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ライティング・ゼミ3周目にして気づいたぼくの過ち

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*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:近藤頌(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
(もうこの監督も下降気味なのかな)
 
とある監督の第3作目を観終わって、ちょっとした溜息をつく。
観客とは勝手なものだと、自身が観客であったのにもかかわらず思うことがある。前々回、たまたま、何の気なしに見始めたものが、これでもかと自分の胸に迫るものであった。だから2作目はあまり期待しないで観に行ったのだ。あまり期待しすぎると、もしその作品が良作だった場合、その期待値があるおかげで受けとれる感動量が半減してしまうのではないかと本能的に恐れたのだ。せっかく同じ料金を払うのだ。感動量は多い方が嬉しい。けれども、そんな心配は無用だった。その監督が中心となって創られた第2作目は、もはや軽々と第1作を序盤から超えていき、あれよあれよと大円団でありながらスマートな着地をしてみせたのだ。
(これはこれは。観させてくださりありがとうございます)
そんな気分だった。
そんな気分を引きずったまま第3作を観てしまった。3年ぶりの感動をもう一度、なんてキャッチコピーを胸裏に隠して、あくまで冷静さを被っての鑑賞は、残念ながら思ったようなものにならなかった。
本当に残念だった。細かいところ、設定や世界観はもちろん、そこに焦点を当ててくるのかというテーマの発掘感もさることながら、そのテーマへのアプローチも独自性が垣間見えていて、相変わらず素敵であることに変わりはないのにどうしたことだろう。この胸に届いてこない感じ。
 
そしてこの、胸に届いてこない感じ。どこか別の、全く別の状況下でぼくは味わったことがあるような気がしていた。そして気づいた。
 
これはライティング・ゼミの課題に取り組んでいる時の気分そのものではないだろうか。
 
ライティング・ゼミとはご存知の通り、週に一回の文章課題提出を軸に置いた天狼院書店主催のこのゼミのことだが、なにを隠そうぼくは今回で3周目の受講に突入している。
いや、もしかしたら他にはもっともう10周近く繰り返している方がいるのかもしれないが、大概はこのライティング・ゼミの上位に当たるゼミ、“ライターズ倶楽部”に入試を通って上がっていくか、辞めていくかであったりする。ライティング・ゼミでは課題の規定字数は2000字前後で内容のテーマも自由だが、“ライターズ倶楽部”になると規定は2倍越えの5000字となりテーマもいくつかに制限されることになっている。
ぼくの1度目のライティング・ゼミ参加は2018年の2月からだった。それから4ヶ月、毎週休むことなく提出できて、その当時の上位ゼミに当たる“ライティング・ゼミプロフェッショナルコース”に同年6月から参加した。それまで、卒業論文といった長い文章を書いてこなかったぼくとしては5000字はとても大変で、でもその大変さは持久走のそれとも似ていて、大変だけれど慣れてくれば気持ちのいいものであった。そんな、気持ちのいい3ヶ月を過ごした。
そして、やめた。
 
やめてから、いろいろあった。
いろいろあって、また始めたい、と思った。
また始めたのは2019年の6月からだった。
2周目だ。
結果は散々だった。
そもそも受講すらしに行かず、通信受講もあきらめ、課題提出率も半分いくかいかないかくらいだっただろう。我ながらどうしようもないと思いつつ、“ライターズ倶楽部”の入試を、なんとなく昔の気持ちよさに惹かれて受けてみたのだったが、なんと受かってしまった。
中途半端にやり過ごした2周目を終えて初めてライターズ倶楽部を受講しに行ってみると、“ライティング・ゼミプロフェッショナルコース”の時に一緒に走っていた方々もいて、なんだか面映かった。「お帰りなさい」と言われて、ぼくは受験したことを後悔した。
それからの3ヶ月は、相変わらず一度も課題にヨシが下るような文章は書けずどうしようもなかった。書いていて、そう、自分の胸にすら届いてこない文章しか書くことができなかった。自分の胸にすら届いてこないのだもの。そりゃ、ヨシが下ってくるわけはなかった。蛇足だと思いつつ、次の期も受講してまた3ヶ月を過ごしてみたけれど、続けていっても、妙な沼地に脚を突っ込んでしまっていて、書くとなっても思うように体が動かない感覚にいつも陥っていた。
 
そして今回3周目。
ライターズ倶楽部はやめて、また一からやり直そうと思ってこの“ライティング・ゼミ”を受けているのだが、相変わらずの沼地感からは脱却できていない。
でも、せっかくまた一から始めるのだからちゃんと講義も受けようと、今のところ第3講まで無遅刻で受けられているのだが、その第3講でのワークショップで取りあげられていた文章を読んで思ったのだ。
 
なんて楽しそうに文章を書いているんだろう。
 
そこには読んでもらえることを当たり前に思っていない姿勢とでもいうべき筋力が、ありありと体現されていたのだ。ぼくはこのワークショップを前にも受けたことがあったはずだが、その時より幾段もの衝撃を受けた。そして、そうかと自身を振り返った。
そうだったのだ。ぼくは2周目以降、ずっと楽しもうとして文章を書いてこなかったのだ。ずっと、いろいろあったことを引きずり続けるための体力を養うため、健康、健全な精神を取り戻すためにずっと書いてきていたのだ。
ぼくはそれを一番の目的にしていた。
ドロドロと湧いてくるものを、たった一人にでもいいから他人に見せることでの憂さ晴らし。日記に書くだけでは収まらなくなってしまった悪臭に耐えかねて、フィードバックを担当してくださっているスタッフの方を巻き込んでの治療とでもしていたのだ。ぼくにとってその頃のライティング・ゼミは、月謝を払っていく精神科そのものだった。
 
でも、そのやり方ではもうこの沼地からは脚を引き出せないことがハッキリしてしまったのだ。
確かに書くことで気が休まることは大いにある。癒されもするだろう。
でも今回の講義を受けて、その段階からちょっと動いてみてもきっとしんどくはならないだろうと思えてきているのだ。
今度はそう、楽しむために書く段階へと移行を始めていける気がするのだ。
もちろんこの「楽しむ」というのはただ楽しむというのではない。“猛烈”に楽しむのだ。
スポーツの世界でも、試合に勝てるようになってからの方が追求したい事柄が見えてくるものであろうし、そうなるまでにも言わずもがな鍛錬が必要だろう。そうして楽しんでよろしくやっている人というのには周りも自然と目が向いてしまって、全く知りもしない人なのに、その様に心動かされもするのだ。かの孔子さんも「楽しむ者には勝てない」とのお言葉を残していらっしゃった。むしろこのぼくも1周目の頃はそれこそ楽しめるように奮闘していたのだ。
 
無論その頃にはもう戻れない。
けれども戻れないからこそできる楽しみ方があるのかもしれない。
まずは楽しんでいいのだと自分を許してあげること。
そうすることで、付きまとってくる小難しいことと向き合う余力が生まれてくるのかもしれない。
 
そう思うことでしか今は自分に勝てそうにないけれど、負けた自分とも手を取り合って、二人三脚の遅々とした歩みもさほど悪いものじゃないかもしれないな、なんてライティング・ゼミのおかげで思えている。
 
 
 
 
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2020-03-21 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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