だから彼女は断ることも受け入れることもしない。
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「最近、胸が痛むんだ」
友人は、少し眉間にシワを寄せて、呟いた。
今日は、珍しく普通のハイボールを飲んでいる。
「それは、心臓の病気じゃないのか?」
私は、それ相応の歳になった友人のことを思い、数年前に胸を押さえて亡くなった従兄のことを思い出していた。
「筋肉痛でも胸が痛くなるよ」
妖艶な人妻は、レースに包まれた脚を組み替えながら、少しつまらなそうに言う。
今日は、珍しくホワイトホースのロックだ。
「知らないうちに骨が折れていることもありますね」
華奢で可憐な彼女は、鳥の軟骨揚げをつまみながら、小首を傾げる。
「いやいや、違う。
病気でも、骨折でもない。分かっているんだ。原因は。
ある女性のことを思うと、キュッと胸が締め付けられるようになるんだ」
「彼女に、なにかの呪いでもかけられているの?」
妖艶な人妻がからかう。
「恋、だと思う」
アラウンド還暦の友人は、少し厳粛な表情を漂わせ、静かに言った。
「鯉? 川に棲んでいる魚?」
妖艶な人妻は、訝しげな表情で問う。
「濃い? 毛深いのか?」
私は、なんのことだかわからないふりをした。
「え~と、故意? わざとなんかしているの?」
少し間を置いて、華奢で可憐な彼女が言う。
「え、いまグーグル先生で検索しただろう?」
友人は、彼女が手に持つ携帯に指を突きつけて、憤然としている。
「だって、さっと思い浮かばなかったんだもの」
彼女は、携帯を振る。
「フォーリンラブの恋だ」
友人は、普通のハイボールで顔を赤くしている。
「だれに? まさか、石原さとみ?」
妖艶な人妻の眼がキラキラしている。
「だれに? まさか、深田恭子?」
華奢で可憐な彼女も身を乗り出してきた。
「だれに? まさか、新垣結衣?」
私は笑いを含みながら言った。
「なんで、おまえら、俺の好みを知っているんだ?」
「Facebookで、毎日「いいね」を押しているだろう。彼女たちの写真に」
「え、それって、わかるの?」
「まあ、いい、そういう芸能人ではない、普通の人だ。よく会う人だ」
友人は、いつもより濃いハイボールをクイと飲み干す。
「それなら、いってくれればいいのに」
なぜか妖艶な人妻は居住まいを正す。
「あら、気がつかなかった、ごめんなさいね」
華奢で可憐な彼女は、友人に向かって微笑んだ。
「まあ、君たちでないことは確かだ」
友人は溜息をついた。
「どうしたんだ」
いつもより、元気のない友人が気がかりだ。
友人は、お変わりのハイボールに口を付けながら、話しはじめた。
少し前に三田完の「俳風三麗花」という小説を読んだときのことだ。
そこに描かれている句会の様子が、とても気になって、俳句を作ってみたいなと思いはじめただんだ。
新聞への投句もいいけど、やっぱり句会に参加してみたいじゃないか。そこで、近くの句会に入ったんだよ。
まあ、俳句の腕前はなかなか上がらないけど、そこに集う人たちが面白くてな、ずるずると参加し続けていたんだ。
一年半前かな、そこに彼女も参加してきたんだ。
その句会は、オレが最年少か、と思えるほど年齢層が高かったんだ。
そこに30にもならない若い女性が参加してきたから、まあ、目立ったな。
正直なところ、俺も一目で気に入った。
明るい色の髪、軽やかなショートヘアで、そこに暗い色のフレームの眼鏡が似合うんだな。
そして、話が可笑しいんだ。なんか。
面白いんじゃなくて、可笑しいんだ。
話していると可笑しいのだけど、俳句はうまかった。
俳句の詳しいことは知らないようだったけど、
彼女の読む句は、澄んだ空とか、透明な音楽、涼やかな色合いを感じさせるんだ。
その句会は、集まってやるだけじゃなくて、吟行をしたり、俳句とは関係なく飲み会をしたり、
と、なんだかんだと集まるのが好きなんだな。
そういうところに、彼女も足繁く来るんだよ。
そんなことを半年も続けていたら、彼女が引っ越をするというんだ。
仕事を変えるから、というのが表向きの理由だけど、
話していると、どうやら長年つきあっていた人と別れたらしい。
その話を聞いた時、自分の胸の内がなにかひやりとしたのを覚えている。
付き合っている彼氏がいるのに、毎週のように集まりに参加していた。
俳句を詠み、みんなと飲んだり、遊んだりして、そして、彼氏の元に帰っていたのか。
と思うとな、胸の底がしんと冷えたんだ。
彼女は、彼氏といる時はどんな表情を、仕草を、話をしていたんだろう。
と、ふと思ってしまったんだな。
なんだかな、いい歳をして、と自分でも思ったよ。
彼女が引っ越しをした頃、入っていた句会が解散になってしまった。
主催の人が高齢で、もう続けられないというんだ。
その人は、潔いというか、執着のない人で、この会は一期一会、終わったら後は、各自自由にするようにとのことだった。
これでは、もう彼女と会えなくなってしまうのか。
と思ったら、思わず彼女にLINEをしようと話しかけてた。
俺としたことが、何を血迷ったのかな。
彼女はすんなりとLINEを教えてくれたよ。
それから、
それから、
なんだかなんだといい訳をして、彼女と会うようになったんだ。
面白い映画があるよ、とか、
俳句展があるとか、
美味しい店を見つけたとか
前の句会仲間とちょっと飲もう、とかなんとか。
彼女も素直に会ってくれるからな、
嬉しくなってな。
ある時、元の句会仲間とカラオケに行くことになったんだ。
でも、仲間は俺より年上だからな、風邪ひいたとか、葬式があるとか、膝が痛むのよ、とか、
たまたまだけど、集まったのは俺と彼女だけ。
二人でカラオケに行ったんだ。
彼女と俺は、30歳近く離れている、彼女の父親より俺の方が五つも年上なんだ。
だから、歌の好みも知っている歌も全く違うはずなのに、
彼女は懐かしい、俺もよく知っているような歌を選んで歌うんだ。
母がよく聞いていたから、とかいいながらな。
彼女の優しさに、心打たれたね。
参ったなあ、と思った。
だから、参っているんだ。
友人は少し長い独白を終えると、いつもより濃いめのハイボールを飲み干した。
「それで、彼女には言ったの?」
妖艶な人妻は、単刀直入だ。
「ああ、毎回言っているよ。好きだって。
彼女は、前の会社でも俺くらいの歳の人から、好きだよ~、って言われていたので慣れてます。って言われた。
あるいは、ありがとうございます。って、それだけだ」
友人は嘆息する。
「彼女は聡い人なんですね」
華奢で可憐な彼女が、ぽつりと言う。
「ああ、彼女は賢い、大学は工学系をでているんだ」
「勉強もできるんだ。でも、聡いのは、そういうことじゃなくてね」
妖艶な人妻が続ける。
「彼女は、たぶんあなたのことは嫌いじゃないと思う。生理的に受け付けない人とは、映画や食事には、一回くらいは行ってもその後はないから。
好きと言われて、きっぱりと、「そのようなことを言われても困ります」とか言われたら、
反対に、私も好きです。といわれたら、どうする?」
「どちらにしても、終わりだな。困る相手は誘えないし、お互いに好きとわかったら、その先に進んでしまう。そうしたら、たぶん、大変なことになる」
「だから、彼女は断ることも、受け入れることもしないのよ」
妖艶な人妻が友人に向ける眼差しは優しい。
「でもな、辛いんだ。彼女は工学系出身だから、男友達が多いし、俳句と映画以外、同じ趣味はないし。
会えない時、彼女はどうしているんだろう、って思ったら、なんか切なくてな。
ちょっとそんなこと考えて落ち込んでいたら、妻が「どうしたの?」って聞いてくるんだ。
思わず、いま恋しているんだ、と相談しそうになって、慌てたよ、ハハ」
友人の笑いは少し乾いていた。
「相談すればよかったのに、陽子ちゃんなら、相談に乗ってくれたかもしない」
妖艶な人妻は、友人の妻とは親しい。
「夫の恋の相談を受ける妻、ちょっとシュールというか、修羅場でいいかも」
華奢で可憐な彼女も悪のりをする。
「それで、どうしたいんだ」
私は友人の肩に手を置く。
「そうだな、彼女のファンになろうと思うんだ」
「ファン?」三人が唱和する。
「そうだ、好きだから付き合いたい、ただの茶飲み友達じゃなくて、と思うが、そんなことになれば大変なことになるだろうし、付き合ってもやがて別れるかもしれない。別れることがあるくらいなら、付き合いたくない。
だから、ファンになろうと思う。芸能人のファンと同じだ。
彼女がどうなろうと、いつか結婚しようと、子供を産もうと、離婚して別の人と結婚しようと、ファンなら、彼女のことを好きでいられる。ファンはそういうものだろう」
「それでいいなら、いいけど」
妖艶な人妻は、長く止めていたい気を吐き出すように言うのだった。
「ファンは、片思いですね、永遠に」
華奢で可憐な彼女は、友人の方をトントンと叩きながら言うのだった。
大人になってからの恋は、面倒だ。いろいろと。
まして、結婚している者は。
ファンになると言った、友人の表情は少し晴れやかだった。
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