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週刊READING LIFE vol.88

「幸福不感症」のあなたに伝えたい「トゥーランドット」 《週刊READING LIFE Vol,88「光と闇」》


記事:岡 幸子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「世界には満足に食べられない人もいるんだから、お腹いっぱい食べれられるだけでも幸せよ」
 
子供の頃、母親によくそんな風に言われた。
家があるだけ幸せ、学校へ行けるだけ幸せ、病気じゃないから幸せ……
今なら、母の論理はよく分かる。戦時中、疎開して不自由な生活をした経験者だから、普通に暮らせれば幸せ、と実感できたのだろう。
 
でも、子供の私は反発した。
世界のどこかに不幸な人々がいても、それは自分とは関係ない。
誰かがお腹を空かせていることを想像して、自分の不満を消すなんて到底できなかった。
それでも、自宅にカラーテレビが初めて来て喜んだ日のことは覚えている。
洗面台の蛇口からお湯が出るようになって感激した。
真冬の洗顔が楽になり、とても幸せだった。
 
大人になって気がつくと、自分の子供たちに「真冬にお湯で顔を洗える幸せ」を説いていた。
子供たちは私の話を聞いて、苦笑するだけだ。
自分が感じる幸せを、子供たちと共有できない。
母と同じような立場になって思う。
恵まれた環境にいすぎると、なかなか幸福を実感できない「幸福不感症」になってしまうのではないだろうか。
 
幸せは、ペンライトの先の小さな光のようなものだ。
暗闇の中で見ると美しく輝いて見えるけれど、あふれる光の中に置いたら光っていることにさえ気づけない。光は、闇があるからこそ引き立つ。
幸せも、不幸や不自由があってこそ実感できるように思える。
 
この、光と闇の関係をとてもよく表しているのがオペラ「トゥーランドット」だ。
 
「トゥーランドット」は、「蝶々夫人」を作ったプッチニーが残した最後の作品。2006年トリノ五輪で、フィギュアスケートの荒川静香が金メダルを獲得した時、フリーの演技でこのオペラの曲が使われた。
その時まで、私は「トゥーランドット」を知らなかった。劇中で王子が歌う「誰も寝てはならぬ」が有名であることも知らず、そもそも「トゥーランドット」が何を表す言葉なのかも知らなかった。フィギュアスケートの解説者たちが、知っているのが当たり前のように口にするのが不思議だった。
 
トゥーランドットは、王女の名前だった。
絶大な富と権力を誇る国の美しい王女だが、心に深い闇を抱えていた。先祖が男性から受けた暴力がトラウマで、求婚者の王子に謎を出し、解けたら結婚するが、解けなかったら首をはねる法律を作っていた。そうして十人以上の首をはねて身を守ってきたが、劇中で謎が解かれ、いよいよ結婚しなければならなくなっても激しく抵抗する。
 
男性の手に落ちたくないから求婚者を殺し続けるなんて、心の中は闇で真っ黒だ。
はたらか見たら、王宮で多くの召使に囲まれて、何不自由なく暮らす王女は幸せを感じてくれなければ困る存在だ。でも、彼女は男性を拒絶し続けることで自分を保っているので、ちっとも幸せそうに見えない。
 
氷のように冷たい王女に対して、献身的で心優しいリューとい名の女奴隷が登場する。
リューは、自分が仕える盲目の王が国を追われた時に付き従い、物乞いをしながらその命を守ってきた。王子と再会して喜んだのも束の間、王子はトゥーランドットの美しさにすっかり魅せられ、止めるのもきかずに謎解きの求婚に挑戦する。謎を解いたのに結婚を嫌がるトゥーランドットのため、王子は自分の名前を夜明けまでに当てられたら勝ちを譲るという案を出す。夜明け前、何としても王子の名前を知りたいトゥーランドットの家臣たちに、盲目の王が捉えられてしまう。リューは、自分がその名を知っているから、身代わりとして拷問にかけてほしいと願い出る。
 
リューは奴隷なのだ。
何も持っていない。放浪の中で物乞いをして命をつなぐしかなかった。けれど、その心根のなんと美しいことか。光の中にいるようだ。
王子と再会したとき、反乱で追われた王のそばに、どうしてずっとついていてくれたのか聞かれたときの答えが胸を打つ。
 
「昔、王宮であなた様が笑いかけてくださったからです」
 
まさにペンライトの小さな光。
王子がただ一度笑いかけてくれたことに幸せを感じ、その想いを大切にしてこられたのはなぜか。彼女が奴隷で、何も持っていなかったからだろう。灯りのない世界にともった王子の微笑みという小さな光が、彼女を幸せにした。王女には理解できないだろう。
 
リューは、拷問で苦しめられても、王子のために決して名を言わなかった。自分が耐え抜いて王子を勝たせ、愛する王子をトゥーランドットに渡すこと、それが喜びであり愛であることを伝えた後、兵士の剣を奪って自ら命を絶つ。
 
その様子を見たトゥーランドットは、「死を見て、初めて笑えない」という経験をする。
女奴隷の光に、王女の闇が飲み込まれてしまった瞬間だ。
 
人の心は複雑だ。
誰かにとって何が光で、何が闇になるのかわからない。
普通に考えたら、王女が光で、奴隷は闇の中に生きているはずなのに、女奴隷リューの中にこそ幸せの光があった。
 
これから、アフターコロナの時代がやってくる。
光あふれる以前の世界では気づけなかったような、ほんの小さなペンライトの光にも気づけるチャンスになるかも知れない。
 
幸せは身近に溢れている。
ペンライト一本でも、闇を照らせる。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
岡 幸子(おか さちこ)(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

東京都出身。高校教諭。平成4年度〜29年度まで、育休をはさんでNHK教育テレビ「高校講座生物」の講師を担当。2019年12月、何気なく受けた天狼院ライティング・ゼミで、子育てや仕事で悩んできた経験を書く楽しさを知る。2020年6月から、天狼院書店ライターズ倶楽部所属。

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2020-07-20 | Posted in 週刊READING LIFE vol.88

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