メディアグランプリ

「うちのアキモトが来ませんでした?」と尋ねられた日のこと


にしべさん

記事:西部直樹(ライティング・ゼミ)

 

 

アパートの共同玄関にはいると、お腹の大きな女性が狭い階段を下りてきていた。

片手でお腹を支え、階段の壁に手をつきながら、ゆっくりと降りてくる。

六畳一間の部屋が並ぶ学生向けの安いアパート。

二階の自室に向かうには、お腹の大きな女性が降りきるのを待つしかなかった。

 

彼女が階段を下りきり、わたしは二階に向かう。二段ほど階段を上ったところで、彼女から声がかかった。

「あの、うちのアキモトのお知り合いですか?」

アキモトは、高校時代の友人の名前だ。

足を止め、振り向いた。

お腹の大きな女性に見覚えはない、が、友人が話していたことを思いだした。

 

 

小さな町の高校を卒業後、友人は札幌の会社に就職し、わたしも札幌の小さな大学に進学した。

新しい生活が少し落ち着いた頃、札幌に出てきた友人同士で集まった。

その時、彼は少しテレと自慢を織り交ぜながら、

「最近、モテてなあ、ちょっと年上の女性といい感じなんだ」と語っていた。

 

わたしはまだ新しい生活に慣れることなく、大学生活を楽しむ余裕すらなかった。

学生に比べ仕事をしている友人は、もうずいぶん先を行っているように思えたものだ。

さらに彼女まで、しかも年上、いい感じ、どういうことなんだ!

彼女との馴れ初め、彼女の献身、彼女の……を聞き、

少し憤りすら感じながら、

「へへ、いい感じなんだあ」と軽く受け流したものだ。

 

その時の彼女なのか。

「うちの~」と彼女はいった。

大きなお腹をいま一度見た。

そういうことなのか。

しかし……

 

「そうですが……」わたしの言葉は尻すぼみになる。友人に何かあったのだろうか?

「アキモトが来ませんでした? 友達のところかなと思って」彼女は、首筋に吹き出た汗を拭う。

大きなお腹を抱え、歩くのは大変だろう。

アキモトの住んでいたところは、わたしのところからかなり離れたところだ。

 

「いや、最近は会ってないですね」

数ヶ月の間、彼とは会っていなかった。

 

「そうですか」

彼女はうなだれ、大きなお腹をさすり、玄関で靴を履くと、足早に去っていった。

次の心当たりで、アキモトの消息を聞くのだろうか?

 

わたしは彼女を見送ると、そそくさと自室に入った。

アキモトはどうしたのだろう。

少し考えたが、どうしようもない。

わたしが学生の頃は、今のように携帯も、ネットもない時代である。

あるのは公衆電話と家の電話。アパートには一台の共同電話があるだけだ。

気軽に友人たちに電話をして、消息を聞くことはできなかった。

 

数ヶ月後、再び友人たちとあったとき

アキモトのことが話題になった。

「どうしたんだ? 彼女が来たよ、アキモトはいないかって」

「俺のところにも」

「俺も」

同じ会社に勤めていたサカガミが、

「あいつ、逃げたんだ」とぽつりと言った。

 

アキモトは失踪していた。

彼女とつきあい始めた頃に、会社の寮を出て、彼女と同棲したようだ。

そして、彼女のお腹が大きく鳴り始めた頃、彼はいなくなった。

会社を無断欠勤していたので、彼女とのアパートに行くと、彼はいなかった。

彼女は、アキモトの行方を捜していたのだ。

 

 

アキモトはどこへ行ったのだ。

二十歳そこそこのわたしは、ことの成り行きをうまく理解できず、苦い酒を飲むしかなかった。

 

 

その事件から数ヶ月後、わたしの身辺にも変化があった。

彼女が出来たのだ。

そして、彼女が出来て、数ヶ月後の夜のことだ。

 

小さなアパートの一室で、二人で寛いでいたとき

彼女はさり気なくこういったのである

「私、今月来ていないんだ……」と。

「仕送り?」

わたしの脳天気な応えに、彼女は少し声を落として言ったものだ。

 

「でなくて、女性の毎月のアレ」

 

脳裏にアキモトの彼女の姿が浮かんだ。

大きなお腹を抱え、階段をゆっくりと降りてくる。

首筋に汗が吹き出ていた。

 

仕送りを受けている身で、そこにさらに子どもの生活費をというのは難しいだろう。

大学をやめて、働くしかないのか。

大学中退で働くとどうなるのか。

アルバイトしかしたことのないわたしには、働くということがうまく想像できない。

ツルハシを振り下ろす自分の姿が浮かんだ。

 

子どもが出来たらこのアパートで暮らすのは、無理だろう。

安アパートを出たら、どこに住めばいいのだろう。

想像と思考が目まぐるしく頭の中を駆け巡る。

 

呆然と宙を見ているわたしに彼女は声をかけてきた

「たぶん、遅れているだけだと思うんだけど」

なんだ、そうなのか、

知らずに安堵の溜息が漏れる。

そして、次の言葉に、気軽な調子で応えたものだ。

「そうかもなあ、そうだよ、ぜったいにそうだよ!」

しかし、最初の言葉になにも返すことの出来なかった自分が、とても惨めだった。

 

それから程なくして、わたしたちは別れることになった。

彼女の体に変化はなく、ただ遅れているだけだったのだが、

彼女の心に変化があったのだ。

 

 

アキモトも、彼女から話を聞いたとき、頭の中は目まぐるしく何かが駆け巡ったのだろう。

 

わたしはうまく言葉を返すことが出来なかった。

学生の身では、その後のことに覚悟はできなかったのだ。

アキモトも、目まぐるしい思考の果て、覚悟にたどり着けなかったのかもしれない。

だから、目の前の大きなお腹をなかったものにしたかったのかもしれない。

大きなお腹をなかったものにするには、それが見えないところに行くしかなかったのだろう。

 

アキモトのその後は、誰も知らない。

 

 

わたしは後年結婚した。

そして、妻から「できたみたいよ」と告げられたとき、

やはり、思考は駆け巡り

たどり着いたのは

「俺が父親か」という感慨だった。

感慨に陶然として、やはりうまく返すことが出来なかった。

 

思いがけない言葉に、咄嗟に返すことが出来ない。

思考は駆け巡る。

うまく返せなければ、逃げるか、黙るかしかない。

これまでの経験をなかなか活かし切れない。

 

そのことで、いまだに妻に叱られる。

せっかく言ったのに、なにも反応してくれなかった、と。

 

やれやれ

 

よし、次の子では、と思う。しかし還暦間近では、それはないな。

ならば、来世だ。

来世ではうまくやってみたい!

 

***
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2016-05-19 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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