チーム天狼院

短編小説『私の盲目な恋』


*この記事は、「ライティング・ゼミ」を受講したスタッフが書いたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

文:斉藤萌里(チーム天狼院)
 
 
*このお話はフィクションです。
 
 
 
 
目を閉じると、暗闇になる。
 
そんなこと、当たり前だって思うかもしれない。
私たちは毎日、毎晩、疲れた目を閉じて、暗闇の中に引きずられるようにして眠る。
時に夢を見て、時に何を夢に見るでもなく朝、突然目が覚める。
夢を見たいと、常々思う。
できれば、幸せな夢がいい。
大好きな人が出てくる夢がいい。
その人がもし夢に出てきたら、お互いの目と目を合わせて、「好きだ」と言ってみたい。
これは、一生叶わない夢なのかしら?
 
「……」
東向きの部屋のカーテンを開けると、朝日がツンとまぶたに直撃して、反射的に顔を背けた。
加賀山雪乃(かがやまゆきの)。
1993年5月24日生まれ。
大学を卒業して四年。
これまで、就職活動に失敗した私は、何度もいろんな会社に履歴書を送ったけれど、どの会社にも合格しなかった。
 
それも、仕方がない。
だって最初から諦めていたんだもの。
自分なんかが、普通に就職できるはずがないって。
部屋はとっちらかっていて、大学での課題を提出するのも、提出先がどこだかわからないという理由で遅れることがあった。先生に直接渡すのならまだしも、「研究室のポストに入れておいてください」なんて言われると、大学構内で迷いに迷って、「もう、いいや」と投げやりになった。
ならば友達に頼めばいいだろうと思うかもしれないが、あいにく、地元を離れての慣れない大学生活において、仲の良い友達が一人もできなかった。
授業に出ればなんとなく会話をする友達はいるけれど、課題の提出を代わりにしてくれるような、親密な友達がいなかったという意味だ。
 
そんなわけで、大学を卒業し、結局1年はまともに就職ができず、1年間はコールセンターでアルバイトとして働いた。
コールセンターでは、電話の相手によってまあ、言ってしまえば苦言を吐く人も多く、最初はウンウン唸るほどストレスが溜まった。けれど、慣れてくれば良い意味で聞き流せるようにもなって、気がつけば淡々と「かしこまりました」「申し訳ございません」が口をついて出るようになっていた。
 
自分には何もできないんだと思い込んでいた時期だったので、アルバイトとはいえ、働ける仕事があってひとまず気分が落ち着く。
 
ストレスは溜まるけれど、働けないよりましだ。
 
半年ほど働いてようやく心が前向きになり始めたとき、コールセンターで仕事を教えてくれていたアルバイトの先輩、常岡さんに肩をトントンと叩いた。
「あのさ、加賀山さん」
「はい」
4時間の勤務後、1時間休憩に入ろうかとしていた時だった。
「この書類、間違ってるんだけど」
「……すみません」
「この前も書類間違えてたよね。難しいなら他の人にやってもらうから、そう言ってね。ミスをされるとまたやり直さなくちゃいけなくなるでしょう。それなら他の人に代わってもらう方がいいの」
「申し訳ありません」
バサバサと、常岡さんが書類を持つ手を動かしている音が、やけに大きく聞こえた。
私が先輩に注意を受けている間も、事務所では電話の呼び出し音が鳴り止まない。
音。
耳に、きんきんと響く音。
私はこの音に、いつしか耐えられなくなっていた。
 
なんとか気持ちを立て直しながら続けてきたコールセンターでのアルバイトも、一年でやめてしまった。
「なんか、もういいや」
吹っ切れてしまえば早くて、コールセンターの仕事を辞めたあとの開放感を想像したらすぐに申し出ることができた。
何もできない私を雇ってくれたのはとても感謝しているし、会社側も、私には恩を売ったと思っているだろう。
辞めることを申し出たとき、常岡さんをはじめ、社員さんたちから「そう」とそっけない返事を頂戴した。
教育係だった常岡さんは、私という人間に無駄に労力をかけたと損した気分だろうが、その他の社員にとっては、私がいなくなったからといって、迷惑を被ることなんてほとんどないのだと分かった。
 
私じゃなくたって、いい。
代わりなんかいくらでもいる。
 
その現実は、心に重しがのしかかるように憂鬱なものでもあったし、逆に、心を軽くする羽のようにも感じられた。
 
「ピアノの教室を始めようかなと思って」
コールセンターを辞めた日の晩、母親に電話をした。母は、私が大学進学で上京してからずっと、私の身の上を心配している。その家庭でもそうだが、どうやらうちの母親は、過剰なほど心配性らしい。「女の子一人で東京なんて……」と、上京する前から不安そうな顔をしていた。私が「大丈夫だって」と母を励ます始末に。
父は「一人暮らしでもなんでも、若いうちに経験しておいたほうがいい」と堅実な意見で私を送り出してくれた。
けれど本当に不安だったのはいうまでもなく私自身。
電車と新幹線を乗り継いでようやく「東京」の駅に降り立ったとき、想像以上の人の多さに圧倒された。
駅構内を進んでいくと、ざっざっという人の足音が途切れない。
誰かの肩にぶつかってよろめくこともあった。
「あ、すみません」と一言謝ってくれる人はまだいい方で、ひどい時は向こうからぶつかってきたにもかかわらず「ちゃんと前見てよ」と逆ギレされることもあった。
 
そういう人は大抵、私の目なんか全く見ずに、自分の足下しか見えていないんだ。
 
なんとか平静を装い、「ごめんなさい」と告げる。それで解放されるならもうそれで良いと思った。
 
『ピアノの先生? いいじゃない。家でできるし』
「でしょ。ピアノなら教えられるかなって」
『そうねえ。雪ちゃん、小さい頃からピアノばっかりだったものね』
「うん。こっちきてからもずっと弾いてるよ。ピアノがないとやってけない」
 
コールセンターを辞め、ピアノ教室を始めたいという意思を、母はとても喜んでくれた。母にしてみたら、少しでも私を東京の街に繰り出してほしくないのだろうと思う。
もうこっちに来て六年目なのに、まだまだ母の心配は消えないようだ。
私がもうちょっとしっかり者だったら、こんなに心配されることもないのだろうか。
そう思い悩む日もあるけれど、うじうじ考えたって仕方がない。
母という生き物は、母というだけで、娘を心配したくなるものだ。
しかし今回の一件で、ようやく母を少しだけ安心させることができるなら何より。
 
24歳。
履歴書はもう、書かなくていい。
部屋の隅に鎮座するアップライトピアノに「よろしくね」と心で挨拶した。
 
「はじめまして。塚本蓮(つかもとれん)です。よろしくお願いします」
その人——塚本蓮が私の教室にやってきたのは、ピアノ教室を初めて3ヶ月が経った頃だった。
22歳で、大学4年生だと聞いた。
大人になってからピアノを始めたいという人は時々いて、彼のようにピアノに興味を持ってくれるのを見ると嬉しくなる。
体力が必要なスポーツと違って、ピアノはいつでも始められるもの。
自分のタイミングで、弾いてみたいという心に従って、練習してくれればいい。
「初めまして。加賀山雪乃と申します。ピアノは、もう20年近くやっているので、一緒に練習頑張りましょう」
彼は、それほど年齢の変わらない私を見て驚いたのか、「よろしく、お願いします」と途切れがちに言った。
 
「蓮くん、でいいかな」
 
「え? はい」
 
いきなり名前で呼ぶのはまずかっただろうか。
ただ、私は他の生徒のことも下の名前で呼ぶようにしている。
その方が、親しみが込もって、教える方も教えやすい。
この手法は私が小さいころに通っていたピアノ教室の先生が教えてくれたことだ。
蓮くんは私がピアノを教え始めると、呼び方について特になにも言わなかった。
たぶん、いきなりすぎて戸惑っただけだろう。
レッスンを始めるとすぐに慣れてくれた。
「そう。初めは、ドの音だけでいいから、ピアノに慣れて。“友達”だと思うように、優しく弾いて」
「なるほど」
小さい子に教えるのと同じように、彼にも初歩的なことから伝えることにした。
ピアノに年齢なんて関係ない。
蓮くんは初めてピアノに触ったらしく、ドの音の鍵盤を抑えるのもぎこちなかった。
しかし、私が言うことを忠実に聞いてくれて、「先生の言う通りにしたらすぐできますね」と笑ってくれた。
「そう? 良かった」
私も、つられて笑う。
これまでレッスンに来てくれたのは小学生や中学生がほとんどだったので、こうして自分の仕事を肯定されるのは初めての経験だった。
蓮くんはその後も週に一回、私のところにピアノを習いに来てくれた。
彼の家には電子ピアノしかないらしく、レッスンに来てアップライトピアノに触れることが楽しみだという。
毎週来てくれる度に、彼の指の動きは確実にスムーズになっていった。
まだ楽譜が読めなかったり、リズムが間違っていたりするところは多いけれど、1ヶ月もすれば、簡単な練習曲ぐらいなら通しで弾けるようになってくれた。
 
「先生の教え方、本当にうまいわ」
 
時が経つほどに、彼も私に対して打ち解けて、学校の先輩後輩みたいな感覚に陥る。
弾いているのは、バッハの『メヌエット』だけれど、その明るいメロディーが、耳から直接、胸に響いた。
ぎこちないリズムで、不安定な速度で進む『メヌエット』。
まだまだとても合格点には至らないけれど、彼がちゃんとピアノを練習しているのだということが、目に見えて分かった。
 
「蓮くん、たくさん練習してるみたいね」
「そりゃ、楽しんでますから」
 
蓮くんがピアノを弾けるようになったと実感することが、私をどれだけ慰めることになったか、彼は知らないだろう。
就職活動ではまともな企業に就職ができず、コールセンターのアルバイトでも失敗ばかりだった私に、できる仕事があると思い知らせてくれる。
もちろん彼には、そこまでの自覚はないのだろうけれど。
 
「蓮くんは、どうしてピアノを始めようと思ったの?」
ある時、私は今まで気になっていたことを彼に聞いてみた。
大人になってからピアノを始めようと思う人って、大抵はなにか外部からの働きかけやきっかけがあると思ったのだ。
 
「うーん。なんとなく、ですかね」
「なんとなく?」
「はい。周りで音楽やってる人が多くて。ピアノなら、コスパよく始められるかなって」
 
彼の言う「コスパ」というのはつまり、ピアノなら練習のための貸しスタジオも多いし、先生も他の楽器に比べたらすぐに見つけられるということだろう。
電子ピアノなら手が届かない金額でもない。
 
「そういうことね」
「はい。がっかりしました?」
「いや、全然。むしろ、ピアノを始めてくれてありがとう」
 
なんでも良かった。
彼にピアノを教えるきっかけになったものが、何であっても。
私のところに習いにきてくれたきっかけが、何であっても。
 
彼が私のもとに、ピアノを習いに来てくれたおかげで、私は少しずつ、自分を肯定できるようになっているのだから。
 
「俺、先生のこと“先生”って呼んでますけど、2歳しか変わらないんですよね」
1時間のレッスンが、そろそろ終ろうとしていた時だった。
彼がピアノを習いに来てくれてから2ヶ月。
相変わらず、まだまだリズムとか、「唄いかた」とか、これから上達していくであろう部分はたくさんあった。
でも、飽きずにピアノを続けてくれているというだけで良い。
大人になればなるほど、何かを始めても途中でやめてしまうこと、多いから。
 
「そうだよ。2歳しか変わんないよ。先輩、後輩みたいでしょう」
「そうですね。じゃあ、雪乃さんって呼んでもいいですか?」
「え? ええ」
突然の提案だったので、私は思わず、彼のいる方へ再び耳をぐいっと近づけてしまった。
「これからもよろしくお願いします。雪乃さん」
きっと、彼は行儀よくお辞儀をしたつもりなんだろうけれど、私は隣で赤くなった顔を見られまいと必死に隠していたから、気づけなかった。
 
彼はその後も、私の元に足繁くピアノを習いに来た。
1時間のレッスンのあと、次のレッスンが入っていなければ、そのまま長いこと話し込んでしまうこともあった。
そういう時、私もついつい台所からお茶を持ってきては、彼の前に差し出した。二回、三回と同じことを繰り返すようになると、ジュースやコーヒーを用意するようになった。
彼が、最近ハマっている映画の話をすると、次に彼がレッスンに来る前までに、その映画のことを調べた。映画を見る習慣はなかったけれど、私と違って映画好きなお母さんに内容を聞いた。
そのことを彼に話すと、「雪乃さん、ありがとう」と笑ってくれた。
映画だけじゃなくて、好きな漫画もアニメも音楽も、彼と同じものを共有したいと思った。
 
塚本蓮という人物の全てを、私の中に受け入れたい。
彼の話す声が、帰ったあとに脳裏に浮かぶ彼の楽しそうな表情が、私の日常を変えた。
気がつけば、はっきりと自覚できるくらい、私は彼を好きだと思うようになっていた。
 
「雪乃さん、モテるでしょ」
「どうして?」
 
いつの間にか、タメ口になった口調。
二人で話をしていると、つい時間を忘れてしまう。
ついさっき淹れたばかりのコーヒーが、いつのまにかぬるくなっていた。
 
「だって、笑った顔、可愛いから」
 
誰かに「可愛い」と言われたのは、親以外に初めてだった。
私はたぶん、はっきりとは分からないけれど、世間でいうところの「可愛い」部類の女の子ではないのだ。
だってその証拠に、今まで会ったほとんどの人から「可愛い」「美人」などと形容されたことがなかったから。
それなのに、彼は違った。
なんでか分からないけれど、彼だけは私を女の子として見てくれているような気がして。
そのまま、彼に抱きしめてもらいたいとさえ思った。
そんなこと、叶いっこないのに。
けれど、彼にも1パーセントぐらいは、私を好きだという気持ちがあるかもしれない。
なんて、勝手に妄想しては、結局「またね」とお別れするたびに、ちょっと落胆していた。
 
蓮くんのピアノのレッスンを始めて二年が経とうとしていた。
まったく、二年経っても彼がピアノを続けてくれるだなんて思ってもみなくて。
単純にピアノを習いにきてくれる喜びと、まだ彼の側にいられるという幸せが、この二年の間、どんどん募っていた。
彼以外にも、月に10人以上の生徒がレッスンに来てくれていた。生徒が増えるたびに、お母さんに連絡したら、「良かったじゃない!」と電話の向こうで歓喜するのが分かった。
蓮くんと私は、「先生」と「生徒」のままだったけれど、レッスン後に少し話してから彼が帰るという流れは変わらなかった。
お互い、なんとなく意識していたんだと思う。
「好き」とか「付き合おう」とか、はっきりとした言葉で契約を交わしたわけではない。
言葉がなくても、お互いの間を流れる空気そのものが、二人の絆を確かなものにしていた。
側から見れば、正真正銘の恋人同士。
そう、言われても不思議じゃないくらい、自然と二人の時間を共有していたから。
 
ただ、最近は少し、気になることがある。
 
彼が、以前よりもすぐ、私の家から去ってしまうこと。
それも、大抵は彼のスマホが鳴って、彼が電話をかけてきた相手を確認してからすぐに。
「雪乃さん、ごめん」
彼が私の家を去るとき、決まってその台詞だった。
「ううん。また来週ね」
「はい」
ゴソゴソと、彼が鞄を探る音がやけに大きく響いて聞こえるようになったのは、いつからだっただろうか。
それから、ほのかに香る、香水の匂い。
あ、なんか、いい匂い。
彼が家にやってくれば、大好きな香りが充満する。
本当なら、その時点で気がつくべきだったのだけれど。
もう無理だった。
香水の匂いが、蓮くんの匂い以外の何ものでもないと感じていた。
彼を大好きになってしまった私はもう、後戻りなんて、できない。
 
二年も好きでい続けたんだ。
彼は24歳に、私は26歳に。
中高生の頃、2歳上の先輩がやけに大人に見えた。
でも、大人になった今では、2歳の差なんて、誤差そのもの。
彼だってきっとそう思ってくれている。
 
頭の中で広がってゆく、彼との甘い記憶。
レッスン後のお喋り。
たったそれだけなのに、どうしてこんなに満たされるのか、自分でも分からない。
誰かをこんなにも好きだと思ったのが、生まれて初めての経験だったからかもしれない。20代半ばにもなって、と笑われるかもしれないけれど、これが私にとっての、本当の初恋だったのかもしれなかった。
 
「蓮くん」
夜、寝る前に彼の名前を三回唱える。
そうすれば、彼が夢に出てきてくれると思って。
中高生みたいだって笑われてもいいから、夢の中でさえ、彼に会いたかった。
現実では手を繋いだり抱きしめたりできないけれど、夢だったらできるかもしれない。
 
「蓮くん」
 
夢だけじゃなくて、現実にしたい。
私は、塚本蓮を心の底から愛している。
 
愛している。きっと、ずっと。
 
決意が芽生えたのはその時だった。
目を閉じて、暗闇の中で、固く心に決めたこと。
彼に、自分の気持ちを伝えよう。
なんとなく一緒にいたり、なんとなく暗黙の了解でお付き合いしたりするのではなく、きちんと言葉にしたい。
蓮くんは私の気持ちに答えてくれると思う。
彼の優しい顔が、脳裏に浮かぶ。
精一杯の想像で、彼の顔を心の中で余計にくしゃっと笑わせてみた。
私の想像する、彼の心からの笑顔。
こんな表情を、夢の中ででも、彼は見せてくれるだろうか?
 
翌週。
朝目を覚ました私は、朝から心臓がばくばくと動いていた。
なんてったって、今日、彼に気持ちを伝えるつもりだから。
シャワーを浴びて、夕方彼がやってくる時間帯まで、何度も心の中でシミュレーションをした。
 
好きです。
好きです。
大好きです。
 
彼が、笑う。
私が、ぎこちなく笑う。
そのうち、二人で手を取り合って、外に出る。
初めてのデートに出かける。
 
「うん、大丈夫」
 
大丈夫。
彼はきっと、私と同じ気持ちでいてくれるもの。
 
緊張しながら待つこと、数時間。
玄関の呼び出し音が鳴り、いつのもように彼を部屋に迎えた。
「こんにちは」
「こんにちは!」
……。
玄関を開けて、すぐにいつもと違うことが分かった。
誰かが、いる。
蓮くん以外の誰かが。
「雪乃さん、今日はちょっと彼女、連れてきたんです。ピアノやってて、彼女も雪乃さんから教えて欲しいって」
カノジョ。
その単語が、異国の言葉のように遠く聞こえた。
「初めまして。須藤ミノリといいます。彼と一緒にピアノ始めたんですけど、蓮が、雪乃先生に習ったら上手くなるからって教えてくれて」
須藤ミノリ。
明るくて、ハキハキとした声。
たぶんだけど、私より若い。
「同じ匂い……」
「え?」
そう。
須藤ミノリから、蓮くんと同じ匂いがした。
「ああ、ミノリの香水の匂いかな」
「そうかも! やっぱり移っちゃうんだね」
ははっという、二人の笑い声。
聞こえない。
聞きたくない。
「先生、ミノリに先生のピアノ、聞かせてやってください」
「ぜひ! 私、蓮の話聞いて雪乃先生のピアノ聞いてみたいって、思ってたんです」
「分かりました」
放心状態のまま、ピアノの前に座る。
蓮くんがピアノを始めたのって、もしかして。
ミノリさんがピアノを始めたから……?
そう、分かったとたん、全身から、血の気がさーっと引いてゆくのが分かった。
最初から。
最初から、蓮くんは。
ミノリさんに、上手になったところを見せたくて、ピアノを頑張っていたのだ。
なんて純粋で、なんて尊くて、美しい恋。
静かに目を閉じて、鍵盤に右手を触れた。
ドビュッシー『月の光』。
右手の旋律だけで始められるこの曲を、私は大好きな人のために弾く。
高音が重なり合う、最初の旋律がたまらなく愛しい。
掌からこぼれ落ちてゆく砂のような、儚げなメロディを奏でて。
途中で始まる左手の伴奏。右手のメロディとシンクロして、神秘的な月の光が、頭上から降ってくるように。
行き場のなくした私の「好き」を、『月の光』に託す。
 
「すごい! 先生、目が見えないのに。こんなに綺麗に弾けるなんて」
 
ぴたりと、私の指が止まる。
ミノリさんの心からの褒め言葉が、ぐさりと胸に突き刺さった。
 
先天性全盲。
 
私は、生まれた時から、光を知らない。
知らないからこそ、いろんなものを想像で補って。
バイト先の、先輩の怒った顔。
蓮くんの、精一杯の笑顔。
その全てに形をつくってゆく。
ミノリさんの、無邪気な感嘆と、「すごいだろう」という蓮くんの得意げな声。
「雪乃さんのおかげで、ピアノが好きになれたんだ」
 
ああ。
蓮くん。
ありがとう、そう言ってくれて。
 
でもね、ちょっと痛いかな。
 
目を閉じると、暗闇になる。
 
生まれてからずっと暗闇だった視界の奥に、ミノリと蓮が微笑み合う光景をはっきりと見た、そんな気がした。
 
 
 
 
【終わり】
 
 

■著者プロフィール
斉藤萌里

天狼院書店スタッフ。
1996年生まれ24歳。福岡県出身。

京都大学文学部卒業後、一般企業に入社。2020年4月より、アルバイト時代にお世話になった天狼院書店に合流。

天狼院書店では「ライティング・ゼミ」受講後、WEB LEADING LIFEにて『京都天狼院物語〜あなたの心に効く一冊〜』を連載。

『高学歴コンプレックス』でメディアグランプリ1位を獲得。

現在は小説家を目指して活動、『罪なき私』販売中。

 
 
 
 

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