週刊READING LIFE vol.81

ショパンのワルツ第九番変イ長調、作品六十九の一。『別れの曲』《週刊READING LIFE Vol.81「10 MINUTES FICTIONS~10分で読める短編小説集~」》


記事:吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 
瞳を閉じて、小さく深呼吸する。
神経が研ぎ澄まされ、空間が自分のものになっていくような感覚。黒くつややかな髪の一本一本までも自由に動かせそうな。ほんの少しだけ高鳴る弱々しい心臓が、メトロノームのように脈打つのを感じるような。
やがてその時が来るまで、英子は瞳を閉じたまま待ちつづける。そうしたところでざわめきが消えたことなど一度もないのだが、まわりが全てが薄れ、霞み、白い空虚が彼女そのものを支配するまで英子は微動だにしなかった。
暗いライトに照らされる鍵盤。
何を奏でればいいのかは、もう身体に染みついている。
指先が熱い。
どこからか湧き上がる必然。
英子はゆっくりと目を開き──つと、長い指が閃く。
幾重にも重なった静寂の薄絹を一枚ずつ取り去るように、繊細な旋律が奏でられる。あとはもうそこには英子と、ピアノと、紡ぎ上げられるメロディーしか存在しなかった。最後の音を弾き終わるまで、誰も彼女の邪魔をすることはない。
囁きかけるようなメロディー。
それと戯れるような対旋律。
細やかな高音。
しっとりとした低音。
生まれ変わり、そして繰り返される音楽がうす暗い店内に染み渡る。初めはざわめきに掻き消されそうになっていたが、一人、二人、口を休めて旋律に耳を傾け始める。英子の指は止まらない。ほの暗い明かりがグランドピアノを、彼女の横顔を照らしている。
「……いい曲ですね」
そう広くはない店内のカウンター席にて、一人腰かけてグラスを傾けていた男が独り言のように呟いた。上等な背広にえんじ色のネクタイ。目に強い、だがどこか疲れたような光を宿した中年の男だ。彼のすぐ前でグラスを磨いていた店主は、男が席についた時から何も話さず、ずっと傍らの携帯電話をちらちらと眺めていたのを思い出して微苦笑する。
「でしょう。ショパンの『別れの曲』です」
「ふうん」
曖昧な返事。男は視線をどこに移すわけでもなく、手にしたグラスをゆっくりと振る。琥珀色の酒に溶けかけた氷がからんとなり、ピアノにささやかな彩りを添えた。
「ピアノを弾いているのは日比谷と言いましてね」
マスターはピアノの音色に耳を傾けながら、歌うように小声で囁く。
「いつもはお客様に曲をリクエストしていただいているんですよ。最後の一曲だけ、決まってあれを弾くんです」
「ふうん」
男は椅子を軋ませながら視線を英子に向けた。少し上気した頬がセピア色の光の中に浮かび上がっている。節のある長い指が鍵盤を滑るたびに新たな旋律が生まれ、あたりの空気を包み込んでいく。もとより落ち着いた雰囲気を持っていた店内は、ピアノの音色に蒸留されて上等の酒になったかのようだ。
「お時間がございましたら、最後まで聴いてやって下さい」
マスターの言葉に、男はもう答えなかった。
『アンバータイム』と銘打つこの店は、繁華街から少し離れた通りに、隠れるようにひっそりと店を構える。少し長めのカウンターが一つ、テーブルがいくつか。カウンターの奥にはずらりと並ぶ銘酒の数々と、それを受けることを待つグラス達。店の奥には小さなステージがあり、黒曜石のように磨き上げられたグランドピアノが佇む。訪れる客は一人であったり、連れ立って来たりとまちまちだ。そしていつもゆるやかにピアノの音色が流れている。英子はどのようなリクエストにも応じ、時に歌うような、時に燃えるような、時に流れるような音色を奏で出した。英子のピアノが始まると、華美な装飾がない店内が何か特別めいたもの、琥珀の奥の硬いきらめきのようなものを帯びるのだった。
男の──客達の視線の先で、英子が祈るように天を仰ぐ。ライトを受けた黒髪が背中に散り、旋律が静かに高まっていく。硬く静かな、それでいて柔らかな音色。伸びた指先が最後の一音をつま弾く。水滴が水面に波紋を走らせ、やがて静寂へと戻るように、余韻の最後の最後まで聞き逃すまいと、誰もがもっとも密やかに見つめる。
染み入るような、切なげな和音。
やがて、英子が深々と溜息をついた。
あちこちから感嘆の吐息が漏れ、心地良い拍手が英子のピアノの音色に取って代わった。英子は肩をむき出しにしたナイトドレスの裾を優雅にひらめかせながら立ち上がる。遠慮がちに微笑み、軽く会釈をすると、より大きな拍手が一斉に浴びせられた。
「……何という曲でしたっけね」
男も英子に拍手を送りながら、マスターに再び声をかける。
「実に良かったですよ」
「それはようございました。ショパンの『別れの曲』です」
「ショパン、ですか」
マスターの深みのある声が穏やかに答えると、男は気恥ずかしげに英子から視線を逸らした。英子はそんな事は気にも留めずにステージから下り、通用口を通って店の奥へと消えてしまった。
「クラシック音楽というものは、まるで何も知らないもので……お恥ずかしい」
「とんでもございません、かく言う私もクラシックにはほど遠い人間でした」
拍手はしばらく名残惜しげに続いていたが、英子の姿が見えなくなってからまもなくまばらになり、談笑に取って代わられる。
「日比谷がうちに入ってからあれこれと教わりましたが、どうにも奥が深いものです」
「確かに……僕のような素人が言うと、クラシック・ファンの方の非難を浴びてしまうかも知れませんが──別れ、というには、ずいぶん優しい曲でしたね」
「……ほう、何故そうお思いに?」
グラスを置いたマスターが興味深げに首を傾げてみせると、男はうつむいて自分のグラスを握り締めた。
「……別れというのは、もっと苦しい感情を伴うものではありませんか?」
からん、と溶けた氷が琥珀の液体の中で揺れる。
「誰かと別れなければならない時、人間は多かれ少なかれ苦悩するでしょう」
「…………」
マスターは何も言わず、僅かに顔をしかめた。彼が新しいグラスを手にとって磨き始めるまでに、男はちらりと傍らの携帯電話に視線を移す。先程から何の変化もない。男は弱々しい溜息をつくと、グラスの中の液体を少しだけ口に含んだ。
「気分を害したなら申し訳ありません。ですがとてもいい曲でしたよ」
「……いやいや、私はどうもクラシックには疎いんですよ。……もしよろしければ、日比谷を呼んできましょうか」
「……え?」
男が顔を上げる。
マスターは静かな笑みを浮かべる。
「十八番をほめられて悪い気がするピアニストはいません。どうか先程おっしゃった通りほめてやって下さい」
男が返答を探し当てる間もなく、マスターはカウンターの奥にひっこんだ。店内からは聞き取れない会話が交わされる気配。すぐにマスターは戻ってくる。その奥から、黒髪の女──英子が、伺うように周囲を見回しながら現れた。
英子は男と視線が合うと屈託のない笑顔を浮かべる。そのまま軽やかな足取りでカウンターを回り込み、男の隣にふわりと腰かけた。
「こんばんは」
「……どうも。先ほどは、見事な演奏でした」
「ありがとうございます。……でも、あなたのリクエストは受けていませんよね?」
「あ、いや、僕はクラシックには疎くて……」
「まあ、私はリクエストは何でも受けてますよ。どんなジャンルがお好きですか?」
「いや、あの」
英子よりもひとまわりもふたまわりも年上であろう男は、微笑みながらそう言われて明らかに困惑したようだった。
「僕は音楽はあまり聴いたりはしないんです。……ですが、最後に弾いていた曲はとても素晴らしかったと思います」
「……そう」
英子はつと視線を逸らした。顔に浮かんだのは笑顔だったが、ゆっくりと瞬いた眼差しは僅かな憂いを帯びてかげっている。
「ありがとうございます」
低い沈んだ声に、男は顔をしかめた。
「……あれはあなたの得意な曲だ、と伺っていましたが……?」
「ええ、そうです」
男がまじまじと自分を見るのを感じつつ、英子は視線をあてもなく彷徨わせる。談笑がさざめく琥珀色の店内。主を失って、寂しげに隅の方に追いやられたピアノ。つい先程までは英子はそこにいた。恍惚にも似た感覚が店内を支配する間、英子がその主だった。
視線を戻すと、男は未だに英子を見ていた。かなり訝しげな顔になっている。
「……変わり者だと思ってますか?」
「……変わり者?」
「褒めて下さったことは心から嬉しいんですよ。けれど題名が題名なので、手放しで喜ぶわけにもいかない気がして……」
「……『別れの曲』、でしたっけ」
「ええ」
頷きながら、英子はふ、とどこか挑戦的な笑みを浮かべて見せた。
男は興味深げにそれを見つめ、酒を軽く口に含む。
「……何か、訳ありなんですか?」
「いいえ、全然」
「…………」
さらりと返した英子を、男は鼻白んだような表情で凝視する。英子はその様子を見て不意ににっと笑い、次いでクスクスと笑い声をあげる。
「ごめんなさい、からかうつもりじゃなかったんです」
軽やかな笑い声が琥珀色の時間の中を転がっていく。
「あなたが神妙な顔で尋ねるので、つい……」
「いえ」
男は苦笑いするしか出来なかったが、英子の笑いにつられて僅かに肩を震わせた。それを目の端で見たマスターが相好を崩したが、すぐに何食わぬ顔でグラスを磨き続けている。
「でも、何かあったのはあなたの方じゃないんですか?」
「……え?」
何食わぬ顔で告げた英子に男が顔を強ばらせると、英子も面差しを正し、長い指先で黒髪を弄んだ。
「『別れの曲』について聞いて来る方は、何か大切な思い出みたいなものを持っていらっしゃる方が多いんです」
さらさら、と砂時計のように指先からすり抜ける黒髪。
「別れ、なんて題名ですから、やはり思い入れがあるのでしょうね。十年前を思い出すような曲だ、なんて言われると、弾く方も何だか緊張してしまって……だからリクエストでは受けないで、一番最後に心を込めて弾くようにしているんですよ」
「そうなんですか」
男はどこか安堵したように短い吐息を漏らした。ちらりと携帯電話を見る。何も変化は起こっていない。
「僕はその……クラシックには疎いもので、とても恐縮なのですが」
「いえ」
男は今度は深い溜息をつくと、躊躇いがちに言葉を続けた。
「……『別れの曲』という題名のわりに、少し優しすぎる曲だと思ったんですよ」
「……どうしてですか?」
英子が切れ長の瞳を瞬かせて男を見つめる。男は視線が合う前に顔を背け、誤魔化すようにグラスを持ち上げた。
かさが減った酒の中で、からん、と氷が揺れる。
「……お話ししたくないのなら、深くは聞きませんけど」
遠慮がちな英子の言葉に、男はしばらく押し黙っていた。
ピアノの音色の代わりのような、客たちの心地良い談笑。
「……別れる、という感情には」
やがて男はためらいながらも口を開く。
「苦しみや、葛藤など、様々なものが含まれているはずでしょう」
自分に言い聞かせるような言葉に英子は眉をひそめたが、男は気付かない。
「別れるためには、どのような状況であれ、人それぞれの苦しみを乗り越えていかなければならないはずです。それに比べたら、あの曲ではどこか優しすぎる気がしまして」
「…………」
「……曲そのものは、とてもいい曲だと思います。気分を害してしまったのなら申し訳ありませんでした」
英子は肯定も否定もせず、カウンターに肘をついて男をまじまじと眺めた。品の良い背広とネクタイ。皺が刻まれ始めるにはまだ早い、だがもう若い不屈の精神を失ってしまった顔。企業に尽くし、家庭を愛し、挑戦よりも安寧を求めて黙々と働き続けるような不器用な男の顔だ。
ふいに、男の傍らの携帯電話が鈍い振動音を立てた。
男はぎくりとして硬直する。英子はまじまじとその様子を見つめる。どちらともそれ以上は動かず、振動音はすぐに止まった。
間と言うには少し長い沈黙が落ちる。
「電話、鳴りましたよ」
「……ええ」
「出ないんですか?」
ピアニストの言葉に、男は携帯電話にちらと視線を向けるが、すぐに首を横に振ってしまった。
「いいんです」
「…………」
風が草原を駆けていくようなざわめき。
マスターが二人の方に視線を向けているが、それに気付く者は誰もいない。
「何の話をしていたんでしたっけね」
「……私も」
英子の強い口調が、喧噪を貫いて男の耳に飛び込んできた。ぎくりとした男を、強い眼差しが静かに見据える。
「クラシックに関して、ピアノが弾ける以外には大した知識はありませんけれど……」
「…………」
二人の視線が交錯する。
琥珀色の光と談笑に満たされた店内の奥で、誰かを待っているかのようなピアノが寡黙に佇んでいる。
「この曲は、ショパンが別れた恋人に捧げた曲だ、と聞いています」
「……それが、何か?」
男が聞き返すと、英子は口をつぐみ──小さく吐息を漏らし、黒髪をさらりとかき上げ、それでも視線はずっと男をとらえたまま続けた。
「別れるのって……誰と別れるにせよ、苦しい感情を伴うものだと思います。それは大切な人であればあるほど、苦しくて、切なくて……出来ることならずっと一緒にいたいと思うからこそ、別れることはとても辛いと思うんです」
「…………」
男は沈黙したままだ。
すぐ傍らの携帯電話が、着信を示すライトを点滅させている。
「……けれど、実際に離ればなれになってしまうと、何をしてるんだろうとか、怪我はしていないかとか、……死んでしまった人なら、天国に行けただろうかとか、心残りはなかっただろうかとか、そんなことばかり気にかかって、自分が苦しいだとか、そういうのはもうどうでも良くなって……最後には、結局」
英子はことさらゆっくり瞬きをした。
男は持ったままのグラスを静かにカウンターの上に戻す。
ことん、からん。
小さな音が喧噪に掻き消されていくのを確認するかのように、女は視線を店内に彷徨わせ、溜息と共に次の言葉を絞り出した。
「ずっと幸せでいて欲しいとか……そういう、安らかな気持ちになると思うんです」
ふと浮かべた、柔らかな笑顔。
男はそれに視線を奪われたかのようにしばし茫然とする。
だがやがて、深い溜息が沈黙を打ち消し──男は、苦い顔で首を横に振った。
「……残念ながら、僕はそう思いません」
「…………」
英子は男と、点滅し続けている携帯電話を見比べる。
「別れはやはりどうしても、辛いものだと思います」
「……それは、その携帯電話にかけて来た方のことですか?」
「な──」
沈黙と喧噪が、琥珀色に染まってゆるやかに混じり合っていく。
言葉を詰まらせたきり、肯定も否定もしない──どちらも出来ずに男は視線を虚空に彷徨わせている。
英子はしばらく訝しげにその様子を見つめていたが、やがて小さく溜息を漏らした。
「申し訳ありません、深く踏み込みすぎてしまいましたね」
「いえ……」
男も苦笑いを浮かべ、先程からずっと気にしていた携帯電話を手に取った。だが手の中で弄ぶだけで、まだ誰からの着信なのかは確かめない。
「ピアニストの方の感性というのは、僕のような凡庸な人間よりもずっと繊細なんでしょう。あなたの考えを否定するつもりはないんですが、誰しもが同じ考えを共有できるわけでもないでしょう」
「……まあ、そんな事を考えてたんですか?」
英子が少し鼻白んだように聞き返すと、男は英子から視線を逸らしつつ頷いた。
「日比谷さんや、ショパンや、その他たくさんの芸術家というのは、僕らよりもずっとずっと豊かな心を持っていらっしゃる。それに感動することは出来ても、それに共感するには、もう疲れてしまったような気がします」
「…………」
「僕が先ほどから携帯を気にしていたのは、今日が離婚した妻との結婚記念日だったからです。あれほど話し合ってお互いの了承を得て別れた筈なのに、離婚して五年たった今もこんな下らないことを気にしている」
少女の涙のように、止めどなくこぼれ落ちる言葉。
荒げられた語気に、思わず店内が静まりかえった。カウンターで向かい合う男女──特にピアニストたる英子を見つけた客たちは多少の驚きと共にそれぞれの連れと囁き合う。だが二人がそれ以上動かないのを見て、やがて周囲の興味は次第に薄れていった。
何も言わない英子の視線から逃れるように男はうつむく。カウンターの上で握り締めた拳が僅かに震えていたが、それを誤魔化そうと男はグラスを手に取った。
「……失礼しました。あなたには関係のないことをぺらぺらと……」
「……いいえ」
英子はカウンターに頬杖をつき、細い眉を僅かにしかめながら男を見つめる。
「私なんかでよければ……続けて下さい」
「……大したことではないんですよ」
男はちらりと英子に視線を投げかけたが、再び深い溜息と共にうつむいてしまった。
「あの時にはそれが最善だと思っていた決断です。それに間違いはありません。僕は妻を愛していましたし、愛しているからこその決断でした」
「……後悔しているんですか?」
「いいえ」
男は力無く、だが躊躇わずに首を振る。
「何一つ……後悔はしていません」
この、名も知らぬ男が。
この言葉に辿り着くまで、どのような事があったのか、英子には知る術もない。
「だからこそ、どうしてなのか……分からないんですよ」
最後の言葉は独白に近いもので、吐息に紛れたそれはよく聞き取れなかった。
男が握り締めたグラスの中で、溶けかけの氷がゆらゆらと動いている。
「すみません……見ず知らずの方に、このような事を」
「……いいえ」
英子は受け流しながら探るように男を見つめた。分からないと呟き、苦渋にしかめられたままの横顔。芸術家──英子とは異なるがゆえに、共感することに疲れたと言っていた。
私は彼のことを知らない。彼も私のことを知らない。初めて言葉を交わしてからまだ一時間も過ぎていないだろうに、何故そう断定できるのだ。
腹の底がかっと灼けるような感覚と共に、英子は唇を硬く引き結んだ。
「……私は不器用な女ですから、何と申し上げればいいのか分かりません」
「いいんですよ」
男は苦笑いと共にまたもや首を振ったが、英子は答えなかった──男が自分の方を見るのを待った。一瞬の沈黙が落ち、男がおやと顔を上げると、英子の鋭い眼差しに捕まる。
「私はピアノの腕も大したことはありませんけど……一つだけ、ピアノが弾けて幸運だと思っていることがあります。そしておそらく全ての芸術家にとっても」
柔らかな喧噪も、どこか遠くからしか聞こえてこないような気がする。
茫然と自分を見つめるしか出来ない男を見て、英子はふと笑みを浮かべた。
「……本当はもうおしまいなんですけど、あと一曲だけ。私が一番好きな曲なんです」
「え?」
「ショパンのワルツ第九番変イ長調、作品六十九の一。『別れの曲』です」
確信に満ちた笑顔を浮かべたまま、英子はふわりと席を立つ。男は虚をつかれたような顔で彼女を見上げるしかできない。
英子は恋人を捜すように店内をぐるりと見回し──変わらずにグランドピアノが彼女を待っているのを確認してから、もう一度男に微笑みかけた。
「聞いて下さい」
すがすがしい、屈託のない笑顔だった。
困惑に目を見開いたままの男をその場に残して、英子はグランドピアノへと歩き始めた。その様子に気がついた客たちがささやかなどよめきを起こし、英子の傍にいる者はまた弾くのかい、今度は何だ、と声をかける。英子はその度に薄い笑みを浮かべるだけで、何も言わずともそれで全て通じると言いたげにグランドピアノを目指していた。
「……日比谷に、何かリクエストを?」
ずっと遠巻きに見ていたマスターが、磨き終えたグラスを棚にしまいながら男に声をかけた。茫然と英子を視線で追っていた男はぎくりと硬直してから我に返り、ああ、と上ずった声をあげる。
「リクエストというか……彼女が、聞いてくれと。……『別れの曲』を」
「そうですか」
「……僕は、何か失礼なことをしでかしましたか?」
英子を見るわけでもなく、マスターを見るわけでもなく、男は吐息と共に呟いた。その手がそろそろと携帯電話に伸びる。一瞬ためらいつつもすぐに手中に収めたが、掌で弄ぶだけでなかなか画面を見ようとはしない。
スポットライトが再び点灯される。
英子はその光の中で微笑み、グランドピアノのふたを自ら開けた。
「お客様は何も悪くありませんし、日比谷も気を悪くしたわけではありませんよ」
十メートルも離れていない筈なのに、英子はどこか遠くの世界にいるように見える。
優雅な礼と共に、黒髪が静かに光をきらめかせた。
「あれには、口で言うよりもピアノで語る方が合っているらしいんですよ」
物静かなマスターの言葉に、男がはっと顔を上げる。
「きっと、お客様に何か伝えたいのでしょう。……聞いてやって下さい」
柔らかな拍手喝采。
男はそれにつられて英子の方に向き直った。英子と視線が合う。英子はにこりと微笑み、男の隣に腰掛けたようにふわりとピアノ椅子に座った。
いつの間にか、店内が静まりかえっている。
英子の指先が鍵盤の上にかざされた。瞳を閉じ、誰もが耳を澄ませる中、ゆっくりと旋律がつまびかれる。
美しい、それでいてつまづきそうな主旋律。
それを支える左手の三拍子。繊細に変化していく和音と絡み合い、高まりゆき、そして静かな帰結音。主題が繰り返されるが、ふしぎと同じ旋律だと感じない。
「…………」
店内の誰もがその旋律に酔いしれている。空間に染み入るピアノの音色は硬く柔らかく、甘く苦く、静かに全てを包み込んでいくかのようだ。
緩急をつけ、ゆらめくような旋律が続く。そして時折入る強い和音。その一つ一つが、大切に、愛おしげに奏でられる。空間の隅々まで行き渡った英子の感覚が、触れるもの全てに囁きかけているかのような錯覚。
「…………」
マスターはグラスを磨く手を休め、にこにこしながら英子の音色に耳を傾けている。そのすぐ脇で、男は携帯電話を弄んだまま英子をじっと見つめている。
深みを持った低音。
胸が締め付けられるような和音。
導かれるように奏でられる、奇跡のような旋律。
ライトに照らされた英子の横顔は、どこか微笑んでいるようにも見える。
「…………」
男はピアノの音色を邪魔しないように小さく嘆息した。右手に持ったままの携帯電話にちらりと視線を向ける。一秒が過ぎ、二秒が過ぎ──所在なげに店内を見回してから、ゆっくりとキーを操作した。
カウンターとピアノは店内で一番離れている。その間に挟まれた客たちはそんな事に気付くはずもなく、織り上げられる柔らかな空間を堪能するがままだ。
ピアノの音色と、キーを操作する些細な音が重なる。
琥珀色の世界の中に、バックライトのささやかな光が点灯している。
祈るように繰り返される、最後の主旋律。
もう少しで終わってしまう──その直前に、ひらめくようにメロディーが駆け上がる。一瞬そこで全てが止まり、だが三拍子の流れを完全に止めるには至らず、静かに終局を迎える。
染み入るような和音。
名残惜しげな、全てを終えるにはまだ事足りないような、密やかな静寂。
英子の白く長い指が、静かに鍵盤から引き離された。
「……ありがとうございました」
「……素晴らしい!」
「いつにもまして最高だ!」
誰もが惜しみない拍手を捧げる。通り雨が訪れたかのように賑やかになった店内で、英子がゆっくりと立ち上がった。男はそれをじっと見つめていたが、ふと視線を逸らし、携帯電話を再び傍らに置いた。
「……いかがでしたか」
英子に拍手をしていたマスターが、微笑と共にそう尋ねると、男は顔を上げ──どこか苦い笑みを浮かべてみせた。
「素晴らしかったです」
「……優しい曲だと思いましたか?」
「……はい」
男は頷き、携帯電話へと視線を落とす。
「ようやく、決心がつきました」
「……ほう?」
マスターの問いかけはとても柔らかなものだ。
「今しがた……妻のメモリーを、消したんです」
マスターは英子との会話を聞いていなかったから、その言葉の意味の真意を測りあぐねて眉をひそめる。
礼を終えた英子が、今度は客席の合間をぬって直接こちらに歩いてきた。席には就かずにカウンターに寄りかかり、男の顔を覗き込むようにする。
「聞いて下さいました?」
「……ええ」
男の声音が思いの外低かったのだろう、英子は顔をしかめ、だが何事もなかったかのように続けた。
「二度聞いて、どうお思いになりました?」
静かな問いかけに、男はうつむく。
琥珀色の光の中で、グランドピアノが黒くきらめいている。
「……なんて優しい曲なのだろうと、思いました」
その言葉は名残惜しげな最後の余韻のように、店内に静かに広がっていった。
「そうですか……」
英子はそれ以上もう何も言わなかった。
名も知らぬ男の震える拳の上に、ぽつりと、小さな雫がこぼれ落ちた。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター)

1982年生まれ、神奈川県在住。早稲田大学第一文学部卒、会社員を経て早稲田大学商学部商学研究科卒。在宅ワークと育児の傍ら、天狼院READING LIFE編集部ライターズ倶楽部に参加。趣味は歌と占いと庭いじり、ものづくり。得意なことはExcel。苦手なことは片付け。天狼院書店にて小説「株式会社ドッペルゲンガー」を連載。
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2020-05-26 | Posted in 週刊READING LIFE vol.81

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