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本は鮮魚のようなもの

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重冨さん 本は鮮魚

 

記事:重冨剛(ライティング・ゼミ)

 

本は鮮魚のようなものだと思う。

本というのは、読みやすいものではない。たくさんの文字の羅列だ。
それは、食べやすく調理されていない、鮮魚に似ている。
魚料理に例えるなら、一匹まるごとの魚みたいなもの。
それをどう調理するかは、読者の自由。
しかし、これがなかなか難しい。
映画やテレビドラマのように、食べやすく加工されていないのだから仕方ない。

長編であれば、頭と内臓を取り出し、三枚におろして調理する。
取り出した頭と内臓や骨から、いい出汁が出る。
いい本というのは、捨てるところがない。

短編であれば、そのまま揚げても食べられる。丸ごと煮付けにしてもいい。砂糖と醤油で甘辛く煮付ければ佃煮になる。
頭から尻尾の先まで一口で食べられるのが短編の魅力の一つだ。

わたしが読書好きになったのは、中学2年生の夏休みから。

それまでは、あまり本を読むことが好きではなかった。
もう少し正直な言い方をするなら、たくさんの文字を読むことが苦手だった。
2~3ページ読むと、眠くなるのだ。

しかし、本を読むという行為に憧れのようなものがあった。
なんとなく知的で、大人っぽいこと、それが読書のイメージだった。

時間が有り余る中学2年の夏休み、小説というものを読んでみることにした。
何を読んだらいいか分からないわたしは、書店をうろうろ。
平積みされている本が、目にとまった。
帯には「映画化決定!」と大きく書かれていた。
おっ、映画化されるくらいだから面白い本なんだろう。
そう推察し、その本を買うことにした。
記念すべき、小説デビューの本はそういう経緯で購入決定となった。

クーラーの冷風に満たされた部屋で、濃いカルピスを飲みながら、小説というものを読んでみた。
それは、映画化されるだけあって面白い小説だった。登場人物が個性的で、それぞれに悩みを抱えながらも前向きに生きようとしていた。ストーリーはテンポよく流れ、予想を裏切る展開に心が躍った。
本を読み慣れないわたしでも、夏休みの間に読み終えることができた。

わたしが読んだ小説の映画が上映されたとき、もちろん映画館へ行った。
あの小説が、どんな風に映像化されるのか楽しみだった。
映画を観終えて、エンドロールが流れた。

なにか、ちがう。

楽しみにしていたはずの映画。はじめて、原作を読んでから観た映画。
わたしに残ったのは、違和感だった。

そう、なにかが違っていた。
あらすじは小説と同じだった。
でも、同じなのはあらすじだけ。というより、あらすじだけを残して、それ以外はばっさり切り捨てられていた。
魚の粗(アラ)と筋(スジ)だけのような映画だった。

どんなに素材が良くても、料理人が下手だと不味い料理にしかならない。
映画の料理人というのは、脚本家や映画監督のこと。

良い映画とは、小説という鮮魚を上手に料理したものなのだ。

原作の一番美味しいところだけを取り出せば、大トロの刺身になるだろう。
ハリーポッターやスターウォーズだって、もとはとても分厚い長編小説だ。
それを一流の料理人である脚本家や監督が、美味しいところだけを抜き取って、息も切らせぬ展開の映像に仕上げる。
もちろん、それは一つの作品として、極上の料理であることは間違いない。

しかし原作には、本にしかない良さがある。
原作はものすごい量なので、読むのに時間がかかる。巧妙な伏線が幾重にも重なりあり、至ることろに仕込まれている。それを読み解くのは、読書の楽しみだ。

人が加工したものではなく、自分で料理することを覚えたわたしは、それ以来、読書が好きになった。

読書会にも参加するようになった。
一冊の本について、それぞれ自分の感じたことや気づきを語りあう。
同じ本を読んでいるのに、面白いと感じた部分や解釈の仕方は、人それぞれ。
同じ素材でも料理人が違えば、違う料理ができるのが楽しい。
刺身やムニエル、揚げ物に煮付け、お吸物にする人だっている。
読書会では、参加者が自分のお気に入りの本を紹介してくれることもある。
紹介してもらった本を読んでみると、たいがいは面白い本なのだが、ごく稀に、どこが面白いのか理解出来ない本もある。
料理人が違えば、同じ本でも違う味になる。それもまた楽しい。

本との出会いを求めて、書店に立ち寄るのが週末の楽しみだ。
書店というのは魚屋さんのようなもの。
新鮮で美味しい魚を求めて、本棚を眺める。
一流の料理人になった気分で本を選ぶ。
この本をどう料理してやろうかと空想すると腕が鳴る。
中学2年生の頃から比べたら、わたしの本を料理する腕は上達しているはずだ。

わたしはいま、書店の店主が主催するライティングゼミを受講している。
ライティングとは、自分で魚を作りだすことになるだろう。

その魚は、水槽に入れて個人的に鑑賞する魚ではない。
人に美味しく食べてもらうための鮮魚だ。
美味しい鮮魚をつくりだすために、魚屋の大将のゼミを受講しているようなものだ。
そこでは、文章の料理法も学んでいる。
よい文章というのは、どうやって作られているのか。
まず、魚を上手に料理出来なければ、美味しい魚を作りだすことは出来ないということらしい。
文章というのは文字の羅列でしかないけれど、自分なりに読み解くことで味がでる。
わたしの書いた文章を、読んでくれた人が、どう料理し、味わってくれるのか、わたしには分からない。
頭から尻尾の先まで捨てるところなく、すべて味わってもらえるような文章になればいいのだが。
そう思いながら、この文章を書きました。

ここまで読んで下さり、ありがとうございます。
これが、わたしの作った小魚です。
あなたに料理して頂けたら幸いです。

 

***
この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。
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2016-01-29 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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