【表面張力決壊】お祈りメールをもらったときの優等生の気持ちとは《崖っぷち就活生みはるの苦悩》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」で読まれる文章のスキルを学んだスタッフが書いたものです。
http://tenro-in.com/zemi/31877
ぽちゃん
コップに水が滴る音が聞こえる。あと、もうあとどれくらいこのコップには水がはいるのだろうか。勢いよく蛇口を捻って、ジャバジャバと注いでも溢れないだろうか。それとも、あと1滴で一種のダムにも思える表面張力が決壊し溢れてしまうだろうか。今のわたしは自分の持っているコップの大きささえもわからないでいる。
落ちた。
聞いてはいたけれど、こんな気持ちになるのかと思った。似たメールが届くのは夏から数えて何回目かだったけれど。「本選考」というもので、このメールをもらうのは初めてだった。最後に
今後のご健闘とご活躍を心よりお祈り申し上げます
と書いてあるメール。
俗にいう、お祈りメール。
言いたくはないが、言ってしまえば
選考に落ちたことを知らせるメールである。就職活動の本番、「本選考」でこのメールをもらったら二度とその会社を受けることはできない。オフィスに足を運ぶこともない。やり直しは利かない、当たり前だ。そんなことはとっくに理解しているつもりだった。
この日は、午後からその企業の社員さんにOBOG訪問をする予定があったのと、そういえば2次選考から日が経っていることをふと思い出したのがあって、久しぶりにメールボックスを開いた。まさか自分に、お祈りメールがきているとは思ってなかったから。2次選考をパスしたことを社員さんに伝えて、その上で会社のこと、仕事のことを熱心に質問しようとすら思っていた。自分は2次なんかで落ちるような人間ではないと、選考に来ていた他の学生の誰よりも優秀だったはずだと、その企業の人事もそれをわかってくれている、と。
メールを読んで、それがお祈りメールだということがわかると、わたしは
まあ、そこまで本気でこの会社受けてなかったし
いいや。こんなもんでしょ。
と、一人暮らしで誰もいない部屋で、少しばかり大きな声でつぶやいた。そうだ、前に先輩も言っていたじゃないか。
落ちたからって、自分が優秀じゃないってわけではなくて。その企業に合わなかっただけだって。そう考えた方が楽でしょ、これから何社落とされるかわかんないのに。いちいち気にしてたら精神疾患で死んじゃうって。だし実際落とされたところは後から考えれば自分が働くところじゃないなって思ったし。そんなもんだよ。
その先輩も確かに言っていた。
そんなもんだ、と。だからわたしも、
こんなもんだ、と口にしてメールボックスを閉じた。
物心ついたときから今まで、わたしはずっと自他共に認める優等生だった。何か良くない行いをして先生に怒られている同級生を尻目に、涼しい顔で良い数字が並ぶ成績表を掲げているような、クラスに1人はいる他薦で学級委員長になれるような、理由もなくよく頼りにされるような、そんな感じだった。丸の多い答案用紙とその右上に書かれた100に近い数字、目には見えないけれど態度や言葉の節々から感じる先生たちや友人の自分に対する絶対的な信頼。その2つがわたしを計るものさしだった。これが自分だと思っていたし、それが手に入るのならどんな努力でもした。このものさしをなくすことも、そのための努力をしないことも考えられない。これさえあればどこでも何でもやっていけると信じて疑わなかった。
だから、就活でもこの2つを揃えるための努力をしていけば問題ないと思っていた。でも、就活をしていて
自分が受けた全部の企業から内定をもらえるなんてことはないし、そこまで自惚れてはいけないと理解した。大学という小さくて優しい世界でしか生きていない自分にとって社会はそんなに甘くないということが、周りの社会人を見ていてわかった。同じ就活生と話していると、自分が成し遂げたと声を大にして言っていることがそんなにすごいことではなかったのだと思い知ったことも何回もある。スーツを着て東京駅周辺を歩く自分の姿がショーウインドーに映って得体の知れない優越感に包まれている横を、同じような黒い勝負服の人が何人も通り過ぎて肩を落とすことだってあった。
もう自分は特別な何かじゃない。大きな数字とか、良い成績とか、信頼感とか、優等生とか。そんなものを持った人はいくらでもいる。今までずっと自分だけが持っている素晴らしい特長だと、誰も手に入れることができない宝石みたいなものだと信じていたものは何でもない石ころだった。誰でも簡単に持つことができるもので、彼らがそれを持っていなかったとしたらそこに価値を感じていなかったからだ。彼らはもっと違う小さいけど形の綺麗な石や、ツルツルの石を持っていただけだった。
良い数字と信頼みたいなものを使って計ることで特別だったはずのわたしの努力が、特別ではないと知ってから努力の仕方が思い出せない。
お祈りメールを見たその日、わからなくなった。自分はどれだけの気持ちでその会社を受けていたのか、本当にこんなもんだと納得できるレベルの努力しかしていなかったのか、果たしてその努力というものは正しかったのかと。
気づかなかっただけで
コップには、もうすでに表面張力ができてしまっていたのだと思う。少しずつ溜まっていった水はあと一滴で溢れるところまで、きっときていた。
だって、本当は悔しかった。全然、こんなもんだと思えることじゃなかった。考えて考えて、錬るに錬ったESを前日の夜中まで書いていたことを、その企業について死ぬほど調べたことを、知っているのは自分しかいないけれど。本当にその行動が就活においての努力と呼ぶに等しいのかはわからないけれど。やり方が正しいかなんてわかってやっているわけじゃないけれど。でも今のわたしには、そんな努力とも言えないかもしれない自分自身の行動を努力以外の言葉で表すことはできない。
努力と不安はきっと紙一重で、わたしのコップの中には同じ水として溜まっていっていたのだと思う。就活における努力というものはいろいろあって、それは人によって違うとも思うし、自分がやっていることが全部だとか正しいとかは微塵も思っていない。
そんな努力をすればするほど、コップには勢いよく水が溜まっていって、表面張力ギリギリのところで止まる。そこからは水が溜まった分だけ不安になる。
小学校の運動会でよくあった、水が並々はいったコップをいかに速くゴールに届けられるかレースみたいな感覚。水が多ければ多いほどこぼさないだろうか、途中で転ばないだろうかと不安になる。
努力をすれば、その分だけ不安になって。水が溢れないように自分を調整するしかない。不安は努力と違って、一滴一滴少しずつゆっくりコップに溜まる。就活で言うなら、選考前日に、面接の瞬間に、結果を待っている間に溜まっていく。あれだけ努力したんだから大丈夫と思う反面、これでダメだったらどうしようとも思う。
わたしはコップから水が溢れないように必死だった。
お祈りメールを見て、こんなもんだと、あえて口にしたのは
あと一滴でこぼれてしまうコップの水を止めるためだった。
悔しいと、あんなに頑張ったのにと少しでも思ってしまった瞬間に
水が溢れて、涙になると思ったから。どうでもいい優等生プライドみたいなものがあって、それが表面張力のバリアみたいに自分を守る術だった。
何が正解かわからなくて、よくわからないけど、でも何かしなくちゃという焦りだけあって、その分努力みたいなことはするけど、それで合っているのかも明確ではなくて、同じ分だけ不安にもなって、それを誰かに吐き出すこともできない。
だって
21年間、自分で創り上げてきた優等生というポジションといらないプライド、周りからのイメージはそんな簡単になかったことにできないから。
「みはるなら大丈夫」とか
「そんだけやってたらすぐ決まる」とか
「みはるが決まらなかったら誰も決まらない」とか
すごく嬉しいけれど、言われる度に
自分は本当の意味での不安を言葉にできないんだなと思って、辛い。
わかってはいる。優等生というキャラクターは自分の価値を表現するために、自ら築いたものだって。でも今はそれが邪魔になって自分を全部さらけ出せないのが苦しい。選考に落ちた格好悪いところを見せるのが嫌だと言う人もいるかもしれないけれど。それができない方が、わたしは嫌だ。
就活生と括られている人たちの漠然とした言葉にできない、わたしたち特有の不安みたいなものは変わらないと思う。それは優等生と見られている人たちも変わらなくて。
だから、もし周りに優等生がいるひとがいたら、一言声をかけてあげてほしい。自分こそ優等生だという人は思っていることを周りに言ってしまえばいい。
最後の一滴が落ちるのを我慢して、
水がこぼれないように、慎重すぎるくらいゆっくりとコップを運ぶくらいなら
いっそ、表面張力なんて壊して溢れさせて、新しいコップに水を溜めていった方が楽だと思う。
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