リーディング・ハイ

これを読めば、恋だの愛だの言っている次元じゃないぐらい誰かを愛したくなる。《リーディング・ハイ》


ekuni

 

記事:市岡弥恵(リーディング&ライティング講座)

 

 

「恋だの愛だの言っている次元じゃないのよ」

 

その女性は、私にそう言いながら泣いていた。

私よりも随分年上の彼女に、私は声をかける事も出来なかった。満開を過ぎた桜たち。ハラハラと花びらが落ちてくる桜並木で、私はベンチで彼女と二人きり。この桜のように、私たちも美しく散れないものだろうかと思った。

 

彼女は、美しい。

誰が見ても美しい女性だった。そして、彼女はその美貌故に多くの男性から抱かれてきた。女なら誰もが羨むその美貌。それなのに、彼女は今こうして泣いている。

 

 

私よりも随分年上のその女性は、長崎の母子家庭で育った。彼女の母もまた、女手一つで子供を育てる為、スナックを経営していた人だった。夜中にスナックの上で独りで寝る。それが、彼女には当たり前だった。そうして、母が女であることを幼ながらに見る。家に来る男たちが次々に変わる。それは、母として生きて行く術だったのだ。

そんな母親の姿を見てきた彼女。いつしか彼女も、母と同じスナックのカウンターに立っていた。瓜二つの美人親子。それはそれは、美しい空間だったに違いない。

彼女の母親は、大学に行けと言っていたそうだ。しかし彼女はそうしなかった。大学に通うという事が、彼女にはひどく陳腐に思えた。同世代の子供たちが、当たり前に学校に行き、当たり前に家族団欒をして、当たり前に夜寝静まる。そんな友人たちと全く会話の合わない彼女。彼女には、そんな同世代の友人たちと居るよりも、こうして生き急ぐ母の横顔を見ている方が重要だったと。そう彼女はいつか語っていた。

 

 

 

そうして、彼女が心配していたように、やはり母は生き急いだ。

肝臓癌で亡くなったのだ。彼女が25歳の時に。

 

 

 

彼女は母を亡くし、守るべきものを失った。そして愛すべき人も。

 

 

長崎に留まる理由の見つからない彼女は、福岡の中洲へ来た。

そうして、手術を受け、中洲で働き始めた。本物の女性として花を咲かせた。

 

 

そんな彼女が、あの男と同棲を始めたのは五年ぐらい前だったと思う。

水商売をしている彼女が、特定の男性と暮らし始めた。あの時の私は、それがなんだか、とても不思議だった。彼女からは、永遠だとかそんな言葉を聞いた事がなかったから。彼女を見ていると、いつも全てには終わりがあるように感じてしまう。

 

 

しかし、彼女は恋に落ちた。

 

 

彼女が水商売をしていることを、承知の上で付き合い始めた男性。私は勝手に、その男性も夜の世界で生きている人なのだろうと思っていた。しかし、その男性は大手企業のサラリーマンだった。至極まっとうな男性だった。生活リズムも全く違う彼女たちが、一つ屋根の下で暮らす。すれ違いの日々のはずだ。それでも、彼女はとても幸せそうだった。あれだけ、夜の世界で不倫や何やらを見てきた女性が、「愛」という言葉を使い始めたからだ。世の中すべてを鼻で笑っていたような彼女が、本気で恋に落ちた。それは、私にとっても永遠を感じさせる出来事のように感じた。

 

 

 

だが、男は別の女と結婚した。

 

 

 

「恋だの愛だの言っている次元じゃないのよ」

 

彼女は、そう言いながら泣いていた。

私は、やはり彼女にかける言葉が見つからない。これだけ、美しい彼女が。女の私が見ても、美しい彼女が泣いているのに……。

 

 

生物学的に男として生まれた彼女が泣いているのに……。

 

 

そう。

彼女は、男として生まれた。母を亡くし、福岡へ来て性転換手術を受けていた。同性愛者の彼女に、やはり永遠はないのか……。

 

 

桜の花びらがハラハラ落ちていくのを見て、私はぼんやりとそんな事を思った。女として花を咲かせた彼女が、こうしてハラハラ涙を流すのを見て、彼女がどこか誰の手にも届かない場所まで落ちてしまうような気がした。

 

 

「結婚なんて、そんなものどうでもいいのよ」

 

泣いていた彼女が、ふとそんな事を言った。

 

「ただ、あのまま二人で過ごして行きたかった。結婚できなくても、子供が持てなくても。それでも私は、彼と一緒に生きたかった」

 

至極まっとうだと思った

 

それは、私とて同じだった。

ただ、このままの生活が続けばいい。ただ、このまま彼の温もりの中に居られればいい。毎日毎日、彼の顔が見れればいい。やはり、彼女の気持ちは、至極まっとうだと思う。

 

 

「だから、恋だの愛だの言っている次元じゃないのよ。泣くのは今日だけよ。ただ、自分の為に泣く。そして、また私はこんな風に人の事を想うわ。だってしょうがないじゃない。女なんだから」

 

 

やはり、彼女は美しいと思った。

 

***
私は、桜が咲く頃になると、彼女のことを思い出す。

あの時の彼女の言葉が、ただきらきらと桜と一緒に舞っているように見えるのだ。

 

「女なんだから」

 

男性として生まれた彼女が言うその言葉が、私の心に勇気を与えるからだ。こうしてまだ結婚できていない私が、「女なんだから」という一言に救われるのだ。

 

恋に生きてもいいじゃないか。

 

そう思えてくる。

そうして、やはり恋をしようと思う度に、この本を手に取る。まだ、桜が咲くには早いけれども。

 

ただ少しだけ、この本と一緒に、準備をしておこうと思うのだ。人を想う準備を。

 

 

紹介した本:「きらきらひかる」江國香織 新潮文庫

 

 

  
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2016-12-25 | Posted in リーディング・ハイ, 記事

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