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人間達、隠されたヒトとしての食欲を解放せよ!


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:阿哉(ライティング・ゼミ)

 

「私たちはものすごく頭で食べているんだろうな、と思うんですよ。いま」

「何か特別なもの、頭の中で考えている付加価値みたいなものになっちゃって……そういうものから、もう解き放ちたいんです。呪縛みたいなものから……食べることを、おおらかなところ、おおらかな力にすごく引き戻したい……」

 

お腹を空かせて会社から帰宅したある晩、いつものように、スーパーの夕方セールで買った惣菜をつまみながら、録画しておいたNHKの対談番組(SWITCHインタビュー達人達)を見ていた。

番組の中で、料理研究家の枝元なほみさんが、ノンフィクション作家の高野秀行さん相手に話されていたこのくだり。

投げかけられた言葉の数々は、ながら食いしていた私に強烈に突き刺さった。

 

「頭で食べる」、食べることを巡る「呪縛」、そして食べることを「おおらかなところへ解放」する。

枝元さんの言う「頭で食べる」とは、食べるものの値段だったり、食べるものを提供する人の知名度だったり、栄養やダイエットのことだったりという付加価値をつけて、食べ物を口に入れている私たちの食生活のあり方だ。

 

私はその時、何を食べていたか思い出せないけれど、頭の中にこれらの言葉だけは残っていた。

そして、思った。

私にとって、「食べること」とは何だろうか?

 

3年ほど前、私は生まれて初めて1週間入院した。

私は虚弱体質でありながら、それまで大きな病気も怪我もしたことがなかった。

その時の入院の理由は、言ってみれば、大腸の中で炎症が起きた病気でたいした病気ではない。

ただ、入院宣告があった日から、医師が認めるまで「絶食」を強いられた。

栄養は、腕に刺さったままの点滴チューブから供給される。

お腹の痛みは取れないし、座っているのも辛いほど体はだるい。

そんな状態でも何かを食べたいという欲求が湧き起こってくる。

ベッドの上でテレビを見ていると、食べ物が出ない番組を探す方が難しい。

同室の患者さんが食事をとる時間には、いい香りが漂う。

唯一の散歩場所、病院内のコンビニに行けば、そそられる商品の数々。

寝ても覚めても考えることは、治ったら何を食べようか、ということばかりだった。

体の痛みを耐えるだけでなく、食べたいという強い欲求との葛藤に疲れて、ただただ眠ることで入院生活は過ぎた。

 

入院4日目にやっと食事が与えられた。

もちろん重湯である。

ほとんどお湯の中に、白いトロトロのお米らしきものが漂っているだけ。

普段なら風邪を引いて寝込んでもここまでの状態のものは食べないだろうな、という食事。

けれども、ひと口食べた瞬間、涙が出るほどに心から美味しいと思った。

文字通り、病室のベッドの上で私はその重湯を夢中で食べた、いや「がっついた」という方が近い。

 

「食べること」はヒトという生き物のむき出しの欲求だ。

いつでも、どこでも食糧が手に入るところでは、その欲求は表には出てこない。

でも、一変して食べることを制限されれば、どんな人間であっても周りなど気にせず、ただ「食べること」にのみ集中するだけの生き物になる。

 

以前、『刑務所の中』という映画(監督:崔洋一)を見た時、刑務所で生活する受刑者たちのおそろしいほどの食欲に、シャバに生活する者ながら、私は強く共感した。

自由が制限された塀の中で、受刑者たちが寝ても冷めても考えることは食事のこと。

だから、食べているものへの集中力は半端ない。

昨年よりも、昨日よりも食事の量が減ったかどうか、入っている具が変わってしまったかどうか……食べているものの些細なところまでが気になる。

日に3回の食事は、まさにサバイバルだ。

自分に与えられた食糧を決められた時間内に食べ終えなくてはならない。

いま食べなければ、次は決まった時間まで食べることはできない。

食事をゆっくり楽しむ余裕はない……生きるための食事。

 

いつ、何を食べるかの自由が制限された時、私たちの食欲はむき出しとなる。

「意地汚い」という言葉もあるけれど、その欲求は、普段は息を潜めている火事場の馬鹿力的な力強い生きる力で、その力があるから生きていけるとも言える。

 

他方で「食べること」は、生き物としてのヒトの本能的な欲求を満たすためだけの行為だけ、ではない。

 

私が初めての入院経験をしてから3年が経つ。

私のお腹は今も不安定で、医師から処方してもらった薬をお守り代わりに飲まないと不安でたまらない。

突然、原因不明で不機嫌になり、暴走することも度々である。

お腹が不機嫌になれば、食べられるものが制限されてしまう。

食べられるものが制限されるということは、行きたいところに行けない、会いたい人に会えないということだ。

この3年間、私がお腹の不具合で泣く泣くキャンセルした予定がどれだけあったことか……。

外に出かければ、そこで誰かと会えば、そこにはほぼ必然的に食べることが伴う。

出かけた先で提供された食事を私自身が美味しく頂くこと、そしてその場に集った人たちと同じものを食べること、楽しく食べることを共有できなければ、その場にいる意味は大きく損なわれてしまう、と私は思う。

だから、それができない時はその場にいかないことを選ぶ。

 

誰かとともに食べることを通して、信頼を深める、新しいアイデアが生まれる、癒される、学びが生まれる……等々。

そんな時、私たちは「食べたい」からだけで食べるのではない。

ヒトのむき出しの欲求よりも、人間(ニンゲン)としての気遣いだったり、プライドだったり、やはり「頭を使って」食べている気がする。

 

中学生の頃に教科書で「ジキル博士とハイド氏」という物語を読んだ。

賢くて思いやりを持った紳士のジキル博士と悪魔のようなハイド氏。

挿絵のハイド氏の形相が恐ろしくて、「ハイド氏のようにならないように生きなさい」というのがこの話のメッセージだと思い込んでいた。

ところが、大人になってから、この物語は、社会的に期待されたように生きる人間像(ジキル博士)と欲望を解放して生きる人間像(ハイド氏)の二面性を誇張して描いたものではないか、という解釈もあり得るかも、と気付いた。

人間というものは必然的に二面性を持っている。

私たちはハイド氏を忌み嫌うのではなく、その存在を受け入れて生きていくものだ、とも言えるかもしれない。

むしろ私たちはハイド氏として生きることをどこかで必要としているのではないだろうか。

 

「食べること」とは、ハイド氏のように欲望のままに振る舞うヒトの行為であり、ジキル博士のように理性や思いやりを持って行動する人間の行為でもある。

私にとって「頭を使って」食べることはやはり必要だ。

でも、空腹の末に食べたいように食べたいものを欲望のままに食べること、「おおらかな力」のままに食べることも同じくらい必要だ。

 

空腹を埋めるために、今日もスーパーのお惣菜をガツガツ食べている、この私もまた愛すべき「私」なのだ。

 

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この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。
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2016-11-12 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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