名前を呼ばない夫とダイバーシティ
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記事:三木 幸枝(ライティング・ゼミ通信限定コース)
うちの夫は大変ユニークだ。私とは違う感性や価値観を持っている。
夫は最近、きゅうりの酢の物にはまっている。家庭菜園で手塩をかけて育てたきゅうりを、自ら調理する。
夫から乞われ、作り方を教えたときは衝撃であった。
「薄切りにしたきゅうりに塩をするよ。しばらくしたら水分が出てくるからね」と言うと、
「なるほど、浸透圧やな」と。
……浸透圧! 遙か昔に習った記憶。しかし、きゅうりの酢の物をつくるときに浸透圧と意識してやったことはない。そうだよ、夫よ、浸透圧だね。
「しばらくおいたら、両手でぎゅっと絞って水を切るよ」
「なるほど、調味料を染み込ませるために、細胞壁を壊す作業やな」
……細胞壁。確かに。私には中学の理科以来の単語……。
きゅうりの酢の物という対象は同じなのに、理系の夫が頭に思い浮かべることは、私と全く違っている。
ジブリの名作、「魔女の宅急便」のトンボ少年。
名前の由来? めがねかけてるし、空を飛びたがっているから、昆虫のトンボからでしょう、と自信満々の私。
しかし、夫は違っていた。
「冥王星のトンボーでしょ?」と。
はて? 聞いてみると、冥王星の発見者であるクラウド・ドンボーが由来だと思っているそう。「トンボくん、学者っぽいから」
はなから昆虫のトンボは浮かびもしなかったらしい。へー! そうくるか。
でも夫よ。たぶん日本の99.99%の人が昆虫のトンボからと思っているよ。
自分と感覚が違う夫の言動は、とても刺激的で興味深い。
感覚先行の文系の私と、理論派でエビデンスを大切にする理系の夫。
自分の知っていることをシェアし合ったり、苦手なことをフォローし合ったり。得意分野は違うけど、夫と私はとても良いチームだ。
しかし、ただ一つ、私がずっと気になっていることがある。
夫は私の名前を呼ばない。
いわゆる昭和の頑固親父のように、妻のことを「おい!」などと呼ぶのではない。
「なあなあ」とか「ちょっと」などでなんとなくごまかしている。
おつきあいし始めたころ、お互いのことを何と呼び合うかという話になった。私は自分の下の名前で呼んで欲しいと伝えた。しかし、彼は私と目を合わせようとしない。そして、首を横に振った。
呼べないらしい。ほかの呼び方も全てだめ。
理由は「恥ずかしいから」。
はぁ? と私は思った。
恋人同士の甘い時間は、お互いの名前を呼び交わすところからはじまるんじゃないのかよ!
一緒に住み始め、子どももできた。しかし未だに、夫は私の名前を呼ばない。
私の名前を呼ばねばならないシチュエーションは、当然だけど毎日頻回にある。しかし、なんとなくのらりくらりとやり過ごしている。
子どもに対しては「お母さん」、外では「妻」など、私のことを属性で説明はするものの、
夫は属性を取っ払った私単体のことを、呼べない。
それが気に入らない私は、語気強めにたびたび詰め寄る。
『“It(それ)”と呼ばれた子』(母親に人間扱いされず、虐待を受けた体験を綴った本である)っていう本知ってる? とか、
ビジネス書にも、名前を覚えて呼ぶことが基本って書いてあったよ! とか、
地震が起きて、私がどこかで瓦礫の下敷きになったら、どんなふうに私の居場所を探すの??? (涙目)
などなど。
私が責めるたび、夫は、やっぱり困った顔をして首を横に振るのだった。
名前を呼ぶなんてとても簡単だと思うのに、夫にとってはそうではないらしい。
当たり前だけど、育ってきた環境が違う人と生活を共にするって、面食らうことも多く大変だ。それぞれの思いを持ち寄って、すりあわせていかなければならない。
結婚して10数年が過ぎた。その間、いろんな違いを互いにすりあわせながらやってきた。すんなり馴染めるものもあったし、時間を要するものもあった。
しかし、「名前呼べない問題」は膠着したまま。
……けれど、不思議なことに、近年だんだんと気にならなくなってきたのだ。
あれほど悲しくて悔しいと思っていたのに。
私が名前にこだわっていたのは、名前を呼ぶこと=存在を認めること、と思っていたからだ。
しかし、日々の生活を重ねていくなかで、名前を呼ばなくても、夫が私の存在を認め大切に思ってくれていることはひしひしと感じるようになった。
名前を呼ばない=存在を認めていない、という考え一辺倒だったのに、そうでない人もいる、という新しい価値観が、いつの間にか、私のなかに芽生えていることに改めて気づく。
たぶんこの先も、夫は私の名前を呼ばないだろう。でも、それも夫の個性で、私の好きな夫の一部だ。
さっき、夫が「あのー」と言った。
部屋には私と夫、それからほかの人もいたけれど、今の「あのー」は私に対してのものだとピン! と気づく。おもんぱかる能力も、自然に高められるものなのだな。
異なる感性や個性を持つ人たちと、お互いを尊重しながら暮らす。家庭は社会の縮図である。そして、ちょっと大げさかもしれないけれど、ダイバーシティの豊かさが、私の家庭内にもある。
結婚するなら「価値観や感覚のぴったり合う人!」という人もいるだろう。でも、半分くらい合って、半分くらい違う人をおすすめしたい。
自分と違う価値観や感覚を受け入れることは、自分自身を、より豊かに、より深くするよ。多様性の醍醐味を、ぜひ味わって欲しい。
***
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