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2020に伝えたい1964

その女性(ひと)は、5歳児が見ても十分に美しかった《2020に伝えたい1964》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 

私が5歳だった時、既に綺麗な女性を意識していた。
そう考えると、食べ物の好みより早く、女性の好みが確立していたのかも知れない。男性なら誰でもそうだと思うが、私は無類の面食いだ。多分それは、5歳の時から変わってはいない。
最初に綺麗だと感じた女性は、近くの二番館で観た映画に登場していた浅丘ルリ子さんだ。観た映画は『ギターを持った渡り鳥』だ。この記憶に間違いはない。
 
そんな、浅丘ルリ子さんの大ファンだった5歳児が、東京オリンピックの中継を観ながら、マセた声を上げた。
「うゎー! 綺麗な女性(ひと)」
そのきれいな女性は、チェコスロバキア(当時)の体操選手、ベラ・チャスラフスカ選手だった。その、東欧版オードリー・ヘップバーンとでもいいたくなる美貌で注目された選手だ。
東京オリンピック当時22歳だったチャスラフスカ選手は、ドイツ併合時代(1942年)のプラハの出身だ。ということは、現在、分離独立したチェコの出身となる。こうした社会的背景が、後々、彼女の人生を大きく揺るがすことになるとは、1964(昭和34)年の日本人は気が付かなかった。
 
ベラ・チャスラフスカ選手が、美貌だけでなく実力で注目されていたのは、市川崑監督の『東京オリンピック』を観ても分かる。映画の全般、各国選手団が次々と東京に降り立つ姿の中に、ノーナレーションで彼女が登場する。観客の誰もが心の中で、
「あ! チャスラフスカだ!!」
と、叫んでしまうシーンだからだ。
ただ、その美貌は別格で、東京オリンピック後に『オリンピックの名花』『体操の名花』そして『東京の恋人』と称されたのも頷けるところだ。
これは、ベラ・チャスラフスカ選手が、時代を大きく動かしたことの証明でもあったりする。
 
チャスラフスカ選手が登場する前、体操競技は純粋に徒手または器械を用いた体操の演技について技の難易度・美しさ・安定性などを基準に採点を行い、その得点を競う競技だった。ただ、英語表記の“Artistic Gymnastics”からすると、芸術的要素は以前からあったと思われる。
これは特に、1976年のオリンピック・モントリオール大会で、ルーマニアのナディア・コマネチ選手の登場により、競技が極端に“曲芸的”になってしまったことで、アスリートの競技から成長してない子供の競技になってしまった様にも感じられる。後に、より曲芸的な新体操がオリンピックの正式種目に加えられることとなって、少しは緩和された感じもする。
1964年の東京大会でも、体操の曲芸化はすでに起こっていた。それは、日本の男子体操選手団が、戦後になって活躍し始め、前回のオリンピック・ローマ大会で、団体と個人総合で金メダルを獲得したことで解かる。男子の体操は、その時既に、小柄な日本人向きの競技へと変化していたからだ。
 
一方、東京オリンピック時の女子体操は、まだギリギリ芸術性を保持していたと思われる。それは、当時22歳だったベラ・チャスラフスカ選手ですら、若手の注目株といった存在だった。なにしろオリンピックは初出場だったし、世界選手権ですら1958年は補欠扱い(もっとも、16歳だった)、1962年は地元のプラハ開催だったので、ホームタウン・ディシジョンで銀メダルを獲得したに過ぎなかったからだ。
個人総合でチャスラフスカ選手と金メダルを争った、二人のソビエト連邦選手が居た。種目別の段違い平行棒で金メダルを獲得し、個人総合で銅メダルを獲得したのがポリーナ・アスタホワ選手。同じく床で金メダル、個人総合で銀メダルを獲得するのがラリサ・ラチニナ選手だ。
両選手は、1956年メルボルン大会、1960年ローマ大会に続き、この東京オリンピックでも団体総合で金メダルを獲得し、史上初の三連覇という偉業の中核メンバーだった。特に、ラチニナ選手は、この東京オリンピックに個人総合三連覇を掛けていた。現代で言えば、日本の男子体操選手の内村航平選手の様な存在だった。
ただ、今から見て驚くことは東京オリンピック当時、ポリーナ・アスタホワ選手が28歳、ラリサ・ラチニナ選手に至っては30歳だった。女子体操が曲芸化した現代では、考えられない高齢の選手だ。
 
驚くのはこれだけではない。
東京オリンピックで念願の団体総合で銅メダルを獲得した日本女子体操チームは、もっと凄かった。21歳の中村多仁子選手は居たものの、加藤宏子選手と千葉吟子選手は、共に26歳だった。25歳だった相原俊子選手は、オリンピック・ローマ大会の金メダリスト相原信行選手と結婚しており、現代でも珍しいミセス選手だった。1992年のオリンピック・バルセロナ大会で銅メダルを獲得した相原豊選手は、二人の御子息である。
さらに、日本女子体操チームの最年長で1954年の世界選手権大会で金メダルを獲得していた池田敬子選手は、31歳のベテラン選手だった。この“ママさん選手”(当時はそう呼ばれた)の先駆けは、オリンピックには裏方に徹する為と参加を表明したそうだ。奥ゆかしい、昔の日本女性の特徴だ。
そして、当時28歳で後に参議院議員と大臣を歴任する小野清子選手は、東京オリンピック日本選手団主将の小野喬選手と6年前に結婚し、東京オリンピック当時、既に一男一女のお子さんが居た。小野清子選手は東京オリンピック後、さらに3人のお子さんが産まれ、合計7人の大家族のお母さんとなった。56年も前に現代の日本で女性アスリートが、決まってぶつかる壁を、超えていたことになる。
 
そんな、お姉さん軍団に対し、チェコスロバキアからやって来た美貌の22歳は、観客の目を引いて当然だった。子供だった私にも、お世辞にも美しいとは形容出来なかった、胴長短足の日本ママさん軍団や、手足が長いものの完全に逆三角形の体躯をしたソビエト連邦の選手達とは、別格の輝きが、ベラ・チャスラフスカ選手にはあった。
その上、アーリア人独特の金髪と碧眼は、余計に観衆、特に男性の目を引いた。
 
東西冷戦真っ只中だった1964年、しかも、特定の日本人にとっては、ソビエト連邦の選手は、ただでさえ好まざる視線を浴びせていた。かくいう私も、シベリア抑留で弟を失っていた祖父から、当時のソビエト連邦に対し、よからぬ話ばかりを聴かせられていた。
そのせいかも知れないが、強国ソビエトにただ一人対抗する美貌のチェコスロバキア選手に対し、一層の声援が送られていた。
スポーツには、ホームタウンディシジョンがつきものだ。開催地の選手に対し、どうしても有利な判定が下ることが多い。しかも、体操の様な採点競技ではなおさらなことだ。多分、ソビエト連邦の選手達は、完全なアウェーの中で不利な戦いを強いられていたのだろう。
実際、ソビエト連邦の選手の演技は、跳馬でのジャンプ力や段違い平行棒・床での旋回スピードは、圧倒的にまさっていたと記憶している。
それでも、ベラ・チャスラフスカ選手は、得意の平均台と跳馬で高得点を叩き出し、個人総合の金メダルを獲得した。種目別でも、平均台と跳馬で金メダルに輝いた。
そして、彼女以外にめぼしい選手が居ない中、団体総合でソビエト連邦に次ぐ銀メダルにチェコスロバキアを引き上げた。
 
ベラ・チャスラフスカ選手は、現代の選手と比べるとグラマラスで、芸術作品のモデルに近い体型だった。身長160cm体重55kgと、公式記録には残っている。今なら、格闘技系の競技選手に近いその数値は、その豊満なバストに現れていた。だから、余計に記憶に残る美しさだったと言ってしまうとそれまでだが、コマネチ以降の細身一辺倒な選手ばかりになってしまった体操界において、最後の人間的・芸術的美しさを表現した選手だったと思う。
 
『東京の恋人』と呼ばれたベラ・チャスラフスカ選手だが、彼女に対する記憶は、次のオリンピック・メキシコ大会の方が強く残っている。それは、私自身が小学校の高学年に成っていたこともあるが、1968年当時の国際ニュースで、彼女の名前を聞いたことに始まる。
1968年にチェコスロバキアで、『プラハの春』と呼ばれる社会運動が起こった。ソビエト連邦の配下として、東側の共産党国家だったチェコスロバキアだったが、社会の雰囲気は比較的自由で、言論の自由が緩やかだった。その上、同年1月に事実上の検閲廃止により、一層の自由を国民は手にしたものと思われていた。
ところが、検閲廃止を良しとしないソビエト連邦の共産党が、軍隊をチェコスロバキアに送り込んだ。このニュースが、日本でも連日ニュースで取り上げられていたのだった。当時の日本でも、小規模ながら学生や労働組合によるストライキや騒乱事件があったが、それを鎮圧するのは機動隊(警察機構)だ。しかし、遠くの東欧では、軍隊、それも他国の軍隊が介入して来ていた。
デモをしている一般国民に対し、銃を向ける兵隊や群衆を退散させる為に、猛スピードで街中を走り回る戦車(しかも、ソ連の)を見て、日本では想像も付かないことだと、子供心に思ったものだ。
 
そんな中、『二千語宣言』なる自由を求める一般市民の意見書が出された。『二千語宣言』は、一週間足らずで3万人もの一般市民が署名した。それ程の支持が有った訳だ。
ところが、ソビエト連邦共産党幹部は、そうした空気が東欧圏に広がるのを恐れ、『二千語宣言』を反革命的と弾圧した。ソビエト連邦の戦車が街を行き交う中、『二千語宣言』に署名した有名人探しが始まった。
私が気になったのは、有名人の中に、東京オリンピックで心ときめかせたベラ・チャスラフスカ選手の名が有ったことだ。その秋には、オリンピックメキシコ大会が迫っていた。果たして、彼女は無事出場できるのか不安だった。
 
ベラ・チャスラフスカ選手は、ソビエト連邦共産党による迫害を早期に逃れ、夏前にはアメリカへ出国していたことを、私は後日知った。当時の国際情報は、その程度だった。日本の多くの観衆は、オリンピック・メキシコ大会の開会式に、ベラ・チャスラフスカ選手のあることを確認して、一斉に安堵したものだ。
今回調べたところでは、正式に母国からの出国がソビエト連邦共産党に認められたのは、オリンピック直前のことだった。ところが当の本人は、すでに出国しアメリカの山奥で、誰にも見付からない様にトレーニングしていたそうだ。正式の器具で練習出来なかったベラ・チャスラフスカ選手は、準備不足は否めなかった。
自分を迫害する勢力に抗議を示す為、本来の赤色(共産党の指導らしい)ではなく濃紺のレオタードに身を包んだベラ・チャスラフスカ選手は、前回の東京大会とは違い若手へ世代交代したソビエト連邦選手団に対し、圧倒的な力の差を見せ付け個人総合優勝を果たす。東京大会に続く連覇だった。メキシコ大会で、彼女に対抗したのはナタリア・クチンスカヤという、レニグラード(現・サンクトペテルブルグ)出身の19歳だった。この若手ソビエト連邦選手に対し、ベラ・チャスラフスカ選手の演技は、まるで‘小娘をあしらう’様な力強さだったと私は記憶している。
チャスラフスカ選手は、個人総合をはじめ、種目別の段違い平行棒・床・跳馬で金メダルを獲得した。平均台と団体総合は、銀メダルだった。ほぼ、完全な形でも優勝だったといえる活躍だった。
 
東京とメキシコで、合計7個の金メダルと3個の銀メダルを獲得した(他に、1960年のローマで団体総合の銀メダル)ベラ・チャスラフスカ選手は、オリンピック・メキシコ大会以後、選手を引退し表舞台から姿を消した。遠い日本には、何のニュースも来なかった。
彼女の名が、再びマスメディアに載ったのは、1989年のベルリンの壁崩壊以降のことだ。その間の20年余り、ベラ・チャスラフスカ選手はあまり恵まれたとは言えない生活を続けていたそうだ。『二千語宣言』への署名は、それほどまでに彼女に苦労を強いたみたいだ。
 
ベルリンの壁崩壊後、自由を手にしたベラ・チャスラフスカさんは、何度も来日し、2010年には叙勲も受けている。テレビ等にも登場し、東京オリンピックで世話をしてくれた当時の日本人スタッフを訪ねた映像が残されている。
優に60歳を超え、一層グラマラスな体躯に成っていたチャスラフスカさんだったが、恩になった女性に対し見事な開脚を披露していた。美しさとしなやかさは健在だったのだ。
 
56年前、5歳児でもわかる美しさだったベラ・チャスラフスカさんは、2016年に74歳で天に召された。もう一度、東京でもオリンピックを体験する願いは叶わなかった。
 
あと半年に迫った東京オリンピック。
自由を手にした女神の様な美しさのベラ・チャスラフスカさんは、女子体操選手に対しどんな声援を送って下さるのだろう。

 
 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE編集部公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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