アルゼンチンで徳光和夫になりかけた話
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記事:松本初穂子(ライティング・ゼミ平日コース)
学生証を渡すと、男性警察官はチラリとわたしをみた。祈るような気持ちで彼をみるわたしは、70kmを夜通し歩くことを覚悟していた。
こうなったのはアルゼンチンという国をなめていたせいだ。ホームステイしながら旅をしていたわたしは、その日街へ買い物に出かけていた。ホームステイ先はインターネットや電気がなく、周囲に商店などもない。そんな陸の孤島のような場所から70km離れた街に行くのは簡単ではなかった。行きはヒッチハイク、帰りは午後4時か5時の長距離バスだけ。行きは簡単だった。30分くらいでヒッチハイクでき、昼前には街に到着できた。わたしは久々の買い物と「アルゼンチンのスイス」として有名な街並みを楽しんだ。
気づくと午後3時。そろそろ帰りのバスに乗るため、ターミナルに向かわなければ。その途中、地元のおじさんと仲良くなり一緒に向かった。ターミナルに到着し、おじさんと別れ、4時出発のバスチケットを買いに行く。窓口のギャルっぽいお姉さんに行先を伝えると「400ペソ。あとパスポート」と冷たく言われた。え、パスポート……? バスのチケット、しかも国内移動なのにパスポートが必要なわけない。そう思ってもう一度行先を伝えると、彼女はめんどくさそうに「わかったから早くパスポート」と言い放つ。……パスポートは、家だ。途方に暮れているとさっき出会ったおじさんが心配そうにやってきてくれた。そうだ、彼は身分証を持っているに違いない。代わりに買ってもらおう! そうひらめき、事情を説明しておじさんにチケットを買ってもらった。安心してバスを待っていると、おじさんが丸い包みをくれる。アルファホル。ミルクジャムが入ったチョコレートだ。甘ったるいミルクジャムがあまり好きではないので、お礼をしてポケットにいれておいた。
午後4時。長距離バスがやってくる。おじさんにさよならをし、無事ホームステイ先に帰る……はずだった。乗車拒否されるまでは。チケットに記載された名前と年齢、そして性別が一致しないことは誰がみても明らかだ。「身元がわからない人は乗せられない。法律で決まってるんだ」とドライバーは申し訳なさそうに言う。お、おわった……このとき私は70kmを歩くことを覚悟した。70歳の徳光和夫だって100kmちかく走ったんだ。25歳のわたしが70km歩けないはずはない。夜通しは不安だけど、たぶん熊や狼はいないだろう……そんなことを考えていると「とりあえず窓口に戻ろう」と言われ、ドライバーに付いて行った。
窓口ではあのお姉さんとバスターミナルの責任者、警備員が何やら話していた。胃がきゅっと締め付けられる。身分詐称で連行されるかもしれない……絶望的な気持ちでいると責任者のおじさんが「いまから警察に行って、身分証明証をもらってくれば5時のバスに乗れる」と伝えてきた。このとき4時半。あと30分しかない。「警察、どこ……?」とつたないスペイン語で聞くと「車で10分のところだ」という。終わった。頭のなかでサライが流れ始める。絶対5時のバスに間に合わない。歩こう……徳光和夫になるんだ……そう覚悟を決めていると、奇跡が起こった。ターミナルで物売りをしているお兄さんが車で警察に連れて行ってくれるという。「知らないひとに付いていってはいけません」という標語が頭をよぎるも、これを逃したらあとがない。「急げ!」というお兄さんとダッシュで車に乗り込んだ。車線も信号も無視し、120kmの超スピード運転のおかげですぐに到着できた。あとは身分証をもらうだけ。このとき4時40分。
「なにか名前のわかるものはあるか」という男性警察官に学生証を渡すと、彼は淡々とパソコンに情報を打ち込み、A4一枚を印刷し、サインをして渡してきた。証明書らしい。「ありがとう!!」と言ってすぐさまお兄さんとターミナルに戻る。4時55分。ギリギリセーフ。お兄さんは満面の笑みで「ほらみろ、取ってきたよ!」と証明書を受付のお姉さんや責任者のおじさんに見せびらかしていた。呆れたように笑っているお姉さんから新しいチケットをもらい、無事バスに乗り込む。午後5時、無事に出発した。ふかふかのシートに身体をゆだね、この2時間を思い返しているとお腹が空いていることに気がついた。そういえば……ポケットから丸い包みを探り出す。少しかじると、溶けたチョコレートと甘いミルクジャムが全身に染み渡った。空腹も満たされ外に目をやると、夕陽が岩山と草原を照らしていた。いつまでも続くアルゼンチンの雄大な自然。ふと、歩くのも悪くなかったな……なんて思うのだった。
***
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