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チーム天狼院

力がないのなら、迷わず誰かを真似れば良い《ビジネス書専門店店長・美術館へ行く。第1回》


記事:永井聖司(チーム天狼院)

「この突き刺さったものはなんですか?」

学生時代の放課後。友だちとのゲームの中で名古屋のシャチホコを描いた僕に対して、友だちが言った言葉だ。
シャチホコどころか、魚であることも認識してもらえない。それどころか「なんですか?」と聞かれるぐらい、生き物なのかなんなのかも理解してもらえない。

これが僕の、絵のレベルである。

アートに触れるような家庭環境でもなければ、記憶の中で、高校生よりも前に美術館に行った記憶すらない。

そんな僕が、ひょんなことから大学時代に美術の歴史を学ぶ『美術史』という学問に触れ、美術の面白さ、楽しさを知っておよそ10年以上が経った。今でも絵の下手さは相変わらずでもそれでも、美術を見ていると楽しいと思えるし、美術がなければ今の自分にはなり得なかった、とさえ思うほどになった。
それは、『美術を見れば人生が変わる』と思える経験が、いくもあったからだ。美術作品を見ることで学んだこと、考えたこと、そしてその経験を仕事などに生かしていく中で、僕の人生は間違いなく変わったし、美術がなければ今の自分はあり得なかったとさえ思えるぐらいだ。

その一つが、『狩野派』について学んだときだった。

狩野派とは、日本の美術史上最も長く、室町時代から江戸時代までの約400年間、美術界の中心に君臨した一族のことである。
代表人物、『狩野永徳』の名前などは、日本史の資料集などで見て、覚えている人も多いかもしれない。

狩野派の特徴は、徹底した『粉本(ふんぽん)主義』と言われている。これはつまり、『お手本』を真似することだった。輸入された中国絵画や過去の作品の形をまとめた粉本を元に、絵を描く。
僕も美術史を学ぶまではずっと勘違いをしていたのだけれど、昔の絵師の世界というのは、現代でイメージされるような、自由や独創性、などというのとはまるきり逆の世界だったのだ。注文主の依頼通りに書き上げるのが重要で、そのためには、なんでも描ける必要があった。例えば注文主から、『中国絵画の〇〇風に描いてほしい』と言われれば、そのように描けなければ、仕事として成り立たなかった。
イメージするなら、昔の『絵師』という職業は、今で言うデザイナーのイメージに近かったのかもしれない。
そういった環境の中で、狩野派の『粉本主義』というシステムは、大変役に立ったわけだ。
依頼主の望む『お手本』を元に、それ通りに描くことが出来れば、仕事しては成立する。しかも画壇の中心にいたということもあって絵の鑑定の依頼なども多く受けていた狩野派の下には、更にまた素晴らしい『お手本』が増えていき、『お手本』がどんどんストックされていていくこととで、次の依頼にも応えることが出来るという流れが出来上がっていたということになる。

詳細を知りたい方は是非、現在出光美術館で開催中の『狩野派』展を訪れてもらいたい。
どういう環境で当時描かれていたのか、そして粉本主義とは何か、粉本を元に絵を描くとはどういうことなのかがわかる展覧会になっている。

そしてその上で、お手本と、お手本を元にした作品との『違い』にも、気づくことができる。

絵がドヘタな僕が言うのは大変おこがましいことではあるのだけれど、『うわ! 全然違うじゃん!』『下手!』と思ってしまう作品が、たまには登場してくる。元になった作品と、お手本を見て描いた作者の差が、悲しいぐらいに歴然と現れているのだ。
多分、お手本を元にして描いた作者も、元の作品とのレベル差に恥ずかしくなるぐらいだったに違いない。

でも、そんな作品を見る度に僕は、社会人1年目の時の自分を思い出し、勇気をもらい、そして、勉強になる気持ちになるのだ。

社会人1年目の時に僕を指導してくれた先輩は、入社7年目の、中堅クラスの先輩だった。

メールの打ち方やスケジュール管理の方法、アポのとり方などを教えてはくれるのだけれど、中々僕自身のやり方として身についていかないのだ。「なんでわからないんだ!」「ふざけんな!」「お前、おかしいぞ!」などと叱られる度、僕は困惑していたのだ。なにがわからないかがわからない状態だった。そして、何がわからないかもわからないから、自分でオリジナルを求めて試行錯誤してみるのだけれど、やはりうまくいない。
そんな負のスパイラル状態が半年ほど続き、精神的にも、先輩との関係性も最悪になった頃、見かねた上司が、指導役を僕の1年先輩の若手の人に切り替えたのだ。
すると途端に、仕事の理解できる速度が変わった。新しい指導役の先輩が何を言いたいのかがよく分かるし、自分が何をできていないのかが良くわかる。そこから少しずつだけれど仕事のやり方も、職場の中でも関係性が変わっていって、社会人として成長していくことが出来た。

そして二人の先輩の指導を受けて気づいたことがある。最初の、7年目の先輩と僕とでは、『レベルが違いすぎた』のだ。社会人レベルで言えば赤ん坊レベルの僕と、成人済のような先輩とでは、見える景色も、話せる言葉も知力も体力も、何もかもが違ったのだ。だから僕は先輩の言うことが理解できなかった。多分先輩も同じだったと思う。
それが、ひとつ上の先輩に変わったことで、大人対子ども、ではなく、幼稚園の年長組と年少組ぐらいの関係性になったおかげで、意思の疎通も出来るようになったし、理解出来ることが増え、僕も色々なことを吸収することが出来るようになったのだ。

『レベルが違いすぎた』ことで、僕は大きな失敗をした。

そのことを思い出せてくれる狩野派の作品を見る度、今は、身が引き締まる思いもするし、希望を感じることも出来る。

お手本を元に描いた絵師は、僕が気づいたように、自分のレベルの低さを感じたはずだ。
それでも、絵師の人たちは諦めず、自分が下手だと自覚しながらも、描き続けた。どうしようもないぐらいの、先人たちとのレベル差を埋めようと、自分の出来ることから真似て、自分のものにしようとしていったのだ。

数え切れないぐらいの失敗をしただろうし、その度に、自分の力の無さに絶望しただろうと思う。

それでも、その努力の果てに、同じレベルまで達することは出来なかったとしても、自分なりの作品ができあがっていったのだ。

狩野派の作品と、お手本になった作品を見比べてみると、よく分かる。
書いているテーマや構図は同じでも、草花の描き方や躍動感、髪の描き方などの、細部が違う。そこにこそ、オリジナリティがあるのだと、気付かされる。

最初からオリジナルを求めてみても、完全なオリジナルなんてどこにもないのだ。全ては、真似から始まる。真似した時の、レベル差を感じた時の絶望から、全ては始まるのだ。

社会人1年目の、何も出来なかった僕に、教えてやりたい。

狩野派の絵は、その絶望と、希望の両方を、教えてくれる。

ー『狩野派 ─画壇を制した眼と手』展、3/22まで、出光美術館にて開催中ー


2020-02-26 | Posted in チーム天狼院, チーム天狼院, 記事

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