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夢殿は日本古代史のミステリー《週刊READING LIFE Vol.64 日本史マニアック!》


記事:大矢亮一(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

「その仏像は、厳重に施錠された八角堂の中で、500ヤードもある布でぐるぐる巻きにされ、長い間誰の目にも触れることなく隠されてきた」
もしそんな仏像が存在するという話を聞いてしまったら、興味が湧かないはずはない。
その秘仏は、奈良の法隆寺にあった。
 
先日、名門奈良ホテル(奈良県奈良市)が創業百十周年を迎えた。
キャンペーン価格で宿泊できると聞いて、これはチャンスとばかりに予約を入れた。
奈良ホテルは関西の迎賓館と呼ばれ、皇族や国賓が宿泊するホテルとして有名。かつて宿泊した著名人には、皇室から上皇陛下ご夫妻をはじめ、天才物理学者アインシュタイン、ラストエンペラー愛新覚羅溥儀、そして奇跡の人ヘレン・ケラーなど錚々たる面々。
私のような庶民にしてみれば、歴史上の人物としていささか距離のある方々ばかりである。そんな方々が宿泊されたホテルということで、心を踊らせてホテルについたが、少しばかり早くついてしまい、まだベッドメイキングが終わっていなかったためチェックインまで暇を持て余してしまった。
そこで、付近の観光名所を少し見て回ろうかと思案しているそんな時、同行のカミさんが法隆寺に行きたいと言い出した。
法隆寺と言えば、日本史を少しでも勉強したことがある者なら、その名前を知らない人はいないであろう由緒あるお寺だ。
昭和世代の高校生なら修学旅行は奈良・京都と相場が決まっていた。法隆寺も奈良に修学旅行で行ったことのある人なら、訪れないはずのない奈良屈指の観光スポットだ。
なんで今更法隆寺? そう思っているとカミさん曰く、法隆寺には大昔から秘仏とされている仏像があり、それを見てみたいというのだ。
そんな話聞いたことないな、と言ったら一冊の本を手渡された。
書籍のタイトルは『救世観音像 封印の謎』(倉西裕子・著)。
その書籍のプロローグはこんな書き出しだった。
明治十七年(一八八四)八月。東京帝国大学の理財学、政治学の招聘教授として来日していた外国人アーネスト・フェノロサは、日本美術に関心を抱き、その調査のために、美術史家の岡倉天心、加納鉄斎を伴って、奈良斑鳩の法隆寺を訪れた。その日もまた、奈良盆地特有の蒸し暑い夏の一日であったことであろう。一行を迎えた寺僧たちを前にフェノロサは、日本美術史史上の第一ページを飾ることになる、ある重大な提案を行った。
それは、東院伽藍の夢殿の八角厨子に安置される謎の秘仏、救世観音像の開扉であった。
なんと胸躍るプロローグだろう。
私は一瞬にして今回の旅の目的をホテルではなく法隆寺へと変更した。
 
法隆寺は奈良県生駒郡斑鳩町にある七世紀に創建された聖徳宗の総本山の仏教寺院で、聖徳宗ということからも分かる通り、聖徳太子ゆかりの寺院だ。
奈良ホテルからは西南に三十分ほど車を走らすとたどり着く。
実際にたどり着いてみて意外な印象を受けた。なんというか、地味なのだ。決して悪い意味では無い。一般的に観光地といえばお土産屋さんや観光客を狙った飲食店などが賑わい、ややもすると猥雑な印象を受けるところも少なくない中、法隆寺周辺は厳かで、落ち着いた雰囲気が非常に好印象だった。
時代背景を考えれば当然で、豪華絢爛な平安時代に比べ、まだ日本史的には黎明期と言ってよく、建物のカラーリングもモノトーンが基調となっていることも、落ち着いた雰囲気を感じさせる一因だろう。
境内に続く立派な南大門を抜けると、眼前に中門への参道が現れる。突き当たる中門の背後に五重塔と金堂の甍が少し顔を見せるこの風景は、周囲に高層建築のない青空をバックに圧倒的なスケールで迫ってくる。恐らく千四百年前から変わらずここにあり続けているという、その存在感をによるものではなかろうか。
中門を抜けたところは西院伽藍。伽藍とは主に寺院建造物全般を指す言葉として使われているが、元の意味は僧侶が修行を行う清浄を指す。左手に五重塔、右手に金堂があり、その奥に僧侶たちが修行を行う大きな大講堂がそびえ立つ。
現存する世界最古の木造建築物群もじっくりと堪能したいところだが、目的の場所はここではない。東に目を向け、東大門を抜けた東院伽藍にある夢殿へと向かうことにした。
夢殿は、かつて斑鳩宮という建物があった場所に立つ八角の円堂で、斑鳩宮は聖徳太子が摂政を行なっていた場所である。しかし、時がたち宮も朽ち果て荒廃していたこの場所を、天正十一年(739)に行信という僧が懇願し、聖徳太子の供養として建立した八角円堂が夢殿と呼ばれる建築物だ。
目的の秘仏・救世観音蔵はこの夢殿の中の八角厨子と呼ばれる仏壇のような入れ物に安置されている。
さて、ここからが本題である。この救世観音像は先にご紹介した書籍のプロローグにも書かれている通り、明治も半ばを過ぎるまで、法隆寺の中では秘仏として扱われていた。その昔、開帳しようと試みられたことも何度かあったそうだが、その度たちまちに雷鳴や地震といった災が生じるという言い伝えがあり、フェノロサ一行が開帳を迫った時も寺僧たちはなかなか首を縦に振らなかったという言い伝えがある。
しかしフェノロサ一行は粘りに粘ってようやく開扉の承諾を取りつけ、いよいよ夢殿の中にある八角厨子の重く錆びついた扉を開いたという。
するとそこに現れたのは、幾重にも白布を巻きつけられた仏像らしき丈の高い包みだった。塵や埃が積もった白布は長さ500ヤード(1ヤード91.4センチメートル)にも及んだという。(一部では200ヤードという記録も残る)
ようやく取り除いた先には、複弁式の蓮華座の上に両手で宝珠を厳かに捧げ持ち、アルカイックスマイルを口元に浮かべた長身の仏像がいた。
法隆寺の記録『東院資財帳』によれば、この仏像は『上宮王等身観世音菩薩木造一軀、金箔押し』と記されている。この『上宮王』とは推古朝で摂政を司った聖徳太子のことだ。
つまり、この秘仏とされてきた仏像は聖徳太子の姿を模して造られたことを語っている。
ところが、ここに大きな問題が立ち上がってくる。
実は法隆寺にはもう一体、西院伽藍の金堂に釈迦三尊像という仏像が安置されているが、その光背(仏像の後ろにある光明を表現する装飾)の銘文に『当造釈像尺寸王身』と彫られており、この意味するところは「この仏像は、王の等身大で造られている」という意味であり、そして、この『王』とは聖徳太子のことであると伝承が残る。
しかして、東西両伽藍共に聖徳太子の写し身を本尊として奉ってきたのだろうか。
先にご紹介した書籍の著者・倉西女史は同書の中で、両伽藍での二つの仏像の扱いがあまりにも正反対であることを理由に、これに疑義を唱える。
付け加えると前法隆寺館長の高田良信氏は「この像(夢殿に安置されていた救世観音像)の由来を尋ねれば尋ねるほど不明なことが多い。今では、この像が造られてから天平時代に夢殿の本尊となるまでの記録はまったく無く、将来もそれを証明することは不可能であろう」と述べていることもあり、救世観音像がいつ、誰をモデルに、どのような経緯で造仏されたのか、そしてどのような理由で現在のような秘仏とされたのかは正真正銘、第一級の日本古代史ミステリーだ。
そして、さらに付け加えるなら、そもそも聖徳太子が実在したのかどうかという問題だ。改めて聖徳太子について復習すると、旧一万円札にも採用された日本古代史上、最も偉大な人物の一人とされてきた聖徳太子とは人の名前ではない。正確には後世の人々が偉大な功績を称えるために贈った名だ。偉大な功績とは例えば『冠位十二階』(朝廷に仕える臣下を十二の等級に分け、身分に関係なく有能な人材を登用する仕組み)を制定したことや、『憲法十七条』(官僚や貴族の道徳に関する規範を定め、もって行政法の基となった)の制定を指し、他にも国史編纂や遣隋使の派遣など書き出したらそれこそ切りが無い。そして、それらの功績をもとに聖徳太子の名を贈られた人物とは『厩戸皇子(ウマヤトノミコまたはウマヤドノオウジ)』という、日本古代史的には「実在した」とされる人物だ。
ところが近年、この聖徳太子という人物の功績があまりにも膨大過ぎ、また一度に十人の相談事を聞き分けて適切な指示を出したという超人的な逸話などから鑑みて、ある特定の人物一人の功績ではないという説が唱えられるようになった。その最も顕著な例として、二〇一七年二月に文部科学省が示した新しい中学校の学習指導要領の改訂案で聖徳太子の記載を、従来のものから『厩戸王(聖徳太子)』という表記に変更する案を示し、国会では当時の文部科学大臣であった松野博一氏が民進党(当時)の笠浩史国対委員長代理(当時)からの質問に「日本書紀や古事記において、厩戸皇子などと表記されていることに触れ、聖徳太子について史実をしっかりと学ぶことを重視している」と答弁する一幕もあった。
笠議員は聖徳太子の名を括弧書きで表記するなど末代までの恥とばかりに大臣へ噛み付いていたが、学術的な面から考えるとどちらも断言できないという大臣の答弁もあながち否定はできない。
であれば、厩戸皇子と聖徳太子もまたイコールではないという見方が可能になる。すると、先ほどの倉西女子の疑義と行き着く先は同じく、聖徳太子とは誰なのか、それを模して造られた救世観音像のモデルの前提が崩れ、大いなる謎が立ち上がってくる。
そう、夢殿を前にして私の好奇心ははち切れんばかりだった。
件の救世観音像を一目見れば、何かピンと来るものがあるのではないかと期待した。
ところが、ところがである、儚くもその目論見は崩れ去る。
たどり着いた夢殿には一枚の立て札が掲げられていた。そこには、秘仏・救世観音像のご開帳は通年ではなく、春季を四月十一日から五月一八日まで、秋季を十月二十二日から十一月二十二日と区切って定められた期間しか、そのご尊顔を拝すことができないということだった。
私がカミさんと夢殿を訪れたその日は十二月に入ってからのこと。
なんということだろう。ここまで気持ちを盛り上げたのに、このモヤモヤをどうしたら良いのだろうか。
落胆しながら見上げた夢殿は文字通り見事な八角の円堂で、その甍の上には見事な宝珠が飾られていた。
悔しいので周囲をぐるりとみて回る。一部の外扉が開けられており、内部を覗き見ることだけはできた。
そこには秘仏・救世観音像が安置されている(はずの)八角厨子が見て取れた。
重厚そうな内扉からはどことなく歴史の重みのようなものを感じ、また、その奥に姿を隠す正体の分からぬ仏像の気配は感じられない。なんとなく、永遠にも等しい距離感のようなものだけがそこにある気がした。
泣く泣く、次回ご開帳の期間に合わせて、改めて法隆寺へ戻ってくることをその八角厨子に固く誓うしか、私に残された選択肢はなかった。
 
こうして私の法隆寺・救世観音像紀行はこのような肩透かしで終わってしまったが、これを機に改めて日本古代史に対する大いなる関心が高まった。
この後、さらに詳しく倉西女史の著書を熟読していくと、この時代(飛鳥から奈良にかけて)に起こった未曾有の国難について詳しく記されている。
勿論、秘仏・救世観音像にまつわる謎についても詳しい女史の説が展開されており、非常に興味深い。
これを読んでご興味を持たれた方は、是非、白水社から出版されている倉西裕子・著『救世観音像 封印の謎』をご一読の上、奈良の法隆寺へ足を運んでみていただきたい。
但し、くれぐれもご開帳の日程を事前に調べた上で旅程を組むことをお勧めする。

 
 
 

◽︎大矢亮一(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
東京在住。今もまだ何者でもない。

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