【京都天狼院通信Vol18:「頭痛」という成長痛~優等生からの脱出~】
*この記事は、「ライティング・ゼミ」を受講したスタッフが書いたものです。
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記事:池田瑠里子(チーム天狼院)
今日も頭痛がひどい。
朝を起きて、目を開いた時、本当に昨日も夜、私はちゃんと眠っていたのだっけ、と感じる。
スマホの画面を見ると、間違いなくもう朝はきている。そして私は日付が変わる前に布団に入ったはずだ。睡眠アプリの睡眠時間は「6時間18分」。うん、そうだよな、ちゃんと横にはなっている。
ちゃんと6時間は、体を横にしているのだから。起き上がれ、私。
そう思っても、体が思うように動かない。頭は重い。奥の奥から鈍痛が襲ってくる。
モヤがかかったように、ボーッとする脳味噌をなんとかひっさげて、ふらふらと洗面台に向かう。そんな生活をもう数週間も続けている。
仕事が嫌いなわけではない。むしろめちゃくちゃ楽しい毎日だ。
大変なことだって多いけれど、自分の力を発揮することはできていると思う場面も多いし、
常に新しいチャレンジが広がっている。
そこに立ち向かって、どんどん自分の世界が広がっていることは大きな喜びだ。
ここにきたからカメラにも出会えて、文章も書く能力もついてきて、いいことづくめだ。
私は友人にも恵まれている。前職の人たち、幼なじみ、中学高校大学の友人……。
よくこんな、感情のコントロールが苦手で、気が強くて、ちょっと変人な私のことを、見捨てることもせず、ずっと長く友人でいてくれるなと思う。
本当に心から感謝している。
同僚もだ。私が体調が辛い時、すぐに心配してフォローしてくれる。私がまったく思いつかないようなアイデアをバンバン出して、会議が進む時なんか、すごいなーと。
さらに私には恋人だっている。全然連絡はくれないけれど、でも会えば私のわがままだって、めんどくさいといいながらたくさん聞いてくる、優しい恋人。
私は別に、日常生活に、不満なんかないのだ。
それでも、今日も、頭痛がひどい。
いろんな薬を試した。病院にも行った。無理をしないように、みんなに余計に心配をかけないように、体調が辛い時は我慢せず同僚に言うようにした。
これは私の基礎体力がないからだ、そもそも食生活が悪いのかもしれないと、ダイエットアプリまで入れた(ダイエットのためではなく、栄養管理のために)。
それでも、まったく改善しない。もうどうしたらいいのか、ほとんどお手上げの時に、私の目にふととまったのは、自分が関係なんかするはずがないと思っていた、ネットの、うつ病のページだった。
「完璧主義者は、うつになりやすい」
いや、私は「うつ病」ではないと思う。
毎日、世界はいつだって明るい。明日を生きることは怖くない。
チェックリストもやってみたけれど、「絶対あなたはうつ病です、病院受診しましょう」とはでなかった。
でも、完璧主義で、真っ直ぐにしか生きられない側面があるのは、ああ、そうだなと思ったのだ。
昔はこんな人間ではなかった。私は子供の頃から、家族の誰よりもずぼらで、片付けもせず、どうしたら楽をして生きられるか、そればかり考えていた人間だったなと思う。
カバンの中は汚かった。字も綺麗じゃなかった。さぼって、寝ていることが、大好きだった。
でもそんないい加減な私の憧れは、いつでも「クラスの優等生の子」だった。
あんな風に、先生から褒められて、何をしてもそつなく、端からみて、「完璧」に生きたいと思った。
どうしたらあんな風に人から認めてもらえるのだろう。どうしたらカバンの中がすっきりしていてスマートにおしゃれに見えるのだろう。
一番の優等生を真似して、字を書いてみたり。
同じようなおしゃれをしてみたり。
負けず嫌いだから、その子に負けないくらい、勉強してみたり。
そんなことを続けていたら、気がついたら、自分の身の回りのことにおいて、なにかをする時に、「力を抜いてすることができない(しかも力を入れていても失敗することが多々)」、不器用な人間に育ってしまったのだと思う。
数年前、前の職場の同僚が異動になる前、私にくれた手紙の言葉が思い出される。
「るりこは、まっすぐに伸びる、ひまわりの花みたいだよね。ずっと上を見て、太陽を浴びて、首を伸ばしてまっすぐ立ってないと、誰にも見てもらえなくなる、っていつも頑張ってる。でも、そんないっつもまっすぐしていたら、きっとひまわりが枯れる時みたいに、いつか、パタって、折れちゃうよ。」
もうちょっと、力抜いて、いいとずっと思ってた。
そう書かれた手紙は、私にとってあの時もすごく衝撃だったなと思う。
でも、同時になんとなく、私の本質を、そして頑張りを否定されたような気がして、わざと思い返さないようにしていたなと思うのだ。
まるで動き続けないと、生きていけないマグロみたいに、
私は勝手に、自分の中で作り出した檻の中で、縛られて生きてきたのかもしれないなと思う。
充実した世界を生きていないと、自分に存在価値なんかないんだというように。
まっすぐに生きていないと、自分としても許せないように。
「優等生」を続けないと、私が私でいられないとでもいうように。
自分を過大評価していたのだ、私は。私は「優等生」になれたと。
頑張って、憧れの「優等生」に近づけたのだと。頑張り続ければ、「優等生」でいられるのだと。
今の私は、本当にそうなんだと思う。誰にとっても、優等生でいることに必死だった。
職場でも、友人の前でも、恋人の前でも、どこでも「外向き」の自分を意識して、その「優等生」な自分が演じられないと自分を責め、頑張って、でもどうしてもできなくて、自分を責める……。その繰り返しだったんだと思う。
でも、もしかしたら、大事なのは、誰かからの評価でも、他人からの目でもなく、
自分自身がどう生きるのか、ということなのかもしれない。
完璧でいられない自分だって、自分自身であることは変わりない。
それをちゃんと認めてあげることも、とっても大事なことなのかもしれない。
掃除ができなくたって、いいじゃないか。疲れた日はお皿を洗うことがめんどくさい日だってある。
毎日きっちりできないことがあったって時にはいい。そんな自分を自分が許してあげなきゃ、誰が許す?
私は、お花屋さんで売られているひまわりではない。その辺に咲いている、たんぽぽみたいな小さい雑草にすぎない。
そう、ちっぽけで、でも頑張って生きている、そんな一つの命にすぎないんだ。
ひまわりである必要はない。たんぽぽだってかたばみだって、名も無い花だったとしても、いいじゃないか。
今更ながらに、そんなことを、今、思うのだ。
今日も頭が重い。
でも私は、私自身と向き合う鏡のような存在になってくれた、この痛みに感謝している。
これは私という人間を、さらに一歩、進めるための、成長痛だ。
優等生からの脱出。これが、30歳になる2020年の、私のテーマである。