会うたびに刺青が増えていく売れないバンドマンが教えてくれたこと
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:村崎寧々(ライティング・ゼミ)
「えっ、もしかしてまた増えた?」
私は、グラスに氷を入れる彼の手を見て、思わずそう尋ねた。
「そう。昨日また彫ってきた」
バーカウンター越しに差し出された彼の腕をよく見ると、黒く描かれた模様を縁取るように赤みが残っていた。
「痛そう」
「手の甲はめちゃくちゃ痛かった。皮膚が薄いとこは痛いんだよね」
この前会った時は、たしか二の腕までしかなかったはずだと思いながら、肘から手の甲まで続く黒い模様を眺める。その模様は、長袖の服を着ても隠れない位置まで伸びていた。
「この記号みたいな模様、何?」
「梵字(ぼんじ)だよ」
彼はずらりとボトルの並ぶ棚の中から、私の名前が書かれたプレートをぶら下げた鏡月を手に取って、グラスに注ぐ。
「どういう意味の文字なの?」
「たしか兎。意味は……なんだっけな。なんか、とにかくいい意味だったんだよ」
コースターを置く彼の手を目で追っていた私は、思わず顔を上げた。
「うそでしょ。そんな適当にデザイン決めるの?」
「まぁ、いつもその場で決めてるからね。ほんとはダメらしいけど、いつも酒飲みながら彫ってもらうんだよね。こんな感じで」
彼がスマホで見せた写真は、彫り師さんが彼の腕に機械を当てているところだった。たしかに、側にあるテーブルには瓶ビールが置かれていて、雑然としたその場所は彫り師さんの自宅の一角のようだった。
彼は売れないバンドマンだ。音楽だけでは食っていけないので、こうしてバーでも働いている。
会うたびに「お金がない」と嘆いているわりには、ハガキ大のサイズを彫るのにだいたい5万前後はかかるはずの刺青をどんどん増やしていて、てっきりお金の出処になっている女の子が何人かいるんだろうと推測していたが、どうやらその彫り師さんは見習いで、タダで彫ってくれているということらしかった。
刺青を入れたミュージシャンと言われると、取り立てて珍しいことでもないように感じるけれど、それは“音楽の道で食っていく”という意志表明みたいなもので、私たちが普段メディアで目にするミュージシャンたちというのは、その意志通りに成功した人たちだ。
少なくとも日本では、刺青が入っていても就ける職業はかなり限られている。
服で隠れる位置にある刺青ならまだしも、隠せない手の甲や首などに刺青を入れるということは、相応な覚悟が必要なはずであって、それをしかもまだ売れてもいないバンドマンがやるとなると、さながら背水の陣だ。
「リョウさんって、いくつだっけ?」
「今年で30だよ」
私は「そっか、じゃあ先輩だね」と返しながら、心の内ではこう思っていた。
もういい大人なのに、まだ夢なんて追いかけてるんだ。いつまでも売れないバンドなんてやって、将来どうするんだろう。
私はといえば、大学を卒業して、新卒で東証一部上場企業に入社した。就職氷河期と呼ばれる時期だったけれど、第一志望にあっさり内定した。
仕事はそれなりに大変ではあったけれど、十分に楽しかったし、上司や職場の環境にも恵まれて、任された仕事はだいたい上手くいって結果が出た。
おかげで、社内で何度もMVPをとって表彰されたし、ボーナスもたくさんもらった。
試しに転職エージェントに話を聞きに行ったら「今の年収をキープしたまま転職するのは、難しいと思います」と言われるくらいには、稼いでいた。
きっと私の人生は間違っていないはずだった。
でも、彼と会うたびに心の奥底に、得体の知れないもやもやとした黒い気持ちが渦巻いた。
その日は、店がオープンしたばかりの時間で、お客さんが私しかいなかった。
私はいつも通りカウンター席に座っていると、店内に流れていたBGMが止まった。ふと彼の方を見ると、彼は自分のスマホを繋いで音楽を流し始めた。
「これ、今日レコーディングしてきた曲」
目の前にいる人の歌声が、店内のスピーカーから流れてくるという不思議な状況に戸惑いながらも、私は最初のサビまで聴き終えたところで「かっこいいね」と伝えた。
「だろ? これ次のアルバムに入れるんだ」
彼はそう言って、露骨に嬉しそうな反応を見せた。あまり感情を表に出さないタイプの人だと思っていたので、意外な表情を見て私は驚いた。
彼はそのままのテンションで、最近撮影したばかりだというミュージックビデオを見せてきた。
「すごい、別人みたいだね」と言う私の言葉を、卑屈に受け止めることもなく、彼は素直に喜んだ。
彼は自分の作ったものを人に見せるのに、恥ずかしさをひと欠片も感じさせなかった。バンド活動もそれなりの年数してきているのだから、彼にとってはそれが普通なのかもしれないけれど、自分の作詞した曲を歌う姿を、自ら堂々と目の前で人に見せるなんて、自分だったらできないと思った。
それに、私は自分の仕事を褒められて、こんな風に素直に喜んだことがなかった。
なぜだかいつも、どれだけ仕事が評価されても、自分が褒められているような気が全くしなかった。
MVPをとって表彰されても、人事考課でS評価をもらっても、満足はしたけど別に嬉しくはなかった。どれも、まるで他人事のようだった。
でも、社会人になってから一度だけ、褒められて嬉しかった出来事があった。
「村崎さんは、とても読ませる文章を書きますよね」
大学卒業後に、久々に会った先生が穏やかな口調でそう言ってくれた時、ふいに涙が出そうになって、ぐっとこらえた。
とても丁寧に卒論の指導をしてくださったその先生は、私の書く文章を覚えていてくれた。
仕事で嬉しくて泣きそうになることなんて一度もなかったのに、たった一言、自分の書いた文章を褒められただけで、死ぬほど嬉しかった。
でもその時、「卒論を書いた以来、文章を書く機会なんて全然ないですよ~」と言って、私はなんとなく場をごまかしてしまった。
私は文章を書くことから逃げていた。
“もしかしたら自分には才能があるかもしれない”と思いたいがために、いつまでも書かなかった。
本当は書きたかったのに。そして、誰かに褒めてほしかったのに。
文章を書いて世に出せば、評価されてしまう。自分の実力のなさを思い知らされてしまう。書かない限りは、“素晴らしい文章を書ける可能性”を守ることができた。
完璧ではないものを世に出すなんて、恥ずかしいと思っていた。
当然ながら、いきなり最初から完璧なものが作れる人なんているわけがなくて、いくつも失敗を積み重ねなければならない。だけど、私にはその失敗を晒す勇気がなかった。自分の小さなプライドを守るために。
そんな人間が、“いい大人が夢なんて追って”と言って、自分のプライドの傷つかない安全なところに立って、人を見下していた。
でも本当は、リョウさんみたいに生きる人のことが、心底うらやましかった。
「リョウさんのバンドって何年目?」
「4年目。俺、もともと学生のころバンドやってたんだけど、就職のタイミングで辞めたんだ。でも、やっぱりバンドやりたくて、仕事辞めて復帰したのが今のバンド」
「そうだったんだ。……ということは、仕事辞めたのは26のとき?」
「そうそう」
私は26歳だった。
彼が大きな決断をしたのと、同じ歳だった。
そんな話をしていたところに、3人組のお客さんがやってきて、店内のBGMはいつも通りの音楽に戻された。
「そろそろ帰ろうかな。また来るね」
「おう、今日はありがと。仕事頑張ってな」
私は半年後、会社を辞めた。
食っていけるような仕事のアテはまったくなかったけれど、自分のやりたいことと向き合うための、私なりの背水の陣だった。
実際のところ、誰しもがそんなリスキーな選択をすることが正しいとは思わない。
会社員をしながら、自分のやりたいことを実現している人だってたくさんいる。でも、意志の弱い私にとっては、これくらいしないと都合の良い言い訳をして、また逃げてしまいそうだった。
手の甲だけじゃなくて、ついには首にも刺青を入れたリョウさんのバンドは、あれから何度ライブを観に行っても動員は増えなくて、一向に売れる気配はしなかった。
でも、彼が音楽をやっていることが、少なくとも1人の人間の背中を押したことには違いない。だから、きっと彼の音楽活動には意味があると私は思う。
いつか私の文章も、誰かの背中を押すことがあってほしい。
そんな日が来るまで、私は書き続けたい。
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