最後の恋
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記事:市岡弥恵さま(ライティング・ゼミ)
私は、あの頃のことを思うと、まるで使い古した、でも捨てきれない毛布にくるまった時のような感覚になる。あるいは、冬の寒い夜、1人ぼっちの家に帰ってきた時、熱くて甘ったるいホットミルクを飲んだ時のような安心感に包まれる。
あの頃ほど、私は誰かを愛していたことはなかったのかもしれない。そして、あの時ほど誰かを憎んだこともなかったのかもしれない。
こんなことを友人が言っていた。
男はフォルダ分け。
女は上書き保存。
男は未練がましいが、女はさっぱりと次の恋愛をすることができる、という話だ。男は付き合った女のことを、別々のフォルダに入れて記憶する。しかし、女は過去の男のことは、どんどん上書き保存していくのだと。
言い得て妙だと思った。なるほど確かに、そうでもして前の男のことを忘れていかないと、女は前に進めない。
前の男を忘れるために、女達は別の男に抱かれるのだ。
しかし、あの頃の私の記憶は、しっかりと1つのフォルダとして私の中にある。もちろん、彼を忘れるために、彼を見返すように、他の男の懐で寝てきた。その男の懐で、ぬくぬくと育ててもらったこともある。けれども、私は彼を上書き保存することができなかった。
最後は憎んだ彼だったが、しかしそれは愛ゆえの憎しみだったと思うのだ。
私が彼と出会ったのは大学生の頃だ。同い年だが、学部は違った。彼と初めて会ったのは、教養科目として法学の授業を受けた時だった。そもそも法学部だった彼は、必須科目としてその授業を受けていた。その授業を受けているほとんどの学生が法学部の人だった。文学部人間科学科の私は、法学なんて受けなくてもいい。ただ、単位の為に、ただなんとなく興味のない法学の授業を受けた。
何度か後ろの方で、1人ぽつんと授業を受けているうちに、彼の方から声をかけてきてくれた。授業に興味がなかった私は、毎回小説を授業中に読んでいた。なんとなく法律の授業にふさわしいように、弁護士ものとか、企業の中のドロドロな人間関係を描いた小説を読んでいたような気がする。そんな私が、彼には異様に映ったのかもしれない。彼はいかにも、青春を謳歌している大学生だったし、本を読むことなんて、夏休みの読書感想文を書かなければならない時ぐらい。いつも、数人のイケてる男子達とつるんでいたし、女子達にも人気のグループだったんじゃないかと思う。
つくづく、人間とは無い物ねだりをする生き物だと思う。感性も価値観も行動基準も全く違う彼と私が、大学生のほとんどの時間を一緒に過ごすことになるなんて、思ってもいなかった。
私はなんで生まれてきたんだろう、私は何を生き甲斐に生きればいいんだろうと自分の闇を見続ける私と、今が楽しければそれでいいじゃないかと、真剣にその一瞬一瞬を楽しむために私を連れ出す彼。私にとっては新鮮な世界ばかりで、闇ばかりを見る私に、彼は美しい景色を見せてくれた。
単車に乗る彼は、春や夏は、休みの度に私をバイクの後ろに乗せて、山や海、川や滝に連れて行ってくれた。単車の免許は持っていない私だが、彼の後ろに乗ることでクラッチを覚えた。彼が右手でアクセルを開けるたびに、右腕から背中にかけて柔らかく動く筋肉が美しいと思った。熱されたアスファルトの上を走っている時は、真剣に体が溶けてしまうじゃないかとイライラした。しかし、山に入った途端に気温が下がり、新緑の美しい緑だけの世界に入った時に、私は全身を冷たい風が撫でていくことに感動した。
無言でバイクに乗る2人だったけれども、後ろから彼の腰にしがみつく私は、彼の大きな背中がずっと私の前にあるものだと思っていた。その背中のぬくもりが、私の体温よりもいつも少し暖かかった。
今と違い、あの頃の私はピーピーとよく泣く女だった。
よく、悪い夢を見ていた私は、彼に電話をしては夜中に家まで来てもらった。そして、彼に布団の中で抱きしめてもらいながら、私はそのぬくもりの中で眠りに落ちていた。今思えば、何がそんなに悲しかったんだろうと思う。ただ、私に辛いことがあれば、彼はひょろひょろとした私の体を、すっぽりと自分の膝の間に入れ、そして頭を撫でてくれた。
いつも一緒に居てくれて、そしてこれからも私は彼に守ってもらえると思っていた。
弁護士を志していた彼は、私が大学を卒業しても、法科大学院に残った。社会に出て働く私と、学生を続ける彼。少しずつすれ違うようになった。
毎週のように接待に出る私。学生の頃とは違う、大人の世界を見る私。司法試験に合格するため必死で勉強する彼。彼が勉強しているのに、毎晩付き合いで飲みに出る私。
次第に、怒りっぽくなる彼。
私は、どうしていいか分からなかった。ただ、仕事だからと大義名分を押し付けるしかなかった。
そんな私に、彼は別れを告げた。4年間、彼に守ってもらっていた私は、突然あのぬくもりを失くしてしまった。
私は、彼が憎くなった。悪いことは何もしてないのに、ただ生きる為に働いているのにと。
彼と別れてから、私は半年間ぐらい泣き続けたんじゃないかと思う。あの頃のようにピーピー泣くことができなくなった私は、仕事が終わり一人ぼっちの家に帰るたびに、熱いシャワーを流しながら、声を殺して風呂場で泣いた。そしてまた、何もなかった様に、翌朝目覚め仕事に向かった。
それからの5年。
私は、彼のことを忘れる様に、色んな男の懐で寝た。私は、あなたがいなくなっても、幸せに生きている。そう見せつける様に、私は色んな男と出会った。もちろん、真剣に付き合ったこともあるし、一晩で終わってしまったこともある。彼を忘れる為に、色んな男に抱かれているのに、しかし私は彼のことだけは、心の片隅で綺麗な箱の中にしまっていた。その箱にだけは、誰にも触れられたくなかった。
ある日、大学時代の友人の結婚式に出た。
森の中にある、美しいチャペルだった。天井までガラス張りの、三角形を丸くしたようなチャペル。新緑がそのチャペルに覆いかぶさるように茂り、まるでおとぎ話の世界だった。緑の中で、新婦の純白のウェディングドレスが映える。私は新婦の姿にうっとりしながら、彼女が泣く姿を見ていた。ただ、幸せの絶頂に居る彼女を素直に祝福した。
挙式が終わり、披露宴が始まるまでの間、私は友人たちの輪から離れ、森の中の小さな庭のベンチに座った。緑と初夏の空の青色がとても綺麗だった。二の腕にさわさわと当たる風が心地よかった。
ふと、名前を呼ばれ、私は声がする方を向いた。
彼だった。
初めて彼がスーツを着ている姿を見た。あの頃よりも、また少し肩幅が大きくなったように思うし、少し背も伸びたんじゃないかと感じた。私が5年間、色んなところで探してきた彼の姿だった。街を歩くたびに、オープンテラスでぼんやり人の往来を見るたびに、どこかに彼がいるんじゃないかと探し続けてきた、その彼が私の目の前に立っていた。
「綺麗になったね」
そりゃ、そうだ。
私は、いつあなたに会っても、綺麗だねって言ってもらえるように、気を抜かずに自分を磨き続けてきた。だって、久しぶりに会った女が、ボロボロになってる姿なんか見たくないでしょう?
「なんか、おっきくなったね」
「おぉ、そうかも。相変わらず、趣味筋トレ」
「そっか。仕事は?」
「あぁ。無事、司法試験も受かりました」
「そう、良かった」
しばらく、私を見つめてきた彼は、ふと名刺を取り出し、何かを書いた。多分、電話番号。
「なんかあったら連絡して」
そう言いながら私に名刺を渡し、ポンポンと私の頭をたたいて、彼はどこかに行った。
あの頃、ずっと私の前にあると思っていた大きな背中。相変わらず大きくて、私の体なんかすっぽり包みこんでしまうんだろう。
やっぱり、私はあの頃のことを思うと、まるで使い古した、でも捨てきれない毛布にくるまった時のような感覚になる。そのまま、安心して深い深い暗闇の中に落ちていくことができる。彼がいれば、私の中のこの暗闇も全然怖くなかった。
またあの頃のように、彼の懐で寝ることができたら、どれだけ幸せだろうと思う。でも、きっと私はあの頃のように、純粋に彼を愛せない。色んな男に抱かれた私は、もうあの頃のように素直に彼を求めることなんか出来ないだろう。そして彼も、色んな女を抱いてきたんだろう。その大きな胸で、他の女を抱きしめてきたんだろう。そんなことを感じてしまったら、私は本気であなたのことを憎んでしまうじゃない。
披露宴が終わり、二次会には行かなかった。
博多駅に着いた私は、トイレで彼の名刺を捨てた。名前が分からない様に、小さく小さくちぎって。
多分、私はもうあの頃ほど誰かを愛せないかもしれない。男に抱かれるたびに、むしろ愛なんか分からなくなる。でも、あの頃の彼との記憶は、私の心の隅の方で、綺麗な綺麗な箱の中に入ったままだ。誰にも、触れさせないまま。
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