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海を紡ぐ《週刊READING LIFE Vol.77「船と海」》


記事:武田かおる(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

 
 
「女は子供が生まれても働いたほうが良いよ」
 
20年前、30歳になったばかりのことだ。イギリスで女性学をかじった私は、中学からの親友との食事の帰りにそう言った。
 
その日は同じ部活で辛いことも楽しいことも分かち合った三人が集まった。一人は、婚約したばかりのB子、もうひとりは比較的早く結婚し、2歳の子供がいる友人Aちゃんだった。
 
婚約した友人は、結婚を控え幸せオーラ全開だった。2歳の女の子の子供がいるAちゃんは、子育てが大変そうだったけど充実しているようだった。私はと言えば、留学を終えて日本に帰ってきたけれど、ちゃんとした仕事も見つからず、お付き合いをしている人もおらず、全てにおいて宙ぶらりんだった。結局Aちゃんが連れてきた2歳の女の子がとてもかわいくて、話題の中心はその女の子になった。せっかく楽しみにしていた会だったけれど、お互いのライフスタイルが違いすぎて、共通点が見つからず、中学時代みたいに箸が転んでもおかしいというノリはもうなかった。それは、不完全燃焼な感を抱きながら、家路に向かう途中に私が発した言葉だった。
 
私が言葉を発した後、しばらく沈黙があった後、Aちゃんは怒りを込めて私に言い返した。
 
「結婚したことも子供を生んだことも育てたことのない、かおる(私)に、そんな事言われたくない! 子供を育てるって、そんなに簡単なことじゃない。
専業主婦のことを、怠けてるみたいに言わないで!」
 
明らかに気分を害したAちゃんの言うことは正論だった。私が発した言葉は、育児に専念しているAちゃんに対して、「あなたも働きなさいよ」という意味ではなかった。ランチのときも、食事することもままならず忙しそうに子供の世話していたAちゃんの事を怠けてるなんて、これっぽっっちも思っていなかった。当時、結婚して子供が生まれたら仕事を辞める女性が多かったけれど、一般論として、これからは女性もずっと働く時代になっていくよという意味を込めてだった。ちょっと会話に間が空いたから、何か喋ろうと思ってつい出てきた言葉だった。
すぐに誤解を解こうと謝ったけれど、険悪なムードが流れ、私はうまく弁解することができず、結局、誤解されたまま二人と別れた。それ以来、Aちゃんとは会っていない。それは、私の数少ない中学時代の友達を失った瞬間だった。
 
それから10年後、高齢出産で子供を生んだ私は、遅まきながら、今子育ての大変さが身にしみてわかる。どうしてあの時、誤解を招くようなあんな事を言ってしまったのだろうかと思う。もし、自分の子供が2歳の時に同じことを誰かから言われたら、きっと、私もAちゃんと同じような反応をしただろう。声に出さなかったとしても、心の中でそう思ったに違いない。今更後悔しても何も始まらないけれど、空気を読めなかった自分が嫌になった。

 

 

 

言葉というものは時に、自分の意志と反してナイフのように鋭く人を傷つけてしまうことがある。中学時代の友達とのランチ会の帰り際も、私には全く悪意がなかった。けれども、私は何か喋らないとと思った時に、相手を怒らせてしまうような事を言ったり、突拍子もないことを言ってしまうことがあった。よく、知人や会社の上司から、私が失言をした後に、
 
「あの時は、あんな事言うからヒヤヒヤしたよ」
 
とか、
 
「あの場で、そういうことは普通は言わないよ」
 
等と言われたことがよくあった。基本的に私自身に悪意や場の雰囲気を壊そうという意図はない。けれど、何人かの人から同じような指摘をされてしまったからには、自分の意志に反して、誤解を生むような言葉を頻発していたということを認めざるを得なかった。
 
そんな事を繰り返し、空気が読めない自分、また、コミュニケーション能力が低い自分に嫌気がさした。無意識に人を嫌な気分をさせているとすれば、そんな不本意なことはない。さらに悪いことに、自分自身もまるで腫れ物のように敏感に、ちょっとした人の言葉に傷つくこともあった。そんな事が続いた数年前、自分のソーシャルスキルに自信が持てず、一部の自分をわかってくれている人を除き、人と関わることが嫌になって自分の殻に閉じこもり、人と会うことを避けたこともあった。

 

 

 

最近、友達の勧めで三浦しをんさん著の「舟を編む」を読んだ。
 
「辞書は、言葉の海を渡る舟だ」(1)
 
「海を渡るにふさわしい舟を編む」(2)
 
小説の中にこれらの表現がある。言葉を海に、辞書をそれを渡る舟にたとえている。タイトルの「舟を編む」とは、ここでは、辞書を制作するという意味だ。
 
この小説は、「大渡海」という辞書の制作を背景に、言葉に対するセンスと情熱は人一倍だが、不器用な馬締光也(まじめみつや)を始めとする、辞書づくりに関わる人々の話である。
 
ストーリーを読む中で、聞き手が一つ一つの言葉に独自の先入観を持って、そこに自分の欲が絡んでいるががために、話し手が意図することと異なる理解をしていることがいかに多いかということに気が付かされる。特に、馬締は空気を読むのが苦手で、よくトンチンカンな受け答えをしていて、まるで私自身のことのように共感が持てた。
 
ストーリーが展開される中で、こういった理由から、小さいものも含めて、登場人物の間でいくつもの会話での思い違いが俯瞰的に見えてくる。もちろん、自分のコミュニケーション能力の低さは否めないが、コミュニケーションの中で誤解が起こるのは他の人達の間でも珍しいことではないということがわかってきた。
 
また、小説の中で、「どれだけ完璧を期しても、言葉は生き物のように流動する。辞書は真実の意味での『完成』を迎えることがない書物だ」(3)という記載がある。
 
言葉の意味は時代や状況によって変わる。そのため、辞書がそういった生き物である言葉を完璧に捉えることができないのであれば、コミュニケーションにおいても同じことが言えるのではないかと思えた。
 
コミュニケーションは数学の確率の問題のようだ。言葉の意味は時代や状況によって変わる。また、同じ言葉でも2つ以上の意味を持つ場合は珍しくない。そこに、話し手と聞き手が、それぞれの言葉にそれぞれの先入観を持っているとすると、言葉がいくつか連なる文章は、確率の問題のように無数の組み合わせの意味ができてくると仮定できるからだ。そんな中で、自分の意思を完璧に伝えることなんて、所詮無理であって、誤解が生じることも全く不自然なことではないように思えた。むしろ、完璧に文章の意味が伝わることがあれば、それは奇跡ではないかとさえ思えてる。

 

 

 

今、私は書くことを学んでいる。「舟を編む」を読んで、辞書が言葉の海を渡る舟ならば、文章を書いたり、言葉を発して文章にするということは、海を紡ぐことだと思う。
海を紡ぐことは、所詮不可能なことだ。それを私達は日々繰り返している。
 
少しでも自分が見ている真実により近いものを人々に伝えるために、言葉を選びながら慎重に海を紡ぐ。時に、自分の言葉の使い方が不安な時は辞書という船の力を借りながら。
 
100%完全に思いを伝えることが無理でも、私は書きたいと思う。それは、書くことを初めて、言葉が人を傷つけたり悲しませたりすることができる反面、人を癒したり、元気や感動を与えたりできることを知ったからだ。自分の思いが読む人に伝わるのが、半分あるいはそれ以下でも、自分の心に沸き起こる波を読む人に届けられたらという思いを込めて。

 

 

 

いろんなコミュニケーションの失敗を得て、人生の経験を重ね、さらに書くことで、人に思いを伝えようとすることを繰り返し訓練することで、少しは私のコミュニケーション力もましになっていればと願っている。一時期、自分の殻に閉じこもった時期もあったけれど、人との対話を通じて、言葉の海を渡り、自分以外の人の心の景色を見たりできることにも気がついた。それから、誤解を生むような失言をしてしまっても、新たな言葉でそれを訂正したり、本来意図することを、もう一度説明することもできるということにも改めて気が付かされた。
 
もともと、完璧なコミュニケーションは不可能という前提で、でも、より自分の思いを忠実に伝えるために、コミュニケーションを繰り返しているのだと思えば、少し気楽に人と接することができるようになってきたようにも思う。
 
あれ以来会っていない中学時代の友人Aちゃんに連絡をとってみたくなった。今なら私もAちゃんと同じ目線でいろいろ話せそうな気がしている。Aちゃんの子供たちは、きっともう自立しているころだ。子育てから開放されて時間ができたAちゃんはもしかしたらバリバリ働いているのかもしれない。もし、Aちゃんに会えることになったら、あの時の私の発言をお詫びして、そして、小説「舟を編む」をプレゼントしようかなと思う。

 
 

《参考図書》
三浦しをん(2019)『舟を編む』光文社
 
《引用文献》
脚注
1)三浦しをん『舟を編む』(光文社、2019)34ページ
2)前掲書 35ページ
3)前掲書 132ページ

□ライターズプロフィール
武田かおる(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

アメリカ在住。
日本を離れてから、母国語である日本語の表現の美しさや面白さを再認識する。その母国語を忘れないように、また最後まで読んでもらえる文章を書けるようになりたいという思いで、2019年8月から天狼院書店のライティング・ゼミに参加。同年12月より引き続きライターズ倶楽部にて書くことを学んでいる。

この記事は、天狼院書店の大人気講座・人生を変えるライティング教室「ライティング・ゼミ」を受講した方が書いたものです。ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。

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2020-04-27 | Posted in 記事, 週刊READING LIFE vol.77

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