日本一の存在にまるごと抱かれてみたいという欲望
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記事:青子さま(ライティングゼミ)
何を大げさな、と人は言うかもしれない。
でも、私にとっては、間違いなく人生の中で一、二を争うチャレンジなのだ。
この夏、憧れの存在に会いに行こうと決めた。
できるなら、まるごと抱きしめてもらいたい。
もう何年も前から、夢物語で考えていたことだ。でも勇気がなかなか出なかった。
そのくらい私にとっては、気高く、近寄りがたく、雲の上の存在なのだ。
会いに行ったところで、相手にされず、はねっかえされてしまうかもしれない。
まったくの片思いだ。一方的に眺めては、恋い焦がれてきた。
でも、遠くからその存在に触れるだけで、ずっと勇気をもらってきた。
だからとても感謝している。
その気持ちも伝えたいし、そもそも、どうして私がこんなに恋い焦がれるのか、その訳も知りたかった。
遠くから眺めているだけでは、きっとその答えは分からないだろう。
私を魅了してやまない、その正体が知りたくなったのだ。
それからもうひとつ。
この存在に会いに行けば、幼い頃からの謎が解けるかもしれない、と思ったのだ。
それは、「どうして私は日本人なんだろう」ということ。
10代の頃までは、アメリカやヨーロッパに憧れ、どうして私は金髪と青い目で生まれなかったのか、英語が母国語だったらどんなに楽だったか……なんて恨めしく考えていたこともあった。大人になった今は日本が好きだし、日本に生まれて良かったと思っている。
ただ、なぜ私は日本人として生まれたのか、もし、仮に自分自身で選んだとしたら、どうして日本人になろうと思ったのか、それを紐解いてみたいと思っていた。
この存在に会いに行けば、きっと何かを感じるはず、そんな直感が以前からあった。
なぜなら、日本の、そしてここに住まう人の象徴だからだ。日本というエネルギーがそこに集結しているだろうと思うからだ。
そんな思いを抱いて、私は憧れの存在に正面から挑むことに決めた。
**
2016年9月2日10時20分。
新宿発のバスが、標高2305ⅿの富士スバルライン五合目に到着した。
東京は夏の日差しがきつくて暑かったのにここは肌寒い。すでに空気が少し薄いように感じる。
着替えや荷物の整理、昼食を済ませ、小御嶽神社に入山のご挨拶をして、山へ入る。
さきほどまで美しい青空が広がっていたのに、歩き出すや否や、一面にガスが発生して、あたりは真っ白だった。
まるで、そんなに簡単には正体を明かさないよ、と言われているようだった。
全容がつかめないまま、この延長線上に山頂があるということを信じて歩き始める。
この五合目のあたりを神の領域との境目として「天地の境」と呼ばれていることをふと思い出した。ということは、もうここは、この世ではないのかもしれない。
私は、体力もなければ、気力も弱い。日帰り登山しか経験がない。すぐに疲れる。すぐに愚痴る。正真正銘のヘタレ登山者だ。
登頂できるだろうか。でもここまで来たら行くしかない。
たとえ、てっぺんまでは行けなくても、一歩一歩進むことで、きっと何かが受け取れるはず。富士山と対話をするために、その先へ、またその先へ。
富士山登頂のカギは、高度順応なのだそうだ。高山病を避けるには、とにかくゆっくりと進むこと、お水を少しずつ飲むこと、そして深い呼吸を続けることだと詳しい人に教えてもらっていた。
ちょうど私の前をガイドツアーの一行が歩いていた。先頭にいるガイドの歩みは、私が予想していたよりもずっとずっと遅い。一歩ではない、半歩ずつ、細かい足取りで赤土を踏みしめていく。
なるほど、プロのガイドは、こんなにゆっくりと案内するのか。
高山病の予防と疲労を溜め込まないために考えられたペースなのだろう。
この一行にしばらく着いていったのが功を奏したようで、歩き方や呼吸のリズムが自然と身についた。上がれば上がるほど、どんどんと薄くなっていく空気に、体は順応していく感じがした。
なんか大丈夫かも!
とても不思議なのだが、小さな一歩を積み上げていくたびに不安や恐れが溶けていき、この一瞬を味わうことが、ただ楽しくなってきたのだ。
山を歩いていると頭の中は空っぽになる。残してきた仕事のことも、数々の保留事項も、先々の心配も、一切頭の中から消えて、ただ五感を使ってこの場を感じ取っている。
たった今、踏みしめている土や岩を感じ、透明で凛とした空気を吸い、山からいただいたエネルギーを身体の中に回す。
ほんのたまに、雲が切れて、美しい稜線があらわになる瞬間を見逃さないようにしながら。
最初は「後ろが詰まってしまうから早く行こう」とか、「どんどん追い抜かされちゃうよー」とか、周囲を気にしていたのだが、だんだんと世界は「自然と私」だけになって、焦りの感情が消えていく。
富士は不二と書いて、ふたつとない存在、という意味もあるという。
自分のペースを守り、無心に登っていくと、まさに、自分は誰と比べる必要もない唯一無二の存在だということがすとんと腹の奥底に落ちていく。
思考も、心も、身体もシンプルになって、ただひたすら歩くだけ。
あぁ、なんて居心地がいいのだろう。
16時半、八合目の山小屋に無事に到着した。ここで宿泊だ。
順調にたどり着くことが出来て、ほっと安堵した。
体調も良く、夕食のカレーライスもしっかりと食べることが出来た。
ここまでは完璧だったが、ここでまさかの展開になる。
山小屋で寝ているうちに軽い高山病のような症状が出てきたのだ。
窓のない部屋の、寝返りも打てないほどのスペースに大勢がひしめきあう中で横になっていたら、どんどん頭が痛くなってきて、胃腸がむかむかしてきた。酸欠だろうか。
慣れない環境と体調の変化で、ほとんど眠れないまま、時間が過ぎていく。
深夜1時半、頭痛も引かず、身体はだるいままだったが、山頂に向けて出発した。
真夜中にヘッドランプをつけて高山をのぼるのも生まれてはじめての経験だ。
先の道筋がよく見えない中で、傾斜のあるゴロゴロとした岩場を歩くのは、さすがに恐怖を感じた。
でも、空を見上げると、そこは満天の星が散りばめられていた。
空がうんと近い。ジャンプすれば星に手が届きそうなほどだ。
「空に包まれている。富士山に抱かれている」
そう思うと、どんどん身体が軽くなり、全身に力が戻ってきた。
九合目に入ると、頂上を目指す大渋滞の列が出来ていた。ひとりひとりのヘッドランプの灯りが連なり、まるで蛍がこれから行く道を示してくれているようだった。
ゆっくりペースなのはありがたいのだが、止まっていると身体がどんどん冷えていく。頂上に近づくほど、容赦のない突風が吹き付ける。
こんな状況になったら、いつもの私なら一目散に逃げるか、泣き言を言っているはず。
でも、不思議なのだ。気力がまったく落ちない。
今、富士山にいる、と思うだけで、この過酷な瞬間も、かけがえのない大切な時間に感じる。こんな心境になれるなんて、自分新発見だ。
ふと見上げると、あんなに遠くに見えていた最後の鳥居が目の前まで迫っていた。まもなく登頂だ。
午前4時40分。3776mまで自分の足でたどり着くことができた。
すごい! 無理だと思っていたのに、今、私は頂上の地面を踏んでいる。
登頂できた感謝と安堵に包まれた。
まだ空は闇に包まれていたが、ほのかに地平線が見えてきたような気がする。
頂上にたどり着いたたくさんの人々が、それぞれにふさわしい場所を確保し、防寒をして、ただ一点を見つめる。
その時がやってきた。
最初の光の一滴が、地平線にぽとんと染み渡る。
「あぁ……」
ため息とも、感嘆ともとれる声が一斉にこだまする。
一瞬ごとにどんどんと光量が大きくなり、太陽の神様が今日の始まりを祝福してくれているようだ。すべての人の顔が赤く染まる瞬間。
ご来光も雲海も最高の眺めだった。ここに来なければ味わうことのできない絶景。
そして、自然も私も現象なのだ。決して留まることはできなくて、流れ、変容し続ける。
そのことを実感して、涙がこぼれた。
**
富士山は不思議な山だ。
信仰の山としての歴史が古く、修行の場でもありながら、一大レジャースポットでもある。
一般的な登頂シーズンの7月上旬から9月上旬の僅か2か月間の間に、23万人以上の老若男女が頂上を目指して登っていく。しかも、昨今は、外国人がとても多くなり、さまざまな言語が飛び交い、国際色豊かな場所となっている。
その中には、タンクトップに短パンにクロックスといういで立ちで弾丸登山している人もいるし、マイケルジャクソンを大音量で流しながら、ひゃっほーいっと登っていく外国人のグループもいる。
これだけたくさんの人が、飲食をし、水のないこの山で排泄をしていく。
山小屋の周辺でトイレの匂いがするのは、正直げんなりしたが、これだけの人が山に入るのだから仕方ないのであろう。
俗っぽく、生々しい人間の行いを、この山は、ただ黙って受け止めている。
そして、シーズンを終え、人がほとんど立ち入らなくなった富士山には静寂と神聖さが戻るのだろう。
いづれにしても富士山はそこにいる。
隠れることなく、縮こまることなく、堂々と、そこにいるだけなのだ。
その寛容さたるや。
大らかさたるや。
あ、と私は思った。日本人のスピリットがここにあると。
日本人はNOが言えないとか、主体性がないと言われることもあるようだが、富士山の持つ寛容性や柔軟性は、日本人の国民性と似ているような気がした。
別の文化や宗教を持つ人たちをどうぞ、どうぞと快く歓迎する姿勢は、NOと言えないのではなく、おおらかに受け入れ、和の精神を持って、ここに来た人みんなでご来光を体験してもらいたいということなのかもしれない。
そして、私たちは、森羅万象に八百万の神々が宿っていることを無意識なりにも信じている。山にも木にも石にも花にも、すべての自然に宿る叡智に敬意を表し、その力に畏怖の念を感じながら、征服ではなく調和を目指してきたはず。
富士山の中に入ると、その日本の心を思い出すような気がするのだ。
下山しながら、私ははっきりと悟った。
私は、自分で選んでこの国に来たことを。
日本人になりたくて、日本に生まれてきた。
砂ぼこりにまみれ、ふらふらと足を動かしながら、そのことをなぜか確信した。
富士山にまるごと抱かれてみて、私の何かが変わった。
不要なものをぺろんと脱ぎ捨てて、自分の中心がむき出しになったような気がしている。
富士山のように、私も少しは気高く、潔くなれるだろうか。
少なくとも、これからは、富士山を意識して生きていくようになるのだろう。
こうして、私の2016年の夏が終わった。
***
この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。
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