週刊READING LIFE vol.74

100年後の私に《週間READING LIFE Vol.74「過去と未来」》


記事:谷中田千恵(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
あれは、風だった。
 
でも、あれは、私の知る風ではなかった。
もっと、濃度が濃くて、ヒヤっとしていて。
かといって、決して不快ではない。
どこか甘い心地のする爽やかな空気。
 
その風に、私は背中を押された。
グズグズとくすぶっていた私が、かつてないほど、強い力で。

 

 

 

大学に進学する時、建築学科に進もうと決めたのは、大好きな友人の一言だった。
「私、建築学科に行って、家の設計士になる」
雷に打たれるほどの衝撃だった。毎日一緒にいた友人が、しっかりとした将来の展望を持っていたことよりも、そんな面白そうな仕事があるのか! ということに驚いた。
 
大学卒業後は、設計事務所の勤務を経て、地元の工務店に就職をした。まだ設立されたばかりのその工務店は、不動産会社の子会社にあたり、私も含め従業員はたったの3人だった。メインは別荘住宅の建築。それにしても、何しろ人数が少ない。通常、営業、積算、設計、現場監督とそれぞれの業務に別々の担当者がいてもおかしくないのに、そこでは一件の家に対して、たった一人の担当者が全ての業務を請け負っていた。
 
責任が重いし、知識も十分ではない。立ち上がったばかりだったので、助けてくれる経験豊富な上司がいた訳でもない。今思うと、毎日が不安なことだらけだった。でも、その時の私は、この仕事がとにかく楽しかった。指導をしてくれる上司がいないということは、小言をいう上司もいない。あとさき考えず、やりたいことをどんどんお客様に提案した。若くて怖いもの知らずだったのだと思う。
人数も少ないので、たくさんのお客様に会わせていただいた。新築の計画から、水道の蛇口をかえるような小さなリフォームまで、なんでも担当させてもらった。
 
特に、中古の別荘を買い求めリフォームをする計画が好きだった。
私だったら、あそこにテーブルを置いて、ベッドはこの色のカバーをかけてと、まるで自宅のように夢中になって図面を引いた。実際は、大掛かりなリフォームをされるお客様は少数派で、見積もりを提出すると計画の1/10程度に縮小される事がほとんどだった。
 
「いつか、私も古い建物を買って自分の好みに思う存分リフォーム工事をしてみたい」そんな思いが徐々に膨らんでいた。
でも、今のお給料では、難しいだろうな。住宅ローンも組めないかもしれない。資格をとって、少し大きな会社に転職しよう。
それから一年間、必死で勉強をした。運よく資格を取得すると、大手と呼ばれる住宅メーカーに、設計職として入社する事ができた。
 
入社をしてからは、驚きの連続だった。
まず、同僚の人数が違った。いろんな人がいることは、世界が増えることだった。前職では、よくも悪くも密だった人間関係に、風が通るようになった。
また、お給料がびっくりするくらい増えた。ああ、憧れのあれが買える、こんな事も習いに行ける。これで、貯金もできるととても嬉しくなった。
 
業務の内容も、ガラッと変わった。社内には、些細なことにまでしっかりとルールが敷かれ、お客様との関係性も変わってきた。
今までは、全体を通して、お客様と関わってきた事が、設計というほんの一部分になった。そのかわり、お客様の数が増えた。今までの10倍近い件数を担当させていただくようになった。その分忙しくなった。日毎に変わるルールを覚え、適応していくことに必死になった。日付が変わるまで、働く日も続くようになった。
それでも、お給料は、毎月十分な額が入ってくる。ボーナスも、年に二度、間違いなく受け取れる。これが安定だと思った。なんとなく、ちゃんと社会人になれた気がした。
 
毎日は、あっという間に過ぎていった。6年もたつと、リフォームのことなどすっかり忘れていた。この生活が一生続くのだと思っていた。
 
そんな時、実家に帰ると母から、一つの鍵を渡された。
「あんた、家をリフォームしたいって言ってなかった? 好きに使っていいよ」
母の生まれた家の鍵だった。
 
「あー、言ってたね、そんなこと。うーん、どうかな」
「見るだけでもいいから、見てみれば」
 
その家は、空き家になってもう4年が経っていた。
母方の祖父母が生きていた頃は、何度も家族で足を運んだ家だ。ジジジってダイヤルを回す、昔ながらの黒電話が大きな土間の玄関に置いてあった。ご先祖様の写真がたくさん飾ってあって、小さい頃それが怖くてたまらなかったことを思い出す。
 
その家までは、実家から高速を使って、1時間かかる。
着いて、私は、絶句した。
「どこの密林だ」
 
庭は、私の背丈を超える草で覆われていた。玄関はおろか、屋根の形すら、ほとんど見えない。
「リフォームどころではないだろう、これ」
 
手に擦り傷を作りながら、なんとか玄関までたどり着く。
鍵をひねり、真っ黒い重たい引き戸をこじ開けた。
 
その瞬間、部屋の奥から風が吹いた。
少し冷たくて濃度の濃い、甘くて爽やかな空気。
 
心臓がギュッとなる。
 
「かっこいい」
 
玄関土間も、台所も視界の全てが、ゴミに埋もれている。
祖父母がいた頃の姿は、見る影もない。
それでも、わかった。
玄関土間が、時代を経てとても味のある黄土色に変化をしていること。
目の前の梁が、もともとの木の曲がりを生かして、丁寧に組まれていること。
昔ながらのシンプルな間取りの力強さ。
 
慌てて携帯を手にとり、母に電話をかけた。
「お母さん、私、ここに住むから」
電話口で母は、心がわりの早い娘に心底、呆れているようだった。
 
それから、私は、まるで何かに取り憑かれたかのように動き出した。仕事が終わってから、毎晩夜中までリフォーム計画の図面を引く。貯金の額を確かめ、銀行へローンの相談をした。知り合いの業者さんへ、片っ端から電話をかけ見積もりをとる。暮らしていた狭いアパートは、床や、洗面台、便器などのカタログやサンプルで溢れかえった。
 
気がつくと、あっという間に工事は始まって、住宅ローンが無事に実行される頃には、会社の退職まで決めてしまっていた。
 
工事が完成すると、まず実家の家族を招待した。
この家で生まれ育った母と母の妹である叔母は、とても喜んでくれているように見えた。そして、今まで、聞いたことのない話を聞かせてくれた。
 
「この家を建てたのは、私のおじいさん、つまりあんたのひいじいさん。多市さんっていうんだけど、ハンサムなおじいさんで私は、大好きだった。いつも膝にのせてもらってたの」
 
「この家が建って、もう90年は経つかしら。多い時は15人で住んでいたのよ。うん、部屋数は今とおんなじ、4部屋ね」
 
「そうそう、お母さん、ああ、あんたのおばあちゃんね。いつも、多市さんの介護をしていて、子供心にかわいそうだった」
 
また、別の日には、見覚えのある親戚が突然、家を訪ねてきた。
祖父の妹だというその人は、玄関に入るなり、大声をあげた。
 
「あっ、多市さんの神棚! 残してくれたのね。多市さん、毎朝、この神棚を拝んでいたのよ。懐かしい」
 
私は勢いに任せて決めてしまったが、ここには、歴史が詰まっていた。まさか住んでから、そのことを思い知るなんて。
私が、会ったことも、見たこともない人たちが、ここで生活を営んでいた。そして、ひいじいさんの多市さんやその奥さんは、きっとここで、人生を終えたのだろう。
 
今、家の中をぐるりと見回すと、昔の生活音が遠くから聞こえる気がする。
パチパチと火鉢の弾ける音。
小さな姉妹のはしゃぐ声。
若い祖母は、小姑に小さく叱られている。
 
ああ、あの柱も、あの壁も、あの頃から変わっていない。
柱の傷は、祖父が机の角でもぶつけたのだろうか。
壁の小さな削り後は、幼い母の仕業に違いない。
 
そうか、90年前から、この家の空気はずっとつながっている。
途切れることのない一本の糸のように。
体が、この世にあるかないかなんて関係ないのだ。
私は、今この家で、みんなと一緒に暮らしている。
同じ空気を吸っている。
 
霊とか、魂とかそんなものの話ではない。
ここで暮らした人たちの話を聞いた、私が、私の脳内でそう理解したのだ。
みんな、ここに生きている。私は、確信を持って理解した。
 
でも、私は、どうなるのだろう。
 
曽祖父や、曽祖母や、祖父や祖母、みんなの存在を、子供である母や叔母が私に伝えた。だから孫の私の脳内で、糸になった。
みんながつながって一つの糸になった。
私に、子供はいない。
私のことは、誰もつながない。
誰も先へは、つながない。
私は、糸の末端だ。
 
違う。血のつながりや、体なんて、大した問題ではない。
私は、この家をつなぐ。これから先、10年、20年、この家を住み継ぐ。
この空気をつなぐ。きっとそのバトンは、誰かに必ずわたる。
こんな時代だ、ひどい災害がやってきて、この家が無くなる日だってやってくるかもしれない。それでも、この空気は、つながる。
この土地を、新たに使う人に、つながる。
もう、その人は、私のことを知らないかもしれない。
でも、そのバトンを渡したのは、私だ。
途切れることなく、糸をつないだのは、私だ。
 
それに、私は、建築という仕事をこれからも続けていく。
この家をリフォームしてみて、改めて思う。
人の生活にたずさわれる、この仕事が好きだ。
会社員は、もうしない。自分の足で歩いてみたい。
事務所名には、多市さんの名前を借りることにした。
これも、私なりのバトンだ。
 
家は、歴史だ。歴史はつながる。
ありがたいことに、この家以外の歴史にも関われる。
私は、私のやり方で、バトンを渡せばいい。
 
建築という仕事に関われたから、気が付けたのかもしれない。
でも関わらなくても、事実は、一つだ。
この世に生を受けた、全ての命はつながる。
私も、父も、母も、みんな、みんな、未来へ続く糸の一部だ。
 
先ほどから、縁側に朝日が眩しく差し込んでいる。
 
反射的に、グッと目を細める。
ああ、この行為も、過去の誰かが経験をしていたのだろう。
そして、100年後の誰かへとつながっていく。
これも、連綿と続く、糸の一部だ。
 
さあ、目を細め、100年後の私に、あいさつをしよう。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
谷中田千恵(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

1982年栃木県生まれ。
2019年より半径3メートルの世界を綴りたいと、書くことを学び始める。
建築士。明治大学理工学部建築学科卒業。
2019年一級建築士事務所アトリエタイチを設立。

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2020-04-06 | Posted in 週刊READING LIFE vol.74

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