親知らずと中年の恩返し
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記事:渡辺まほ (ライティング・ゼミ平日コース)
「はい、もう少し削ります」
ざりざりざり。
削る音。鉛筆削りではない。やすりをかけるような音。
音がやむ。
「はい、抵抗ありますよ」
ぐんっ
すごい力で引っ張られる。
器具が滑ってゴリっとぶつかる音。
また、ぐんっ と引っ張られる。
そのたびに、ガクンとする顎。
(先生、あご押さえてもらえばいいのに)
ゴリッ
だいぶ苦戦している模様だ。
私の目は布で覆われていて、先生の顔は見えない。
大口開けた間抜けな顔を見られないのはラッキーと思っていた私。
今は先生の方が、私に顔を見られずよかったと思っているかも。
若い先生のことだ、きっと必死の形相で対峙しているに違いない。
(だいぶ、時間かかってるなあ。そろそろ私の顎も疲れてきたよ)
私は、左下の肉塊に埋まっている、親知らずを抜いていた。
私の親知らずは、すでに3本抜かれている。
最初の1本は今から約20年前、19歳だったと思う。
当時のかかりつけの歯科医院でレントゲンを撮ると、立派な親知らずが4本埋まっていた。
下の2本は両方とも上向きに生えそうにないことが分かった。
そのうち右下の親知らずは、いままさに斜めに生えようと、その前の第二大臼歯を圧迫していた。
当時、かかっていた田中先生に抜いたほうがよいと言われた。その歯科医院には口腔外科の先生はおらず、国立病院の口腔外科に紹介状を書いてくれた。
田中先生は少し困った顔をしながら、
「その先生ね、怖いっていう人が多いんだけど、不愛想なだけだから。腕はいいから大丈夫」
と仰った。
そして後日、一人で車を運転して初めて国立病院へ行った。
古びた病棟の口腔外科。
受付を済ませ呼び出され、暗い廊下を抜け、四角いすりガラスの入った木製のドアをギギーっとあける。
たくさんの器具がおかれた暗い研究室のような場所、窓から光が差し込んでいる。
ベートーヴェン?
白髪交じりだがボリューム感のある髪、がっしりとした体に白衣をまとい、鋭い眼光に結ばれた口、いかにも気難しそうに見える50代くらいの男性の先生が静かに座っておられた。
うん、確かに怖そう……
持って行った口腔レントゲン写真を、蛍光灯の光で白くひかるガラス板に張り付けてジーッと眺める先生。
抜く予定の親知らずの下を指しながら、
「ここに太い神経が通っている。もし親知らずを抜くと神経に触って麻痺が残るかもしれない。それでも君はいいか? 私は抜かなくてもいいと思う」
と低い声で言った。
抜きに来たのに、抜かなくてもいいなんて言われても……
ただでさえ、怖いと言われてきた先生に、若造の私が対峙するだけでもドキドキしているのに。
当初の目的を達する必要はないと言われてしまった。
麻痺が残るかも? そんな話は田中先生もしていた。
だが、改めて言われると、ドキリとした。
でもこのまま帰ったとして、紹介状まで書いてくれた田中先生になんて説明する?
今であれば、そこで抜かなくてもいい理由をきちんと聞けばよかったと思うが、20歳に満たない私には恐れ多くてできなかった。
何より私は、これまで大人の言うことを素直に聞きすぎて生きてきていた。
大の大人を前にして、一人の人間として何かを決断するという経験があまりにも不足していた。
さあどうする? 私。
何しに来た、私。
「……抜いてください」
とてもじゃないけど、自信をもって言えず、ぼそっとつぶやくように答えた。
先生はそれ以上何も説明しなかった。ただ、私の決断を受け入れてくれた。
私は診察台に座った。
歯科助手は誰もいない。先生は黙々と準備をしている。
巨人の腕のようなライトを私の口元に引き寄せ、顔に光が当たる。
暗い診察室に、白熱球の黄色い光だけがぽぉっと浮かんでいた。
口を開け、麻酔を打つ。
改造されるのではないかという雰囲気のある診察室、ドキドキしていた。
しばらくしてから肉を切り開いて埋まった歯をむき出しにし、歯をわって抜かれたようだった。
およそ15分程度だったと思う。
腕がよいというのは本当だった。
心底安堵した。
その後の記憶は、すでに帰宅後の記憶しかなく、怖そうなその先生の名前を私は覚えていない。
若い私の自信のない希望を、ご自身の提案を私に押し付けることなく黙って受け止めてくれたこと。
深い自然を静かに抱えている山のようだった。
壮年の大人とはそういうものなのだと思った。
「ちょっと、休憩しましょう」
先生がそういって、別の患者さんのところへ行った。
(ふー、助かった。顎が限界だわ)
こちらの先生はずいぶんと若い。20代、いっても30歳くらいだろうか?
あの時の先生に比べたら経験の差は歴然だろう。
実をいうと、担当が若い先生で一抹の不安があった。
でも、誰もが最初は未熟だ。熟練工になるには経験が必要。
あの時、私の未熟な決断を受け入れてくれたあの先生のように、私もどっしりと構えるのだ。
「はい、では再開しましょうか」
先生が戻ってきた。
格闘すること、さらに十数分。
「よしっ!」
先生が、小さい声だったが、力強く言った。
(抜けた。よかった)
「はい、今抜けましたからね。あと根っこを取り除きますね」
ぽろぽろっと根っこを抜いて、無事終了した。
「はい、お疲れさまでした。すみません、だいぶ時間がかかってしまいまして」
時間は11時15分。10時の予約だったから1時間ほど格闘していた。
こうして無事最後の親知らずは抜け、先生の経験値が一つ増えた。
私は今年で40歳になった。もう中年だ。
これからは若い世代の人たちのことを、どっしりと受け止めてあげる側になろうと思う。
今までそうしてくれた人生の先輩方への恩返しの心をこめて。
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