メディアグランプリ

犬好きの喪失感と灯台


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記事:樹里(ライティング・ゼミ日曜コース)
 
 
わたしは灯台のあかりに気づいた。わたしの犬は灯台だった。命は炎に例えられやすい。映画「ハウルの動く城」の世界を観客はすとんと受け入れた。それに死が暗闇のイメージと親和性があるから、生は明るさに置き換えられやすい。生死とあかりの比喩についての話をこれから展開することもできるだろう。それでもわたしは、犬の態度としての、灯台のあかりの話をしたい。そして灯台のあかりが消えた話をしたい。
犬が亡くなったのを知ったのは、仕事終わりの電車の中だった。電車の中で犬の顔のイメージは走馬灯のように浮かんだ。突然のことではなかった。犬は年を重ねてゆっくりと弱っていた。犬には表情がある。犬は激しい運動のあとで呼吸のために口を開くが、その顔は満面の笑みを湛えているように見える。お腹の調子が悪ければ目の力が無くなり、悲しげな顔をする。電車の中で思い出した犬の顔が笑い顔ばかりだったので可笑しくなった。犬の死は大きなショックではなく静かに体に広がるものだった。
思い返すと、犬はいつもそんな性質の感情をわたしに与えていた。そして犬の表情の変化は人間よりずっと穏やかで、本当のところは解らないが、犬の感情は穏やかに見えた。力強く吠えることもよくあったが、吠える理由はいつもシンプルで、吠えるという行為をするためのエネルギーは湧き上がって然るべきものに思えるのだった。玄関のインターホンや花火の音がスイッチなら、電流は流れない方が不自然で、犬が吠えるのは自然だった。同じように犬は、スイッチのようにわたしに感情を与えた。
日常生活では、スイッチを押しても作動しないようにする感情のコントロールを強いられる。そのコントロールは苦労してできるようにするものばかりではない。コールセンターでのアルバイト経験で、言葉が届かない虚しさや伝えたいことが伝わった嬉しさを声に乗せない技術を学んだのだが、それは苦労してできるようにしたコントロールと言えるだろう。簡単にできるコントロールとは、通勤電車の中で至近距離にいる人が気にならないような時に効いているものだ。人は自然に湧き上がる感情をほとんど無意識的に抑えることができる。
自然に湧き上がる感情を大切にすることを、わたしは犬から学んだ。犬が笑えば嬉しく、犬が悲しげなら心配になった。風が冷たく体に当たる港でも人を穏やかにさせる存在、物との距離を確認させる存在、この時点での灯台と犬の共通点はそんなところか。
わたしが犬から灯台を連想したのは、犬の視線による。犬を見ると犬は既にこちらを見ていて目が合うことはよくあった。犬が亡くなって犬がこちらを見ている可能性が無くなり、静かに寄せられていた視線が恋しくなった。犬は「わん」や「くーん」を発するのにかける労力が大きいようで、そこまでする必要がないが何か伝えることがある時、視線でものを訴えた。犬はおもちゃが隙間に入り込んで取れない時に、わたしとおもちゃへ交互に視線を送った。わたしの犬はダックスフンドなので、足が短く階段を登るのにかかる負荷が大きいことから、犬に階段を登らせることはせず、犬が二階に登るには抱えられなければいけなかった。犬は日当たりの良い二階が好きだった。犬が階段の下で見上げている時には、二階に行きたいのだなと思って、犬を二階に連れて行った。近づいたり離れたりする物理的な距離と視線によって、親しみや要望を示す犬は、物ごとを複雑に捉えすぎていた思春期のわたしを、空気穴のようにやわらかくした。灯台の光が回ってくるように、ふとした時に背中を押した。
灯台がなくても歩くことができる。船が灯台を頼りにしていることは知っているが、わたしの知る埠頭は夜も明るい。もちろんわたしにとって灯台が命綱ではないのは出港しないからではある。ただ、灯台がかつてはあって今はないとして、心許なさを生むのは、灯台の光がぐるりと回っていたという記憶だ。他者の死が喪失感を与えるのは、生とコントラストが生じるからだろう。喪失感は、かつてあったものの存在の大きさに焦点を当てることによって生じる。喪失感によって得るものはある。
Zoomで相手のカメラがオフになると寂しく感じた。目を合わせて話せないことを寂しいと思ったことがこれまでにどれだけあったか。目を見て話すことの大切さは小学校で先生に教えられることに過ぎなかった。目まぐるしく変わる社会で、いくつもの喪失と向き合う態度を、わたしは犬に教わった。
 
 
 
 
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2020-12-28 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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