メディアグランプリ

レイコさんの鎖


記事:諸星 久美 (ライティング・ゼミ)

ジャリ……ジャリ……ジャリ……。

微かに耳に届く音。

聞き覚えのある、あの音。

なんの音だっけ?

ジャリ……ジャリ……、ジャリ……ジャリ……。

大きくなる音に比例して、胸のざわつきが増していく。

えっと……、う~んと……。

「分かった!」と「ヤバっ」と「来た……」が重なる瞬間、私は身を固くして息を呑む。

姿が見えなくても分かる。

それは、レイコさんの鎖の音だ。

音の気配は、背後からではない。

ならばどこから……、と思案する合間にもその音は近づいてくる。

私は歩みをゆるめ、数メートル先の小路に続く曲がり角に視線を向ける。

ジャリ……ジャリ……ジャリ……。

ジャリ……ジャリ……ジャリ……。

でっ、でた~!

レイコさんだ……。

小路から現れたレイコさんは、私とは逆の方向へ進んで行く。

元の色が分からないほどに薄汚れたシャツ。

長さの半端なスカートに、素足に底の薄い靴といういつもの装いで、ゆっくりと私の前方を歩いていく。

そして、右足首に繋がれた鎖が、その歩調に合わせて耳障りな音を響かせている。

幼い頃からそうなのだが、一旦レイコさんが視界に入ると、それまでの風景は色を変える。

街の景色に不似合いなその風貌に、心が縮み上がり、呼吸が浅くなる。

けれどその反面、私はいつも、レイコさんがまとっている静寂に魅了されるのだ。

その静寂は、街の人々がレイコさんを避けて生まれる特別な空気というよりも、幼い私にとっては、犯してはいけない、神聖なものに映っていたような気がする。

浅い呼吸に比例して凝視する目に力が入り、視界の中心にレイコさんが集約される。

このままの速度で歩いたら、完全にバッティングしてしまう。

鼓動を制しながら、私はレイコさんを抜き去るべきか、距離をキープすべきかと思案する。

ほんの数メートル先なのに、嗅ぎ慣れない匂いが漂ってくる。

水分や油分を含まない髪が、複雑に絡み合ったまま、腰下まで伸びている。

左手に下がる花柄の袋からは、雑草なのか、ネギなのか、判別不能な細長い緑が覗き、右手に下がるスーパーの袋には、はち切れんばかりに、石が詰め込まれているのが透けている。

石袋も右手で、鎖も右のせいか、右に大きく傾いたまま、牛歩ペースで歩くレイコさんはひどく不格好で、そのノロノロとした歩みが、風景や時間を歪ませているような気がしてくる。

私は、持ち手部分が伸びきってしまったスーパーの袋を見つめながら、幼い記憶をたどり始める。

自宅の裏手にある神社には、境内に子どもの遊べる小さな公園があった。

その神社は、母方のおじいちゃんの名が記された鈴緒があったことから、私はおじいちゃん亡き後には、勝手にそこにおじいちゃんが住んでいると思いながら、心を解放できる大切な空間として過ごしていた。

その日も私は、年子の姉と、姉の友だち2人と神社で遊んでいた。

姉の友だちの陽ちゃんが、持参したぬりえをベンチに広げ、サラサラと色鉛筆を走らせる様子を、姉と私と、もう一人の友だち、美奈ちゃんとで覗き込んでいた。

だから、その人が近づいて来ていることに気づかなかったのだ。

姉が「ひっ」と声をあげたのを合図に顔を上げると、鳥居をくぐってこちらに歩いてくる棒のような女の人が見えた。

「帰ろう……、あの人、なんか怖いよ」

そう言って立ち上がった美奈ちゃんと姉に続いて、慌てて帰り支度をする陽ちゃんの後ろから、私はその女の人を見つめた。

違和感という言葉も、浮浪者という存在も知らない私にとって、その人は、「これまでに会ったことのない人」という枠で、一瞬にして、私の中に強烈な印象を刻みつけたのだ。

「見ないのっ。行くよ」

姉に手を引かれ、足早にその人の横を通り過ぎる時、私は、女の人の膨れ上がった足首に絡みつく、錆びて茶色くなった鎖を見つけた。

衝撃を伴うその映像に目が離せなくなった私は、首だけ女の人に向けたまま、姉に手を引かれて家の門をくぐったのだ。

「ねぇ、お母さ~ん。あの人、まだあそこにしゃがんでるよ~。指で、砂に何かかいてるみた~い」

姉は家に入った途端、女の人のことなどすっかり忘れたようにテレビに夢中になっていた

けれど、私はその人のことが気になって仕方がなく、階段途中にある窓から、裏手にある神社を見下ろしては、夕食の準備中の母に向かって、女の人の様子を報告し続けていた。

早く家の傍からいなくなって欲しいな、という思いと、ずっと見ていたいという、不可思議な願望との間で胸をドキドキさせたまま、小一時間ほど、階段を上ったり下りたりして。

空の端に闇が生まれだす頃、女の人は、私たちがいたベンチの脇にしゃがみこみ、袋から取りだした幾つかの石を、地面に積み始めた。

「おかあさ~ん、今度は、石を積んでるみた~い」

「え~? ああ、レイコさんのこと~?」

「レイコさんって言うの~? お母さん、何で知ってるの~?」

薄暗くなった神社の中で、しゃがんで石を積むレイコさんの姿は、瞬きをした瞬間に消えてしまうように儚くて、私は、目を凝らしてレイコさんを見つめ続けた。

階段途中の窓は、背伸びをしなければ届かないことから、次第に足がしびれ、窓の桟にかけた指もしびれていたけれど、数時間前に出会った衝撃に憑りつかれたように、私はそこから離れられずにいた。

階下からみそ汁の匂いが漂ってくると、不意に、レイコさんのいる闇と、私の場所との温度差が浮き彫りになって私を包み込み、私は身震いをしながら、大きな声で母を呼んだ。

「知ってるって程じゃないけど……」

そう言って、母は階段を上がってくると、私の隣に並んで神社を見下ろした。

「レイコさんって名前と、昔はとっても美人だったってことしか知らないよ。火事で、子どもを亡くしてああなったとかって噂は聞いたことがあるけど、本当のことかは分からないのよ。でも、今は、ああしていることが、あの人の生き方なんだから、ほっといてあげなさい」

「いつまであそこにいるんだろ。家、帰らないのかな? それとも、家ないの?」

「家はあるでしょうよ。たぶん」

母は曖昧に答えると、ペタペタと音をたてて階段を降りていった。

神社を通り抜けて行くおじさんが、しゃがんで石を積むレイコさんを見つけて、ぎょっとして肩を上げる姿にクスクスと笑ったり、聞えないと分かっていながらも、小さな声で、「お~い、お~い」と呼んでみたりしているうちに闇が深くなり、レイコさんがその闇の中に同化してしまいそうで、胸がざわりと震えた。

ずっと見ていたかったけれど、母に呼ばれて、しぶしぶ階段を降り、夕飯を食べて、階段窓に戻ると、レイコさんの姿は消えていた。

その日以来、私はレイコさんを探すようになった。

街中でノロノロと歩く人を見つけては、レイコさんじゃないかと目を凝らしてみたし、夕刻になると、階段の窓から神社を見下ろし、また現れるんじゃないか? と期待心を膨らませた。

そして、そんな習慣に飽きて、レイコさんを忘れかけた頃、遊びから帰ってきた姉と私は、家の前の階段脇にしゃがみ込むレイコさんを見つけたのだ。

姉はいつかのように、「ひっ」と息を呑み、

「ほら、あんたが前にじっと見たからでしょっ」

と、訳の分からないことを言って私を小突いた。

その異質すぎる風貌に怯える心と、やっと会えた、と喜ぶ気持ちが、跳ねる鼓動の中で混ざり合って、視界がぐらぐらと揺れた。

そんな私を置いて、姉は合図もなしに階段を駆け上がり、玄関に通じる飛び石を越え、玄関前で振り返ると、「はやく」と口だけ動かしながら私を手招いた。

そして姉は、なかなか来ない私に怒りの一瞥を向け、

「おかーさーん」

と言いながら家の中に入ってしまった。

階段に座るレイコさんと、家に入りたい私は、おのずと、至近距離で向かい合うかたちになった。

レイコさんは、俯きながら足もとに何かをかいていた。

アスファルトに浮かび上がらないその何かを、私はじっと見つめた。

足首は赤黒く張れあがり、同じように張れた足の甲が、小さな靴からはみ出していていた。

そして、右の足首からは、前と同じように、錆びた鎖が伸びていた。

レイコさんの指が、アスファルトの上で、何度も円をつくる。

ゆっくり、ゆっくり、繰り返されるその動作は、催眠術のように、私の足をその場に固めていく。

その指の動きを追っていると、呼吸が浅くなり、じわじわと恐怖が湧きあがってくる。

今にも、レイコさんが顔をあげて、私を見るんじゃないか?

その目に映っては、いけないんじゃないか?

想像が恐怖を煽り、鼓動が早くなる。

体と頭がカッカと熱くなるのに、手先はシンと冷えていく。

気づくと私は、おしっこを漏らしていた。

つーっと流れでる温かい尿が、アスファルトの色を変え、レイコさんの指の方へと伸びていく。

痛いほどに胸が跳ね続ける中で、ひっ、ひっ、ひっと、しゃくり上げる私の泣き声が、レイコさんと私の間を漂う。

乾いた風が、濡れた頬をなでていく。

その風の向かった方向に、顔を向けてみたいと思うのに、視線は頑なにレイコさんから離れることをしない。

ゆっくりと顔を上げたレイコさんが、私を見つめる。

汗ばんだ掌でズボンを掴みながら、私もレイコさんを見つめ返す。

見つめ合っているはずなのに、レイコさんの視線は、私に届かない。

私の目よりも、もっと後ろのどこかを見ているようなレイコさんの瞳を前に、私は、ひどく心もとない気分になる。

「かぜ、ひくわよ」

始め、その声がどこから聞こえてくるのか、分からなかった。

両目だけ動かしてあたりを伺う。

レイコさんは、もう私から視線を外して、また指で円をかいている。

「ぬれたままは、だめなのよ」

確かに、その声はレイコさんから聞こえてくる。

そしてそれは、私に向けられているのだ。

「うん」

私はそう答えると、レイコさんの脇を抜けて階段を駆け上がった。

飛び石を、飛ぶように走る。

玄関から顔を出していた姉が、私が入った途端に、急いで鍵を閉める。

「もう、何やってたの!」

憤慨気味の姉は、私のお漏らしに気づいて、一瞬憐れみの表情を浮かべ、

「おかーさーん」

とまた声を張った。

「お母さん。レイコさん、優しい声してたよ」

「え? 何?」

シャワーで私の下半身を流してくれている母が、もう一度、と視線で問いかけてくる。

「ううん。何でもない」

「なーに。泣いたり、漏らしたり、変な子ね」

本心ではそんなことを思っていない。

母の笑顔からは、それがちゃんと伝わってくる。

私はそのことに安堵しながら、もう一度レイコさんの声を聞きたいと、強く思っていた。

結局、レイコさんと言葉を交わしたのは、その一度きりだった。

あれから10数年が経ち、私は、レイコさんの存在など忘れてしまうほどに広くなった日常を生きているというのに、目の前を歩くレイコさんは、あの時のまま、時を止めた世界の中に住んでいるように見える。

私は、レイコさんの後をゆっくりと歩きながら、火事で家をなくしたレイコさんを想像する。

そして、子どもを亡くして、茫然とするレイコさんを想う。

それらは噂でしかない。

けれど、ちゃんと、誰かを育てたことのある人の言葉のように届いた、いつかのレイコさんの柔らかい声を思い出すと、あながち噂ではないのではないかと思えてくる。

「かぜ、ひくわよ」

「ぬれたままは、だめなのよ」

私の家に続く曲がり角を通り越して、レイコさんは坂の下へと降りていく。

街の人たちは、景色の一部であるかのように、レイコさんを視界に入れずに通り過ぎて行く。

そんな様子を切なく思うのに、私はレイコさんの後を追わずに角を曲がり、家に向かった。

ジャリ……ジャリ……ジャリ……。

ジャリ……ジャリ……ジャリ……。

鎖の音が遠ざかり、やがて、聞えなくなった。

それからまた10年が過ぎ、私の中からレイコさんの存在は消えつつあった。

だからその問いかけは、本当に、ふと呟いた、独り言のような言葉だった。

「最近レイコさん見かけないね」

父と母は、不意に向けられた私の問いに、ポカンとしていたけれど、ゆっくりと合点すると、父が口を開いた。

「あの人、亡くなったんだよ。あの、桐谷さんところの、ダンプがいっぱいある駐車場で、いつもみたいにしゃがんでて、運転手が気づかなくて、轢いちゃったんだってさ」

「……嘘でしょ?」

そう尋ねる私の胸は、ぎゅうぅぅと縮んで、指先は、お漏らしをしたあの日のように、急速に熱を失っていった。

「嘘じゃないよ。ちゃんと救急車も来たし、結構みんな騒いでたから」

「じゃあ、その後は? ちゃんとお葬式もしてあげたの?」

憤りの混ざる私の声に、父は僅かに驚きの表情を浮かべ、

「そこまでは分からないよ」

と答えた。

今泣いたら、父も母も怯むだろう。

そんなことを想像できるくらいに大人と呼ばれる位置に成長していた私は、リビングを出て階段をかけ上った。

階段途中で神社を見下ろすと、小さな子どもが砂場で遊ぶ様子を、若い母親がベンチに座って眺めているのが見えた。

そこにいる若い母親と、薄暗くなるまでベンチ脇にしゃがみ込んでいたレイコさんの姿を重ねると、それまでに触れたことのない感情が、ズン、と胸に広がり、消すことのできない染みとなって、そこにとどまってしまうような気がした。

私は慌ただしく階段を降りて、靴をつっかけて玄関を飛び出した。

飛び石を越え、階段を飛び降りる。

鳥居をくぐり、神社の前で手を合わす。

合わせた手の震えが全身を駆け巡る中、涙が頬を伝い、顎の下を濡らしていく。

「おじいちゃん、お願い。レイコさんを、もう、1人にしないであげて。家族がいるなら、家族に会わせてあげて。お願い。お願い……します」

神社におじいちゃんがいるのなんて妄想は、幼き私が生みだした思い込みでしかないけれど、私は懇願するように、何度も、何度も、そう願い続けた。

願いなど、自己満足でしかないと知りながらも、そうすることでしか、私はその時の心の鎮め方を知らなかったのだ。

時が過ぎ、母親になった私でレイコさんを想うと、神社で涙を流した頃の私とは別の感情が生まれていることに気がつく。

噂が本当で、子を亡くしたことでレイコさんがあのような生き方を選択したのなら、それはそれで、母親としての真っ当な生き方のひとつなのかもしれないと思うのだ。

哀しみから逃げるために、子どもの後を追うことは容易いことだろう。

けれど、自ら命を絶つことで、子どもとは別の異界に進んでしまう可能性があるのなら、母親としてそれは、選択の中から消さなければならなくなるだろう。

そう考えると、人との関わりを絶ち、孤独に生きているように映っていたとしても、淡々と命を進めた先で、我が子との再会が待っているとレイコさんが信じていたのなら、レイコさんのあの生き方は、覚悟のある、潔い生き方だったのではないか、と思えてくる。

例え、レイコさんの最期が息を呑むほどに悲しい結末でも、あの日、私に声をかけてくれたレイコさんを想う時、私はそんなふうに、考えを巡らせてしまうのだ。

*作中の人物名は偽名です。

 

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2016-06-02 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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