メディアグランプリ

写真を撮った瞬間に息を引きとった玲子さんが教えてくれた生きることの意味


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:栗原雅代(ライティング・ゼミ)

 

「えっ、息をしていないけれど死んじゃったの?」
犬や猫の話ではない。
私の腕の中にいるのは玲子さん。
73歳、独身、元デザイナー。
身寄りのない玲子さんと一緒に住むようになって3年が過ぎた頃のことだった。

24歳年上の玲子さんとの出会いは、私が32歳の時だった。
きれいでおしゃれな人だというのが第一印象だった。
三宅一生と一緒に仕事をしたことがあると聞いたのはずいぶん後になってからだ。
親子ほど年が離れていたのに妙に気があった。
「まあちゃん」と呼んで可愛がってくれた。
エレガントな外見から想像がつかない男勝りなところが魅力的だった。
戦時中に防空壕に入ってきた焼夷弾を蹴飛ばしたと豪語していた。
事実なのか、からかわれたのかはいまだに分からない。

玲子さんと一緒にエステサロンを経営するようになって、玲子さんの優しさに気付かされることが多かった。共同経営で始めたサロンだったけれど、当時子育て中だった私はずいぶん配慮してもらった。赤字が続いた最初の頃、その補填はすべて玲子さんがやってくれた。
それに恩を着せるようなことは一言も言われたことがなければ、催促されたこともない。
でも、その借金はいずれ返そうと心に決めていた。

サロンの仕事が起動に乗り出した頃、私は離婚した。
バツ2の玲子さんは「バツ1からが女の人生よ」と励ましてくれた。
玲子さんは恋多き女性だった。
浮気を疑って盗聴器をしかけたという話はおおいに受けた。
機械音痴の玲子さんがどうやって盗聴器をしかけたのだろうか。
若いというか、元気というか、そのエネルギーにかなわないと思った。

子供のいない玲子さんが、たった一人の身寄りのお母さんを亡くした時、葬儀場に一緒に泊まってずっと玲子さんに付き添った。
玲子さんは天涯孤独になった。
でも、玲子さんはまだまだ元気だ。
彼氏もいたし、長年担当していた経理の仕事を「そろそろ他の人に引き継いで、好きなことをやろうと思うのよ」と嬉しそうに話していた。

玲子さんがおかしい、そう思い出したのはいつ頃からだろうか?
65歳を過ぎた頃だったかもしれない。
待ち合わせの時間に来ない。
電話をするとそんな約束をしていないと言う。
「あれ、変だな? まあもう若くないし忘れることはあるよね」
ところがそれは序章に過ぎなかった。

玲子さんは徐々に壊れていった。
病院で診断されたのは「レピー小体型認知症」。
初期に幻覚や妄想が出て、そのうちに物忘れなどの認知症の症状が現れ、さらに体が硬くなる、動作が遅くなる、小またで歩く、震えなど、パーキンソン病に似た運動障害が出てくる。徐々に進行して認知がひどくなり、高齢者は数年もすると寝たきりになることも多い病気だ。
その頃の玲子さんの歩き方を「とっとっとっ歩き」と私は呼んでいた。
前のめりになって勝手に足が、とっとっとっと出てしまうのだ。
転びやすく、一度駅で転んで救急車で運ばれた。
幸い顎を数針縫っただけですんだが、一人暮らしをさせるのは危険な状態になってきた。

事務所のあるマンションの一室を借り、玲子さんの世話をスタッフでするようになった。
しかし、仕事の合間では十分な面倒をみることは難しかった。
玲子さんの状態はどんどんひどくなってきた。

ある日玲子さんの部屋から異臭がした。
入ってみると、布団の上で便にまみれた玲子さんがいた。
便が漏れたのを隠そうとしたのだろう。
床に塗りたくったような跡があった。
せつなかった。

その後、私たちは山梨に移り住んだ。
東京の事務所を残し、行ったり来たりの生活を始めた。
富士山が窓から見える山梨の生活を玲子さんは喜んでいた。
玲子さんはとても認知症とは思えないようなしっかりした時と、まったく何もわからない時の差が大きかった。
「まだらボケ」というそうだ。
ある日、玲子さんの様子を見に部屋に入ると、玲子さんは目を見開いて天井を見つめていた。「玲子さん、どうしたの?」
「まあちゃん、こんな状態でなぜ私は生きているんだろうね」と静かに言った。
「そうだね……。皆のために生きているんじゃない!」と私は答えた。

そうなのだ。
玲子さんの介護をして大変なこと、辛かったこと、いろいろあった。
玲子さんが食べ過ぎて一晩中吐いた時、ゲロにまみれながら徹夜で看病したこと。
あちこちで失禁し、一日中洗濯に追われたこと。
転んだら大変と、うろうろする玲子さんについて周り、仕事ができなくてイライラしたこと。
なんでこんなことを私がやらなければいけないんだろうと思ったことも正直あった。
でも、玲子さんは大事なことを私に教えてくれた。

肉体は老いるということ、そしてそれを真正面から受け入れることの切なさと厳しさ。
だけど、その先にあるのはその人をあるがままに受けとめるという「人の尊厳」だった。
玲子さんは潔かった。
オムツになった時も、寝たきりになってお風呂も着替えも他人の手にゆだねければならなくなった時も、凛とした顔でなされるがままだった。

平気な顔をしているけれど、情けない気持ちでいるのではないか、辛いのではないかという感情を持つのが失礼な気がした。
「人はこうやって老いていくのよ」
玲子さんのやせ衰えた肉体が、褥瘡で腐った皮膚がそういっている。
最後は口もきけなくなったのに、その存在感は逆に大きくなっていった。

ただそこに寝ているだけなのに、私にいろいろなことを考えさせてくれる。
人は生きているだけで、人の役に立つことができるのだ。

老いて何もできなくなったら、周りの人の迷惑になると誰もが思っていると思う。
私もそう思っていた。
だけどそれは違う。先に行く人はまさに人生の師だ。
そして最後の時に、何を玲子さんは教えてくれるのだろうか。

「もしこのまま救急外来に運べば延命治療を行ないますが、いいですか?」
白衣の救急隊員が真摯な顔で聞いてきた。
救急車の中で玲子さんを囲んで座っていた3人は顔を見合わせた。
玲子さんの容態が急変し、血圧が測れなくなった。
在宅医から入院させた方がいいと言われ、救急車を呼んだものの、玲子さんが延命治療を望んでいないことを話すと、救急隊員が病院へ運んでいいのかと言い出したのだ。
玲子さんの「最後は皆に囲まれて死にたいわ~」という言葉を思い出した。
器械に繋がれて延命することを玲子さんはきっと望まないだろう。
玲子さんの尊厳を最後まで大事にしたい。
「連れて帰ろう」

救急車から部屋に戻してもらった。快晴だった。
「玲子さん、いいお天気だよ」きっとこれが玲子さんが見る最後の空だろう。

それから2日後の夜、玲子さんの呼吸がどんどんゆっくり浅くなっていった。
私ともう1人スタッフが付き添っていた。
もう長くないかもしれない……。

そう感じて、ふと思いついた。
「最後に写真を撮ろうか?」
玲子さんを抱きかかえて写真を撮った。
「玲子さん、一緒に写真を撮れて良かったね~」
と、玲子さんの顔を覗き込んだ。

息をしていない!

「息していないよ! 死んじゃったのかな?!」
「どうやって確認するんだっけ?」
「心臓は?」
「音が聞こえない!」
「瞳孔を見てみて」
「えっ、瞳孔ってどこう~」
「しゃれを言っている場合じゃないです!」

玲子さん、死んじゃったんだ……。
なんだかあっけなかった。
悲しいという気持ちも沸いてこなかった。
玲子さん、精一杯生きたね。
ご苦労様。

死は特別なことでもなんでもなかった。
生まれ、生き、そして死ぬ。
それはとても自然なこと。
その中でどう生きるのか、どう生きたいのか。
生きることの意味は自分で掴むものなのだ。

まあちゃん、ちゃんと考えて生きている?
玲子さんの声が聞こえた気がした。
 

***
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2016-11-24 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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