READING LIFE

書籍は「本」の劣化版である〜「本」の再定義〜《8,523文字全文公開/期間限定》


 

まずは講義に入る前に、皆さんに一緒に考えてもらいたいことがあります。僕が何者かということについてはこの後でお話しましょう。
「本」とは、いったい、なんでしょうか?
これはテストではないので、辞書の定義を思い出す必要はありません。
皆さんが思う「本」を自由に定義してみましょう。様々な定義が出ると思います。それぞれにとっての「本」の定義があっていいと僕は思っています。そう、最初から言っておきますが、この質問に唯一無二の答えはありません。
ちょっと自分で考えてみてください。
どんな答えが出てくるでしょうか?
さて、皆さん、様々出ていますね。いいと思います。詩的なのも、辞書的なのも、概念的なのもありますね。では、発表していってもらいましょうか。

読んで何か得られるもの
著者の人生に触れられるもの
伝える手段
過去の情報などを語り継ぐもの
メディア(媒体)
情報などを紙にまとめたもの
情報のパッケージ
素材の集合
知識の塊
感情を豊かにするツール
自分の世界を広げるもの
並べてあるだけで知的に見えるもの

面白いですね。本当に様々、出ましたね。「本」に対して、それぞれ、捉え方がある。
申し遅れましたが、僕は「本屋」です。
天狼院書店という名前の新刊書店を経営しています。今は全国で東京天狼院、福岡天狼院、京都天狼院と三店舗の書店とスタジオ天狼院というスタジオがありますが、店舗数は今後も拡大する予定です。水面下で進んでいるプロジェクトもいくつかあります。
そう、おかしいですよね? 本屋は衰退産業で、出版界も苦しいという話も、皆さんも聞いたことがあるでしょうから、天狼院の拡大は、その流れに逆行しているようにも見えます。
あるいは、天狼院書店について、こう語る人もいます。
あれは、本屋ではないと。
でも、本当にそうでしょうか? 僕は、天狼院書店こそが、世界で最も本屋らしい本屋だと思っています。
そして、僕は本屋は衰退産業ではないと思っています。そう思っていなければ、拡大戦略を取るはずがないですよね。本屋を創るのには多くの資金が必要であり、天狼院が自らリスクを負って創っているのが、その証拠になるのではないでしょうか。
では、なぜ、僕は天狼院書店こそが世界で最も本屋らしい本屋だと思っているのか。また、なぜ、本屋は衰退産業ではないと思っているのか。
その理由を、解き明かしていきましょう。そう、まるでミステリー小説のようにね。
きっと、この講義を受けたあと、皆さんも本屋をやりたくなると思います。

 

「本」はどう成立したのか?

 

皆さん、また一緒に考えてみてください。
世界で最も古い本と聞いて、思い浮かべるものは何でしょうか?
『源氏物語』。なるほど、あれもかなり古いですね。
『聖書』。たしかに。あれもだいぶ古い。世界で最も売れた本は聖書だという人もいますよね。
『論語』。これは古いですね。紀元前のまだ秦の始皇帝が中国を統一するまえの時代に生きた孔子の言葉について書いた本ですよね。漫画の『キングダム』の時代よりはるか昔ということです。
今、奇しくも挙げられた『聖書』や『論語』は、同じように作られた本です。
どちらも、岩波文庫であります。では、この本は、どういう過程を経て、今現代の我々の手元に本というかたちとして存在しているのでしょうか?
わかりやすく、『論語』で考えてみましょうか。
子曰く、とありますから、これは孔子の話を聞いた、孔子の弟子たちがまとめたかたちをとっています。『新約聖書』も同じかたちですよね。
孔子本人が書いたわけではない。よくよく考えてみると『論語』は、孔子が著者ではないんですね。『新約聖書』もそうですが、実はこういうかたちの本は世界中に結構あります。孔子本人が書いたものではないからといって、はたして、『論語』の価値は下がるでしょうか? そんなことはありませんよね。孔子本人が書いたものではないのに、立派に「本」として成立しているのがポイントです。ということは、どうやら、それを語った本人が実際に書かなければならないというわけではないらしい。
改めて『論語』がどう成立したか、ちょっと考えやすく諸々端折って考えてみましょう。
『論語』の内容からひも解いていくと、おそらく、孔子という人が大昔の中国にいて、弟子たちに様々なことを教えていた、という事実があったのだろうと思います。
弟子たちが、孔子から「教えられた内容」をたとえば現代における「ノート」のようなものに記録していたとすれば、その「ノート」こそが、『論語』の原盤になったのだろうと推察されます。
ただし、聞いた内容を速記した「ノート」だと、人に貸す際には躊躇しますよね。字が汚かったり、自分にしかわからないまとめ方をしている場合が多いと思いますので、たとえば、友達に頼まれて試験の際にノートを貸すときには、こう言うことがあるのではないでしょうか。
「ちょっと待って、読めるようにまとめてから貸すよ」と。
友人の中にも、このノートを「読めるようにまとめる作業」が得意な人がいますよね。
簡単にいえば、この「読めるようにまとめる作業」こそが「編集」なのです。
そして「編集」を経て、綺麗にまとめられたノートは、多くのクラスメートたちに「コピー」されることになります。
でも、孔子の弟子たちの当時、コピー機は存在しませんでしたよね? コピー機がなければどうしたか? なんと、人力で写したんですね。「筆写」してそれを「コピー」して、自分の物とした。あるいは、それを売ったりもしました。
吉田松陰の弟子たちは、吉田松陰が書いた本を筆写して売り、松下村塾の運営の足しにしていたといいます。つまり、日本でも幕末頃は平気で「筆写」していたことになります。
もっとも、ドイツで印刷革命が起きて、活版印刷が可能になったのはそれよりも随分前ですが、誰もがそんな高価な印刷機が使えたわけではありません。また、江戸時代の中期の蔦屋重三郎の時代は、版画の要領で、木に文字を彫って、これに墨を塗って「コピー」をしていたようですが、本を手に入れる基本はやはり「筆写」だったのでしょう。
今、ちょっと出てきた活版印刷は、「書籍」にとって大きな革命でした。それまで人力で「筆写」したり版画の要領でなんとか「コピー」していたものを、機械が大量に「コピー」することができるようになった。これによって、さきほど出てきた『聖書』なども、一気に広まりました。
この活版印刷技術が、今、一般の書店に並んでいる「書籍」の原型を作ったと言っていいでしょうし、今の書店、出版業界は、この大昔にできた技術によって支えられているのです。
さて、ここまで来たところで、これまでの旅を振り返ってみましょうか。
それでは、どこからが「本」だったのでしょうか?
ドイツで印刷革命が起きてから後を「本」と定義すればいいでしょうか?
それとも、版画の要領でコピーしていたものも「本」と言っていいでしょうか? 「筆写」したものはどうでしょう?
ここで、さきほど皆さんに一緒に考えてもらった、「本の定義」が役立ってくることになります。

 

「本」の正体

 

感情を豊かにするツール、自分の世界を広げるもの。
ステキですね。とても詩的です。たしかに、本にはそんな効果があるでしょう。
並べてあるだけで知的に見えるもの、などは物としての本の本質を捉えていると思います。インテリアの一部にも、物としての本はなりえます。
情報などを紙にまとめたもの、は「紙」ということで限定的に捉えています。そういう定義もあってもいいだろうと思います。
伝える手段、情報のパッケージなどは、メディアとしての側面を捉えていますね。手段としての本の定義はこういうものがあるでしょう。
どれも、正しいのだろうと思います。
さて、では僕は「本」をどう捉えているかという話をいたしましょう。
さきほどの『論語』の話に戻りましょう。
印刷によって大量に刷られた書籍は、間違いなく、「本」でしょう。一般的にはこれを「本」と考えている人が多い。
けれども、僕の場合、もう少し、遡ります。いや、少しではないかも。
印刷に回され、大量にコピーされる前のPDFの段階が、版画の時代の「版木」に相当するものです。余談ですが、この「版木」を持っているところが「版元」と言われ、いまでもそれゆえに出版社は「版元」と呼ばれる場合があります。コピーする権利を持っている、あるいは借りているのが「版元」であり、僕はこの「版木」的なPDFも「本」と定義します。
もちろん、さらに遡り、版木やPDFになる前の段階の「原稿」も本でしょう。これは「編集」が加えられたものですが、編集者によって編集される前の「原稿」も「本」だと僕だと言います。さきほどの話でいえば、孔子から直接話を聞いた弟子が取った「ノート」のことです。
ということは、孔子の話を書き留めた「ノート」こそが、「本の源流」になるでしょうか。
そうではないんですね。
僕は、孔子から弟子が直接聞いたときに行われた「話」自体も「本」と定義してしまいます。もっと言ってしまえば、弟子に教える以前の孔子の頭の中にあった状態をも、僕は「本」だと言い切ります。
それは、なぜなのか?
本の正体を、僕はこう定義しているからです。

本とは、人にとって有益な情報のことである。

ここで重要になってくるのは「情報の有益性」です。紙の書籍や電子テキスト情報、音声データなどの「パッケージ」は、およそ問題ではありません。それは、本質的な意味での「本」を「人」に届ける「乗り物」に過ぎません。「乗り物」に本質はなく、重要なのは、中に乗っている「有益な情報」の方です。そして、乗っているものこそが、「本」なのです。
そう考えていくと、理想的な「本」とは、いったい、どういうかたちをしているでしょうか。

 

 

 

書籍は「本」の劣化版にすぎない

 

運よく、『論語』は孔子の弟子たちによってまとめられたので、今現代を生きる僕らの手元に、こうして「書籍」のかたちで残っています。
けれども、その情報が有益であればあるほど、本来、その情報は外には漏れません。秘匿されることになります。なぜなら、それは極めて価値が高いものであり、その情報の保持者にしてみれば容易にコピーされると困るからです。
「一子相伝」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
また、その道の「奥義を口伝する」という言い方もあるでしょう。
特に、日本の伝統芸術の世界では、「一子相伝」や「奥義の口伝」をすることによって、情報が漏洩することを防ごうとしました。また、情報を守ることによって、その系統や道の優位性を保とうとしました。茶道や華道、歌舞伎や能楽、雅楽など、多くの分野でそれは行われている印象があるでしょう。
僕は、そうして「伝えられたこと」こそが、「本」だと思うのです。それは、人にとって極めて「有益な情報」だからです。このように、「情報の有益性」が担保されていれば、公開されているかどうかは、問題ではないと僕は考えます。
繰り返しますが、ポイントとなるのは「情報の有益性」です。
それゆえに、出版されていなかったとしても、その情報が有益であれば、それは「本」でしょうし、逆に出版され、たとえ紙に刷られて本のかたちをしていたとしても、その情報が有益でない場合はそれは「本」ではないと言えます。
そして、ここからがさらに重要ですが、その「有益な情報」は、受け取る人にとって、もっとも役立つ可能性が高いかたちで、伝達されるべきだと僕は考えます。
ここでひとつ、断っておかなければならないのは、「有益」という定義です。これは、何も、高尚な話だけを言っているのではありません。たとえば、休日に家でゴロゴロする際に、暇つぶしとして漫画や小説を読むことも、その人にとっては非常に「有益」だと定義できます。つまり、この「有益」の判断については、絶対的な判断基準はなく、極めて「相対的」であると考えていいでしょう。ある人にとって、少女漫画はとても楽しめる対象で、すなわち「有益」であっても、違う人にとってはそうではない場合もあるということです。
それでは、もっとも役立つ可能性が高いかたちで伝達されるべきとは、いったい、どういうことなのか? 一緒に考えていきましょう。
『論語』や孔子というと、ちょっと皆さんにとっては果てしなくなってしまうので、今度は皆さんが好きな歌手やバンドで考えてみましょう。
今、一番好きな歌手やバンドを思い浮かべてください。
それらアーティストの歌や音楽を楽しむとき、もっとも理想なのは、何でしょうか?
そのとおり、ライブですよね。
ライブアーティストの演奏を直接聴いたほうがもっとも楽しめますね。毎回直接聴くことができないから、仕方なくCDやダウンロードしたデータを再生して聴くのです。
実は、「本」もまったく同じことが言えます。
たとえば『論語』なら、一番、情報量が多いのが実はライブで孔子から直接話を聞くことです。それができないから、仕方なく、我々は岩波文庫の『論語』で、孔子が考えていたことを学びます。
そうなんです。実は、書籍とは「本」の劣化版なのです。
それは、どういうことなのか、もう少し丁寧に考えていきましょう。
今の時代、非常におびただしい量の情報を、我々は日夜受け取っています。スマホの登場でこれが一気に加速されました。スマホで受け取る情報は、なにも、テキストデータに限られるわけではありません。写真などのテキストデータや音声データ、そして動画のデータなど様々な種類があります。
その中で、もっとも電車の中で観るのを躊躇するのはどれでしょうか?
おそらく、ユーチューブなどの動画なはずです。なぜなら、通信しなければならないデータの量が非常に大きいからです。
もしかして、まともに映画をスマホで見ようとすると、1ギガバイトが必要になるかもしれません。音声データでは100メガバイトを超えるものもありますでしょうし、写真だと10メガバイトを超えるのもあるでしょう。それに比べると、テキストデータは、せいぜいキロバイトでしかありません。
それは、いったい、どういうことでしょうか?
単純な話です。テキストよりも、音声や画像、そして動画のほうが、情報量が多いということです。そして、ライブであれば、さらに動画の比ではない情報量になるでしょう。なぜなら、ライブには映像や音以外に、もしかして、体温も感じられるかもしれませんし、唾が飛んできたり、ゲンコツをされたりするかもしれませんし、より多くの情報を、実は受けているからです。
おそらく、孔子に直接「有益な情報」を得ていた弟子たちは、孔子の存在感や体温までも、直に感じていたのではないでしょうか。
そして、僕が創った天狼院書店がゼミや部活などのライブ・イベントを重視するのは、まさにそれが理由なのです。

 

天狼院書店は「次世代型書店」なのか?

天狼院書店のもっとも大きなコンセプトのひとつが、一人でも多くの人により良い「READING LIFE」を提供することです。ここで言うところの「READING LIFE」の提供とは、書籍だけではなく、その先にある体験までも提供するということであって、それも、今まで述べてきたように、「本」を「その人にとって有益な情報」だと定義するからこそ自然に出てきたコンセプトでした。
たとえば、あなたが大型書店のカメラの棚の前に立つとき、ほしいのは何でしょうか? カメラの書籍でしょうか?
天狼院は、そうではないと仮定します。本当にほしいのは、カメラの書籍ではなく、カメラが上手くなった自分であると。
カメラが上手くなるには、残念ながら書籍を読むだけでは「十分」ではありません。書籍を読むのは絶対的に「必要」なことではありますが、それだけでは目的を満たす「十分」条件にはなっていないということです。
カメラが上手くなるには、実際にカメラを学ぶ場が必要です。そして、「最大公約数」的な書籍には書いていないことを丁寧に教えてくれるプロのカメラマンが必要になり、学ぶモチベーションを高めるために、仲間が必要であり、発表する場がまた必要となります。
そうした「場」においては、ライブ的に学ぶことができるので、大きな情報を得ることになり、スキルの習得が早くなる可能性が高まります。
天狼院が掲げる「READING LIFE」の提供とは、わかりやすく言えば、そのすべてを提供しようということです。そうして生まれたのが、部活であり、ゼミなのです。
天狼院の大きな事業のひとつである部活やゼミも、お気づきのように、天狼院独自の「本の定義」が根底にあります。紙の書籍は「本」の劣化版であると至極客観的に捉えるからこそ、生まれた考え方です。
新しく「本」を再定義することによって生まれた天狼院書店は、次世代型書店と言えると思います。一方で、有益な情報を持っている人からの直接の情報の享受を大切にするという意味において、もっとも根源的で、本質的な本屋だと言えるのではないでしょうか。

 

「本屋」の可能性

 

 

「本」を「有益な情報」と定義するとき、「本屋」がやらなければならないことの可能性は、ほぼ無限大に広がります。
こうして皆さんに対して講義していることも、僕にとっては立派な「本屋」の仕事ですし、たとえば、「旅」もより多くの予測不能の「有益な情報」を得られることなので、立派な「本」です。天狼院書店では、当然のように旅行会社と組みながら「旅行」も企画し、販売しています。それも、「本屋」の仕事です。
演劇も映画も、もちろん、天狼院にとっては「本」ですし、「祭」も正真正銘の「本」と捉えます。
今のように言葉による伝承が難しかった古代から、人は「祭」によって、様々なことを伝承して来ました。たとえば、島根県松江市にある美保神社が行う「諸手船神事」は、『古事記』にも記されている出雲が舞台の「国譲り神話」に基づくと言われています。こういった「祭」は日本全国ばかりでなく、世界中に無数に存在することでしょう。そして、それらの「祭」には「伝承」という役割が与えられているのです。つまり、立派な「本」ということになります。もちろん、天狼院は「文化祭」を始めとした数多くの「祭」を開催しています。
最後に、劣化版だと言った書籍ですが、たしかに「情報量」としては書籍は動画やライブに劣りますが、重要な利点があります。
時と海を超えられるということです。
今は亡き、そして異国の孔子の考えを享受できるのは、書籍という情報を伝達するためのパッケージがあるからです。書籍は、必要最小限の情報を享受するには、もっとも効率的であり、経済的であって、また物としての存在感が際立っているからです。
書籍は、決して、情緒的やノスタルジックな理由で残っているのではなく、「有益な情報」を享受したいという人にとって、今なお、有意義な選択肢のひとつだということです。
そう、どういうパッケージで、「有益な情報」を享受するかは、我々提供側が決めることではなく、徹頭徹尾、お客様です。我々「本屋」は、徹底して、お客様のニーズに答えるかたちで、あらゆる種類の「本」を提供していけばいいだけの話なのです。

 

再定義することによって新しい「職業」が生まれる

最後に、「再定義の必要性」について述べて、この長い旅を終えたいと思います。
たとえば『論語』が我々の手元に至るまでの冒険の中で、昔はあって、今はない職業というものがあると思います。それは、「写本」をする人だったり、本を「版画」で印刷する人です。それは、印刷革命などによって徐々に縮小し、やがて消えていきました。役割を終えたからです。けれども、それに変わるようにして、様々な職業が生まれました。インターネットがそうですし、もっと細分化するとWebメディアやその編集をする仕事もそうでしょう。
仕事とは、必要に応じて生じるもので、必要性が薄くなれば必然的に減少していき、やがて消えます。それが自然の摂理です。
ノートを「読めるようにまとめる作業」が必要になったので「編集」という仕事が生まれたように、ライフスタイルの変化によって、仕事は生まれ、また、仕事は消滅します。
では、減少・消滅する側の「仕事」に就いている場合は、どうすればいいのか?
それも単純明快です。その「仕事」を「再定義」すればいいのです。
問題は、その「再定義」が、自分ではなく、それを選ぶお客様にとって合理的かどうかということです。もし、その「再定義」がお客様にとって利点が高いものであれば、きっと、その新しい「仕事」は受け入れられることでしょう。
そして、僕が定義するところの「本屋」と、それを純粋に具現する「天狼院書店」は、お客様に受け入れているゆえに、全国に広がっていて、やがて海を超えるだろうと僕は信じて疑わないのです。
どうです? 皆さんも「本屋」になりたくなったでしょう?

 

 

 

 

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