅待機、不要不急の外出制限が要請された。業績の下方修正や景気の後退が懸念され、株式市場は大荒れとなった。新型コロナウイルスがいつ収束を迎えるのか、今のところ見通しが立たない。
どんなに過去の数字を見ても、未来を予想することが難しい局面だ。それでも、かつての上司ならきっと言うのではないだろうか。「今はじっと耐えて、未来を一変する現在を蓄えよ」
そして、N氏はきっと、未来に目を向け続けているのではないだろうか。私はそう思う。
 
1987年に起きたブラックマンデーの後も、2008年に起きたリーマンショックの後も、株価は必ず回復している。転がり落ちた崖から必ず這い上がっている。
深くしゃがめばしゃがむほど高くジャンプできることを、過去の数字が教えてくれる。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
井村ゆう子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

転勤族の夫と共に、全国を渡り歩くこと、13年目。現在2回目の大阪生活満喫中。
育児と両立できる仕事を模索する中で、天狼院書店のライティングゼミを受講。
「書くこと」で人生を変えたいと、ライターズ俱楽部に挑戦中。
天狼院メディアグランプリ30th season総合優勝。
趣味は、未練たっぷりの短歌を詠むことと、甘さたっぷりのお菓子を作ること。

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2020-04-06 | Posted in 週刊READING LIFE vol.74

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