2人だけのタイムカプセル
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:めいり(ライティング・ゼミ通信限定コース)
「じゃーん! 今日はチョコレートケーキにしてみましたー!」
お皿に乗ったケーキを倒さないよう慎重な足取りで、彼女は部屋に戻ってきた。長めの前髪をピンで留めているこの子は、私が家庭教師をしている高校2年生の女の子だ。
休憩になると部屋を飛び出し、おやつにケーキを出してくれる。甘い物が大好きなこの家族は、お父さんとお母さん、そして彼女の3人で暮らしていた。
大学生の頃、私は彼女のお母さんと同じパン屋で働いていた。一人暮らしの寂しさを紛らわそうと始めたパン屋のアルバイト。彼女のお母さんは私にレジ打ちを教えてくれた人だった。たまたま帰る時間が重なったあの日、ひとり娘の家庭教師をお願いしたいと言われたのが始まりだった。
学力に自信がなかった私は、数学と英語の予習はかかさなかった。知り合いとはいえ、お金をいただくのである。その価値に見合う内容を提供しなければ、と責任を感じていた。
「この問題解ける? もうすぐテストって言ってたやんね」
「この漫画おもしろいねん。読む?」
ところが、肝心の彼女は全くペンを握ろうとしない。2週間に一度、1回90分でお願いされた家庭教師の時間は、そのほとんどが彼女とのお喋りで過ぎていった。
マンガのどのキャラクターが好きとか、ゲームはこうすると上手くクリアできるよとか、話題はいつも彼女の好きなことでいっぱいだった。
「あかん。今日も全然勉強できひんかったやん」
自転車で15分の帰り道は私のひとり反省会だった。
期末テストが終わった。塾のアルバイトをしている友人から「間違った部分の復習が大事」と聞いた私は赤色のボールペンを取り出し、テストの復習をしようと声をかけた。
「ところで英語と数学、何点やったん? これ出るよって言った問題出た?」
彼女はテストの点数は忘れたと言い、ケーキを取りに部屋を出ていってしまった。
何も家庭教師らしきことができない自分に焦る。パン屋で品出しをしている時、彼女のお母さんに聞いた。
「テストどうでした? 私と勉強するの嫌みたいで……」
「テストの点は気にしなくていいんよ。今みたいな感じで気軽に来てくれたらええから」
気持ち程度とは言え、お金をいただくことが本当に申し訳ない。何もできない自分が悲しい。テストの結果も教えてもらえず、今の感じでいいとは。私は胸が苦しかった。
家庭教師を始めて半年が過ぎた頃、彼女は高校3年生になった。受験の年だ。私は与えられたこの不思議な役割を継続するか悩んでいた。
今日も彼女の家に向かう。自転車のペダルが重い。
インターホンを押すとお母さんが出てくれた。彼女は進路指導で遅くなると言われ、リビングに通された。
出されたケーキを食べる。本当にこの家族は甘い物が大好きなんだなと思いながら、フォークを刺した時だった。
「私ね、乳がんなんよ」
刺さったフォークを持ち上げることができなかった。
「一応完治してるんやけどね、いつ再発するか分からんみたいで。普通、親には言えへんことって兄弟なら話せたりすると思うんやけど、あの子一人っ子やん?それで話し相手というかお姉ちゃんみたいな人おったらいいなと思ってお願いしたんよね。家庭教師って言えば引き受けてくれるかなと思って。いつもあの子の話をちゃんと聞いてくれてありがとうね」
ドキドキする。こめかみが波打つ。私は何も言えなかった。
ほどなくして、彼女は最速のAO入試で専門学校への進学が決まった。
合格した彼女はアルバイトを始めた。私の家庭教師はだんだんと間隔が空き、気が付くと彼女の家には行かなくなっていた。特に区切りもなく、私の家庭教師は終わった。同時にパン屋のアルバイトも辞めてしまった。お母さんとはたまにメールをしたけれど、彼女との関わりはプツンと切れた。
彼女には新しい世界が待っている。私も彼女のことを思い出す機会は減っていった。
元号は変わり、あれからちょうど10年が過ぎた。
突然受信したメールの差出人は懐かしい名前だった。
「お元気ですか? 結婚しました」
添えられた写真は「結婚おめでとう」と書かれた可愛いホールケーキだった。
メールの続きにはこう書いてあった。彼女が高校生だった当時は、お母さんの乳がんが再発してまた入院したらどうしようと毎日不安だったこと。好きなことを話せる人がいなくて寂しかったこと。私が来る日が待ち遠しかったこと。ケーキを一緒に食べられるのが嬉しかったこと。私が来た時はうんと楽しくお喋りしたいと思っていたこと。苦手な勉強は私が来ない日に毎日コツコツがんばっていたこと。そしてお姉ちゃんがいたらこんな感じだと思ってくれていたこと。
最後の一文はこうだった。
「私の家庭教師になってくれてありがとう、ってちゃんと言えなかったことがずっと心残りでした」
彼女の素直な文は、私に当時の記憶を思い出させてくれた。
胸がいっぱいになる、とはきっとこんな気持ちなんだと思う。
あの時言えなかった言葉は、いつかまた言葉にして届ければいいのだ。
たとえ時間が経ってしまっても、相手はちゃんと受け取ってくれる。
いつだって伝えたいと思った時に、伝えることが大切なのかもしれない。
10年経って彼女はそんなことを教えてくれた。懐かしいだけではない。彼女の笑った顔や、自分の葛藤、お母さんから聞いた言葉、自分にできることは何かを考えた時間。
彼女からのメールは、開けるとあの頃の気持ちを思い出させてくれる、まるで私たち2人だけのタイムカプセルのようだった。
「結婚おめでとう。いつでもお姉ちゃんやからね」
私はメールを送信した。
いつかまたチョコレートケーキを食べながら、好きなことをたくさん聞かせてほしい。
どんなことに笑い、何が楽しいのか、彼女の言葉で聞いてみたい。
そして今度は一緒に記憶のタイムカプセルを開けよう。あの時言えなかったありがとうが入った2人だけの思い出のタイムカプセルを。
***
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