週刊READING LIFE vol,109

この世で一番敷居が高い病院で解決したトラウマ《週刊READING LIFE vol.109 マフラー》


2020/12/28/公開
記事:赤羽 叶(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
人生の初体験は、突然に。
 
今、ものすごく、緊張している。
 
その場所は、思ったよりも、交差点一つ分むこう側にあった。
よく通る道にあるから、その存在は視界の端になんとなくインプットされているのだが、いざ正確な位置、となると意外とよくわからないものだ。
建物の下にガレージがあり、車で車道に乗り上げ、進入する。電気もなくて暗く、その閉塞感のおかげで、ますます息が詰まりそうだ。
 
そもそも、病院の中でも、もっともお世話にならない診療科目だと、思っていた。
 
泌尿器科。
 
そもそも、女性には全く縁がないところだ、と。
 
なのに、ドアを開けた瞬間に、目の前に女性の患者がいたので、思わずガン見してしまった。
 
慌てて、泌尿器科の症状をスマホで検索したら、なんだ、女性にも該当する症状がある。
 
文字から醸し出される大いなる勘違いっ……!
 
このなんだか秘密を連想させるような文字に、うっかり男性のヒミツの部分を連想して男性専用なのだと信じて疑わなかった。
 
女性が場違いな病院ではなかったのだ。
 
彼女のおかげで妙に緊張がほどけたのだった。
 
***
 
「いたい、いたい、いたいーーー!」
 
そもそも事の発端は、朝のこと。
小6の息子が、下腹部を抱えてうずくまっていたところから話は始まる。
 
「どしたーん?」
 
最近、調子悪いなあ。担任の先生は、『6年生って成長期があるので、体調がピリッとしないときがあるんですよ』と言ってくれるのだが、どうも週1ペースでそこかしこの不調を訴えている気がする。
 
もしかしたら、学校で何かトラブルがあっていきたくない不調が出ているのだったら? 不安な疑問が頭をよぎるが、今は、お弁当を作るのが先、声だけで返事を送った。
 
「助けて、ち、ちんちんが……痛い」
 
呻くように声を絞り出す息子に、ぎょっとした。慌ててベッドに様子を見に近づく。
 
待て、聞き違いか?
 
ちんちんが痛い、ですと?!
 
普段、多少の風邪の症状や痛みでは、すぐに病院には行かない我が家。多少の不調は、身体を休めろ、というサインとして受け取っている。だから、病院の待合い室で待ちくたびれて余計に具合が悪くなるよりは、布団をかぶって寝ている方を選択している。案外、翌朝にスッキリ元気になっていたりするものだ。
 
が、しかし。今回は、痛いという箇所が、私が持っていないものだけに、全く判断がつかない。
 
気が動転して、夫をたたき起こし、どうなのか尋ねても『うーん、泌尿器科の病院に行くしかないんじゃない?』という返答が戻ってきただけだった。
 
さすがに寝ていても解決しない……な。そう判断した。
 
息子が生まれてくれたおかげで、母親として今までにない経験をさせてもらっている。今回も、泌尿器科に行くという初体験もしたし、泌尿器科は女性も行ける病院なのだということにも気づけた。
 
受付を済ませて、順番になり、室内へ通された。
 
泌尿器科の医師は、今風の診療スタイルで、パソコンに向かって聞いた症状を手早く入力していく。
 
一通り症状を聞いたうえで、医師は立ち上がり、看護師と共に息子を少し離れたベッドに誘導。私だけが、その場に残された。
 
急に手持無沙汰になり、そっとあたりを見回した。案外、普通の病室なんだな……などと思っていると、
 
「ぎゃーーー! むりムリ無理むりぃぃーーー!」
 
最後には、言語としても怪しくなった息子の悲鳴交じりの叫びと号泣にぎょっとする。
 
あの白いカーテンの向こう側は、どんな世界なのか、借金の取り立てに追い詰められた人がとんでもない目にあっているような……そんな感じ??
 
とにかく息子の危機である。
 
その直後に、ペラリ、とカーテンをめくって医師が一人で戻ってきた。それは、当たり前だがおそろしい取り立て屋……ではない。むしろ、にらめっこで負けまいと顔をゆがめたような、必死に笑いを抑えた様子だ。
 
私の不審そうな顔を見て、少しバツの悪そうな顔できゅっと口を結びなおした。
 
「結論から言うと、ちょうどこのくらいの年齢の男の子にありがちな症状ですから、そんなに心配しないでください。今、彼の陰茎部は、首から頭までマフラーでぐるぐる巻きにしている状態なんです。その状態で、くしゃみをしたりしたら、鼻水や唾がマフラーにつきますよね? そのままマフラーが外せない状態だったら、中で皮膚が炎症を起こしそうでしょ?」
 
な、なるほど……!
 
「でもねえ、春が来たら、マフラーが外れるでしょう? そうしたら、顔もキレイに洗えるワケだからそういうことが起こらなくなる……。なので、少しそのマフラーをはがすように試みたんですけど、まあ、痛いんですよ」
 
再び、医師の顔がゆがめてこらえきれずにククッと声をもらした。ありがちな症状ではあるけど、息子の反応があまりにも激しかったのだろう。もう、半笑いの表情を隠すのはあきらめたようだ。
 
医師のわかりやすい例えで今の状況はわかったし。ざっくばらんなこの医師なら、私の積年の不安に答えをくれるような気がした。
 
私は大きく息を吸い込んで、思い切ってたずねることにした。
 
「その……む、息子のおちんちんは……ちゃんと、むけるのでしょうか?」
 
息子のおいおいおいおい……というこの世の悲しみを一身に背負ったような泣き声がBGMで続いている。
 
***
 
女性としては、非常に勇気のいる問いかけだ。だがしかし、息子が生まれて10年余りずっと不安に思ってきたことを聞くのは今しかなかった。とにかく、あの体験をしたせいで、息子のことが心配でたまらなかったのだ。
 
その体験とは、私が大学生の頃お付き合いしていた彼との話。

 

 

 

春休みに友達との長期旅行から帰って来たときのこと。
 
彼とは久々のデートだった。お土産を渡しながら、付き合い始めのようで、会えない時間が愛を育むんだなあと口元がゆるむ。久々に会えた喜びで、彼がいつもより2割増しでカッコイイ。
 
彼も喜んでくれて、あたたかい時間が流れて、今日は泊っていく? と言われるかもしれないとあらかじめ親にも宿泊許可を取ってきた。嬉しくて、ドキドキと待ち構えていたのに、彼は上の空でなんとなく素っ気ない。もちろん、泊っていく? との誘いもない。それどころか、むしろ、早く切り上げたい雰囲気なのだ。
 
3年も付き合っているから間違いない。
 
おかしい。
 
まさか、浮気?
 
女のカンが反応した。どうする? 詰め寄るの? それとも別れるの? 嫉妬深いと思われる?? 一度始まったざわざわがおさまらない。
 
たったの2週間、旅行をしてきただけなのに……! 想像がどんどん湧き上がって、妄想の火種が着火しようとしていた。
 
押し黙った私に、勘違いを察知したのか、彼が言い訳をし始めた。
 
「あの、実は、あと10日ほど、アレはできないんだ……。その……」
 
妙に歯切れの悪い口調で、語尾を濁す彼に、私は、どういうことか? と詰め寄った。
 
「その、手術したんだ……陰部の」

 

 

 

え? 病気だったの?? そんな、手術するって、いつから? 急に?
 
寝耳に水とはこういうことだ。ポカン、と彼を見た。
 
今までそんな状態であることを全く知らなくて、しかも浮気だなんて疑ってしまって申し訳なかった。それから、彼のことを信じられなかった自分が急に情けなくなり、泣きそうになった。
 
でも、その次の瞬間、再び凍り付くことになる。
 
彼は、雑誌のあるページを開いてよこした。
 
それは、男性誌のコマーシャルページでよく見かける宣伝だ。
 
そこには、黒いタートルネックセーターを鼻まで伸ばして覆い隠している男性。
 
売り文句は、
『ひとつウエノ男になる』
 
……え? え? コレ???
 
病気じゃなかった、というホッとした思いよりも、新たにモヤモヤが湧き上がってきた。
 
「これって、自費診療……だよね?」
 
「そう、思い切ったんだよー」
 
得意気に彼が発した金額を聞いてのけぞった。大学生が出すにはかなりの高額。でも、何に驚いたって、彼は、ケチの前にドを100個くらいつけてやりたいくらいの男だから。
 
その彼が、……そ、の、彼、が……! 奮発したのだ。
 
彼の辞書に贅沢とか奮発という文字はなかった。前年まで、昭和の香りが満載のキッチントイレ共同の下宿に暮らして、親からの仕送りも余りを貯金、バイト代もしっかり貯金。下宿先を引っ越す時に新居が予算オーバーだからとごねたが、部屋を気に入った私が家賃を一部負担した。もちろん、それは、彼の貯蓄に回っていた。
 
そこまでケチってきたくせに、そんなことに大枚はたくわけ??
 
「ね、だからもうちょっと我慢していてよ。そうしたらさ、長持ちするから」
 
……私の絶句を肯定的に受け取ったらしく、嬉しそうに続けた言葉に、私は心に閉店のシャッターを下ろした。
 
彼が、ひとつウエノ男になろうがなるまいが、正直、当時の私には、どうでもいいことだったのだ。私が、バイトして稼いで家賃を援助したのに、貯めこんだお金をそんなところに使うのか。
 
私は、私のことをもっと大切にしてほしかったの。つきあって何年にもなるのに、恥ずかしいからって、手をつなぐことはおろか外で並んで歩くことすらためらう人だった。私って、連れて歩くのにそんなに恥ずかしい女なのか、と自信を失っていた。
 
長持ちするしないなんて、私にとっては、価値のかけらも感じられない。
 
無事に帰ってきてくれて嬉しい。そんな風にぎゅっと抱きしめてくれれば、それでよかったのに。
 
彼の女性との付き合い方のスタンスへの不満が、手術をきっかけに大きな溝になり、想いは急速に冷めていったのだった。結局、『ひとつウエノ男事件』が尾を引き、ほどなくして、彼とは別れた。
 
しかし、固い財布の紐をやすやすと緩めてしまうほど、彼にとって、男性陰部の問題が大問題だったということは、私の青春に深い衝撃を残すこととなった。
 
***
 
医師は、マスク越しに一つ咳ばらいをした。
 
「結論から申し上げますと、息子さんの陰部の形を見る限り、全く問題ないです。時が経てばちゃんとむけます。もともと、どうにかしなければいけない形の人はそんなに多くなくてすぐにわかるのです。息子さんはそういう形をしていませんので、ご心配なく。先ほども申したように、今日のようなことは、日本の男の子の大半に起こりうることですから」
 
無理にむく必要はありませんよ。と医師は続けた。
 
トラウマな彼は、親がちゃんと扱いを教えてくれなかったから手術する羽目になったのだと言っていた気がするが、それは、彼の思い込みだったということだ。
 
この手の話はなかなか難しい。そんなことをオープンに話せる男友達はほとんどいないし、男の子のママ友同士で話したところで、しょせん、女性にはないものを推測して話すだけ。結局、強制させても、やるのは本人次第だものね? という反応ばかりで、何が正しいのか、想像の域を超えなかった。どうしていいかわからず、自分のせいで息子が手術をする羽目になるかもしれない……と不安は募るばかりだったのだ。
 
私が若かりし頃に受けた衝撃を、将来の息子の彼女にさせてしまうかもしれない……。息子にもまた、お風呂とか男子同士の旅行とかで肩身の狭い思いをさせてしまうかもしれない……、などグルグルと妄想ばかりひろげていたが、息子のトラブルのおかげで、すっきりと解決したのだった。気持ち的には、医師にハグしたいくらい。目の前がパーッと明るくなった。
 
まだ、痛さとショックでしゃっくりを上げながらメソメソ泣く息子の腕をさすりながら、下のガレージに降りる。行きは、明るいところから暗いところに入るようでさらに気持ちを重くしたガレージだが、帰りは、明るい光が差す方へ新しく前に進むような軽やかさに包まれた。
 
病院を後にしながら、医師との会話を思い出していた。
 
「春になって暖かくなっても、ずっとコートにマフラーの完全防備な人っていないでしょう? だから、自然とその時が来るまで、待ってあげればいいんですよ。今どきはね、親が、子供のことを先回りしすぎて色々やりすぎる。ちょうどいいタイミング、というものは、その子にしかわからないものだしね。その子が必要な時にちゃんと声があげられるような家庭の雰囲気に、しておいてあげたらいいんです」
 
私は、うなずいた。
 
「今回は、あまりにも痛がるものだから、全部をむいてあげることはできなかったけど、自分の成長で春は来るから。マフラーが取れたら、彼の青春が、始まるんだろうねえ」
 
私の中で日本一敷居が高いと思っていた病院で出会った医師は、私の息子への不安を取り除いてくれた、ちょっと詩的な人だった。
 
息子のおかげで、思いがけず、私のトラウマも解消した。くすぶり続けていた青春は、もう終わり。息子の青春が楽しいものになりますようにと祈りを込めて、息子にバトンを、渡そう。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
赤羽 叶(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

広島県在住。慶応義塾大学文学部卒。フリーライター力向上と小説を書くための修行をするべく天狼院のライティング・ゼミを受講。小説とイラストレーターとのコラボレーション作品展を開いたり、小説構想の段階で監修者と一緒にイベントを企画したりするなど、新しい小説創作の在り方も同時に模索中。

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2020-12-28 | Posted in 週刊READING LIFE vol,109

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