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最愛の母のお葬式を演出する方法について

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Ayamiさん

 

記事:Ayami Matsushima(ライティング・ゼミ)

 

私はいくつのときに母を亡くしたのだろう? 母は乳癌だった。今の私とちょうど同じ39歳のときに母の乳癌が見つかった。すぐに手術で癌は摘出された。それから平穏なときが流れた。癌はもう完治したね! と、母も家族も思った矢先の10年後に乳癌が再発して、それから5年の闘病を経て母は亡くなったから、54歳で母は亡くなったことになる。もう、7年も前のことだ。だから、私が母を亡くしたのは、何歳になるのだろう?

私が母を亡くしたときの年齢は、32歳だ。私は、32歳のときに54歳の母を亡くした。2つ年下の妹は30歳だった。親を亡くすには、普通より若かったと思うけれども、まだ親の死が受け入れられないような、子供でもなかった。

当時を思い出してみる。ホスピスの病院ベッドの上に横たわる母はまだ生きていた。しかし、そのとき既に意識は無かった。54歳の母には、まだまだやりたいことがたくさん合っただろう。私は母を悲しみのただ中で見送りたくはなかった。ありがとう、と言ってお別れしたかった。

私は、ケーキを買ってきた。母の好きな苺ショートケーキと、妹の好きなチョコレートムースと、父の好きなモンブランと、私の好きだった母が好きな、苺ショートケーキをもうひとつ、自分用に、母とお揃いで買ってきた。

「お母さんと最後にケーキを食べよう、お母さんの分は、冷蔵庫に入れておくからね」と私は家族に告げて、苺ショートを食べ始めた。母の心拍が、私も食べたいと言っているかのように、一瞬だけ力強くなった。妹も苺ショートが食べたいと言った。しかし私は、それはお母さんのだから、とチョコレートケーキを妹に渡した。「なんでこんなときにケーキを食うんだ」と文句を言った父も、結局、ケーキを食べ始めた。人間、どんなときでも好きなものは食べたいよね。そして、甘いものを食べると、気分が落ち着いて、身も心も満たされてくる。おそらく、ケーキを食べたあたりから、現実的に、母が死んだらお葬式をしなくちゃ、と考え始めたんだと思う。

「喪主様が本葬儀場の会員の場合、会葬費は1割引です」という葬儀場の広告を、父がインターネットで見つけた。でも、まだ母が生きているうちに、お葬式の準備のために会員になりたくはないと父は言った。気持ちはよく理解できる。しかし、妹の「お父さん、何言ってるの、さっさと会員になってよ。」という一声で、我が家の葬儀費用は1割削減できた。

そうこうしているうちに、母は息が止まりそうになって、またゆっくり息をした。祖母も駆けつけて、まわりで家族が見守る中、また息が止まりそうになって、またまたゆっくり息をした。こうして何度かゆっくり呼吸を繰り返して、最後に息をはいて、そして、母は亡くなった。妹と祖母が声を上げてワンワン鳴いた。ひとしきり泣いたあと、看護師さんが「お母さんをお風呂にいれてあげましょうか」と声をかけてくれた。

寝たままで入れるお風呂に母を入れた。体を綺麗にして「お母さんのお化粧道具で、一緒にお化粧してあげましょうか」と看護師さんから言われた。あれっ、化粧品はどこにあるかしら。妹も私も、化粧ポーチを持っていなくて、看護師さんから化粧品をお借りした。看護師さんがお花を母に捧げてくれた。後にして思えば、ホスピスだったから、こういうサービスが行き届いていたのかな。

それからはバタバタだった。お葬式は、残された家族を忙しくさせて、故人を思う悲しみに溺れないためにあるのだと思う。母は自宅が好きだった。お葬式の前に、自宅につれて帰ってあげたい、と妹は言った。自宅の状態を思い出してみる。ここ数日の母の付き添いで、ぐちゃぐちゃのままだ。妹は先発部隊として、祖母と家を片付けに戻り、私は、母を葬儀会社の車で自宅に運べるよう手配した。荷物などをまとめて、慌ただしく病院を後にする。こういうとき、一番頼りにならないのは父だ。男は、いざという時、頼りにならない。

母を自宅に横たえた。祖母から「お母さんの着物をかけてあげなさい」と言われた。おそらく妹や私の結婚式で着るためにあつらえられたのであろう留袖を、そっとかける。一度も着る機会がなくてごめんね。葬儀場の担当の方と、打ち合わせをする。若い女性だった。この担当の方が、母の枕元においていた写真集に目を止めた。最近の母と一緒にとった写真をきれいにレイアウトしたアルバムを、病院の母へのプレゼントのために作っていた。「このアルバムも会場に飾りましょうか?」

私は妹と話した。なんだか、結婚式みたいね。

こうなったら、母が喜ぶようにしよう。会場に流す音楽は、母が好きで一ヶ月くらい前に買ってきた、加藤登紀子が歌うシャンソン。私はタクシーで急いでCDを探しに帰った。葬儀場の入り口には、きれいなキャンドルに囲まれた思い出のアルバム。色が黒であることをのぞけば、結婚式のウェルカムボードみたいだった。お葬式では、私は母との思い出を綴った手紙を読み上げた。入り口のアルバムは、参列者の皆さんに褒めて頂いた。母との思い出を撮りたくて、でも、我が家は日常の写真をとる習慣はなかったから、私は、わざわざ写真教室に通ったのだ。母の写真をとる口実をつくるために。写真教室の宿題だから、と言って私は父も巻き込んでドライブに出かけた。写真集が完成したのは、母が亡くなる一週間前だっただろうか。ぎりぎり、間に合った。良かった。

こうして、お葬式が終わった。私も妹も満足した。母も喜んでくれたんじゃないかしら。私は思った。お葬式は、故人のためではなく、残されたヒトのためのものなんだな。明日から、また頑張ろう。

母とはもう二度とお話できない、新しい日常の始まりだった。

 

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2016-01-13 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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