満員電車で押しつぶされても、それでも私は楽しく仕事に向かう《プロフェッショナル・ゼミ》
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記事:櫻井 るみ(プロフェッショナル・ゼミ)
『ただいま武蔵野線は○○駅で発生しました人身事故により、上下線とも運転を見合わせております。運転再開見込みは8時20分頃となっております』
駅のホームの電光掲示板を見つめて、私はため息をついた。
平日朝7時30分という通勤通学の時間だった。
……マジか。
よりによってこんな日に……。
8時20分ってどう考えても間に合わないし……。
普段からせっかち気味な私は、いつも電車に乗るときは『ちょうどいい時間』の一本前に乗るようにしている。
それでも8時30分の始業時間には間に合わなさそうだった。
しかもその日は珍しく関東でも雪になると天気予報で言っていて、すでに朝から雪混じりの雨が降っており、とても寒い朝だった。
参ったな……。
今日人少ないのに……。
絶妙なタイミングで悪いことは重なる。
今日は2人が休みを取っていた。
1人は前からその日に有給の申請をしていたし、もう1人は昨日熱が出て病欠をしていた。今朝早々に『熱下がらないです。やっぱり今日も無理です。ごめんなさい。』と連絡用LINEグループにメッセージが届いていた。
人が少ないからといって病み上がりの人間を(っていうかまだ治ってない)無理に来させるほど、私達は鬼ではない。
『ゆっくり休んでください』
『今日は寒いから、温かくして悪化しないようにね』
『(OKのスタンプ)』
と、それぞれ承諾のメッセージを送った。
とはいえ、普段5人でまわしている仕事を3人でまわすことになるのだから、忙しくなることには変わりがない。
だから私はなるべく早く会社に行きたかった。
だんだんと人が増えてくるホーム。
学校に行かなくていい正当な理由ができて嬉しいのか、やたらとテンションが高い高校生達。
会社に電話していると見られるサラリーマンの皆様。
私もホームの壁に寄りかかり、『武蔵野線が人身事故で止まってます。運転開会見込みは8時20分だそうです。多分遅れます。よろしくお願いします。』とLINEメッセージを打っていた。
さて、どうしよう……。おとなしく電車を待つか、バスに賭けてみるか……。
少しでも早く会社に着く方法を考えていると、駅員さんのアナウンスが聞こえてきた。
「2番線、列車が参ります。白線の内側までお下がりください」
あれ? 電車来るんじゃん。良かった~、と思ったのもつかの間、駅員さんはこう続けた。
「なお、現在武蔵野線全線運転見合わせですので、この列車は当駅で停車いたします」
動かねーんかよ!!
心の中で盛大にツッコミながらも、到着した電車に乗り込んだ。
雪のちらつくホームは寒かったし、いつ電車が動き出すかも分からなかったので、乗っておく方が得策だと思ったのだ。
だけれども、そう思った人はやっぱり私以外にも大勢いて、すぐに車内は人でいっぱいになった。
電車がついていると見れば、人は乗り込む。
早く職場に着きたい会社員はなおさらだ。
一見して『すごく混んでいる』と分かっても、なんとかして乗り込む。
「車内中ほどまでつめてくださーい!!」
なんとかしてお客を乗せようとしている駅員さんの声が響く。
結果、車内はぎゅうぎゅう詰めになる。
運良く私は扉付近の位置をキープできたものの、窮屈なことには変わりはなかった。
結局、当初の見込みより10分ほど遅れて運転は再開した。
仕方がないこととはいえ、車内にはどこかピリピリした空気が漂っていた。
その空気のまま、会社の最寄り駅に着く。
この駅は、さほど大きくない割に乗降客が多い。
すでにホームは人で溢れかえっていた。
やっと着いたと降車する人と、やっと来たと乗車する人がぶつかる。
どちらも寒い上に、長い時間待たされてイライラがピークに達していたのだろう。
一触即発の空気が漂う。
離れたところからは怒鳴り声も聞こえてきた。
満員電車がストレスの最たるものって本当だな……。
殺気立っている駅構内から早々に抜け出したものの、体力も気力も削られて、その時点で私はとても疲れていた。
職場に着いたのは9時だった。
思ったよりも早く着いた。
取引先は9時始業のところが多いので、まだそんなに忙しくもなさそうだった。
「朝から大変でしたね」と、隣の席の彼が声をかけてくれる。
「参りました。体力も気力もごっそり奪われました」
PCを起動しつつ答えていると、正面の席の船木さんも「あれま。まあ、気を取り直して、今日は3人ですけど頑張りましょうね」と、声をかけてくれた。
「あんまり問い合わせとかかかってこないといいな~」とのんびりした口調で船木さんは言う。
今日は2人がお休みだけれど、私は2人のフォローができるほど仕事が分かるわけではないので、必然的に隣の彼と正面の船木さんが休みの人の分の仕事をすることになる。
担当者本人でないと分からないこともあるけれども、彼と船木さんはベテランなので大抵のことはこなしてしまう。
私にできることは、彼等が仕事に集中できる環境を作ることだけだ。
なので、私は電話応対に徹することにした。
電話というものは、実は意外に気が削がれるもので、それまで集中していても一度電話が鳴るとプツンと集中力が切れてしまうことがよくある。
そして、一旦それが切れると立て直すのに時間がかかる。
もちろん、自分宛にかかってきた電話に出ないわけにはいかないのだけれども、鳴り響く電話が気になって中々自分の仕事ができないという状況にはならないように、なるべく私が最初に電話に出るようにした。
私でも分かるものはその時に答えたし、解決できなさそうだったら、一旦切って折り返した。
「担当者は本日お休みで……」と言えば「あ、そうですか。じゃあ、明日またかけます」と引き下がってくれる人もいたので、何も問題なく午前中は過ぎていった。
元々私は電話応対が得意ではない。
むしろ苦手意識があるし、出ないで済むなら出たくない。
怒られたことはないけれど、相手の名前がうまく聞き取れなくて聞き返すことなんてしょっちゅうだし、40近いのに恥ずかしい話だけど、敬語の使い方も怪しい。
こちらからかける時も相手にわかりやすく、かつ手短に上手く伝わるように要点をまとめて、頭の中でシュミレーションしてからかけている。
電話応対というものは私にとっては、仕事の中でもいちばん気が張るものなのだ。
だけど、その日はやっぱり朝の遅延による満員電車と、普段の倍以上はこなしていた電話応対で、精神的に疲れていたのだと思う。
午後3時半ごろ、その集中力は切れかけていた。
『××ホームの△△です』
面倒くさい人から電話がかかってきたと思った。
この会社は私の担当ではなく、今日は有給を取っている宮田さんの担当だった。
宮田さんは今年2年目の女の子で、おっとりとした可愛らしいお嬢さんだ。
文句や愚痴を言っているところを見たことがなく、船木さんに教わったことを素直に聞いて仕事をしている。
そんな素直で可愛い宮田さんをキレさせたのがこの人だった。
「折り返して連絡するって言ってるのに、ごちゃごちゃしつこくて……」と宮田さんはその時に言っていた。
案の定、宮田さんが休みであることを告げた私に『□□様邸の納品の件なんですけど』とそのまましゃべり続けた。
1から10まで説明しないと気がすまないタイプの人のようで、【納品】には必要のない情報を延々と話している。
どうしようかな……。
困りはてた私は営業さんに代わってもらうことにした。
電話でのやり取りは私達アシスタントの方が多いけれども、直接先方と会ってやりとりしているのは営業だ。
私よりは幾分話が分かるはず!
そう思って私は、その会社の営業担当である鈴木さんに電話を振った。
「××ホームの△△さんなんですけど、ちょっと出てもらっていいですか? 私じゃ良く分からなくて」
鈴木さんは「ああ。あの人ね」とちょっと嫌そうに言って電話に出た。
私は、その時鈴木さんがついたため息を聞き逃さなかった。
鈴木さんのため息に少しイラッとした。
普段から営業さんは社内にいても電話に出ることは滅多にない。
朝礼で課長が「今日はアシスタントさんが少ないから、営業もなるべく電話等とってフォローしてあげてください」と通達してもだ。
彼らの中では【電話応対はアシスタントの仕事】という暗黙の了解のようなものがあるらしい。
取引先から直接彼らの携帯にかかってくることも多いし、商品の手配や納期に関しては私達の方が詳しいからそれもしょうがないのかな……と思っていたけれど、さすがに今日みたいな日にはちょっとくらい手伝ってくれてもいいんじゃないの?? と思ってしまう。
せめて『メンドクセー』って思っても、態度には出すな!!
鈴木さんにそんなつもりはなかったかもしれない。
だけれども、彼のため息は疲れていた私を苛立たせるには充分だった。
私が苛立っていることには構わず、電話はまた鳴り響く。
『◆◆社です』
これもまた、面倒くさい人からの電話だった。
この会社の営業担当も鈴木さんなのだけれども、どうも鈴木さんをあまり信用していないようなのだ。
『鈴木くんに見積もり頼んでるんだけどね、2ヶ月くらい経つのにまだ来ないんだけど?』
「申し訳ございません。鈴木は今、別の電話に出ておりますので、終わり次第ご連絡させます」
私がこう言っても、先方は引き下がらなかった。
『いやもう、鈴木くんはいいよ。彼、使えないから。言ってることトンチンカンでよくわからないし、電話も見積もりも遅いし。誰か他に分かる人いない? 前の担当さんはよくやってくれてたんだけどね。担当替えてよ』
そんなこと私に言われても困るし、前の担当さんは別の営業所に異動になってしまったので代わってもらうこともできない。
「申し訳ございません。ですが、お見積もりに関しては鈴木でないと分からないと思いますので……」
『いや、鈴木さんだってうちの現場まだ1件しかやってないんだから、良く分かってないと思うよ。誰でも一緒だよ』
誰でも一緒だと思うんなら鈴木さんで我慢しとけよ。
担当を替えてくれと事務員相手に言う先方と、とりあえず鈴木から折り返しご連絡させますと繰り返す私。
次第に私は、立て続けにかかってきた面倒くさい電話の相手と鈴木さんに対して、イライラを募らせて……、
完全にキレた。
ガン!!!
気がついたら私は、受話器を叩きつけていた。
一瞬、周囲が静まった気がした。
その空気で私も我に返った。
えーと、見積もりの件はとりあえず鈴木さんから連絡を入れさせることで納得をしてもらったし、向こうが電話切った後に切ったからガチャ切りはばれてないはず……。
それだけ考えて、安心してため息をつく。
「どした?」
隣の席の彼が、心配そうに声をかけてくる。
「いや、あのちょっとメンドクサイ電話で……」
「クレーム?」
「いや、あの、クレーム……ではないかな……」
まだ自分の中でもイライラと混乱が収まりきれてなくて、受け答えはしどろもどろになり、声は自然に震える。
でもさすがに、鈴木さんにも聞こえるところで「◆◆社の人から鈴木さん使えないから、担当替えてって言われて~」とは言えなかった。
「ちょ、ちょっと、心を落ち着かせるためにドリンク買ってきます」
財布から小銭を取り出して、私は自分の席を離れた。
すぅーーー。はぁーーー。
すぅーーー。はぁーーー。
私は、廊下の自動販売機の前でドリンクを買わずに深呼吸を繰り返していた。
別に私がクレームを言われたわけじゃない。私にはどうすることもできないし、鈴木さんだってきっと、今見積もり作ってる途中で、忘れてるわけじゃないんだから、ちゃんと連絡入れてうまくやるはず……、っていうか、私がここまで気にすることじゃないし……。
心を落ち着かせるために必死で自分に言い聞かせていた。
それでも、ふつふつと湧いてくるイライラが止まらない。
ああもうアカン。
自販機一発くらい殴らないと、気持ちが治まらない。
拳を握り締めて自販機の前に立ち尽くしていると「櫻井さん」と声をかけられた。
隣の席の彼だった。
私がすぐに戻ってこなかったので、見に来てくれたようだった。
「何があったの?」
「あ……、本当にクレームってほどのクレームじゃないんですよ。ただ、◆◆社の人から鈴木さんの見積もりが遅いって言われちゃって……」
「え? それ、櫻井さん関係なくね?」
「いや、そのあと、鈴木くんは使えないから担当替えてって、延々グチグチ言われちゃって……。私、前も◆◆社の人の電話とって同じようなこと言われたことあったから、もうなんかイライラしちゃって……」
「ああ……。まあ、鈴木くんもね、頑張ってはいるんだけどなかなかそれが結果につながらないというか、営業って仕事と相性が悪いというか……。俺は直接鈴木くんを指導したことないから分からないけど、多分一番最初に鈴木くんを指導した人のやり方と鈴木くんが合ってないんじゃないかって思ってる」
「鈴木さんって、今何年目なんですか?」
「3年目。その時指導してた人はもう辞めちゃったんだけどさ、なんていうか……、声が大きくて体育会系でいかにも『営業』って感じの人だったんだよね」
「ああ、それは確かに……」
鈴木さんはどちらかと言うと大人しい性格で、運動部より文化部のが似合いそうなメガネをかけた青年だった。
声が大きくて体育会系の先輩なんて、まさに水と油だろう。
「鈴木くんには彼の性格に合ったやり方があると思うんだけど、意外に彼も意固地なところがあるから変えようとしないんだよね。誰がどんなに言っても。俺は営業じゃないからあんまり口出しできないし、自分で気付かないと意味がないのかもしれないけどね」
「……」
「まあ、俺はとりあえず、櫻井さんのことでなんか言われたっていうんじゃなければいいんだけどさ」
「それは全然ないんで! 大丈夫です!」
ん?
それって、心配してくれてるってこと……?
「そろそろ戻ろうか。あと2時間がんばりましょう」
「あ、はい」
私のほのかなキュンは彼の「戻ろうか」によって消されてしまった。
席に戻ると、船木さんが心配そうに「大丈夫だった?」と聞いてきた。
「大丈夫です。ありがとうございます」と私は答え、業務に戻った。
その後は電話も落ち着き、特に問題も起こらず無事に仕事を終えることができた。
「うーーーーん。終わったぁーーー。」
終業を知らせるチャイムが鳴り、私はおもいっきり伸びをした。
今日は一日が長かった。
朝から電車遅延でいつ会社につけるのか焦り、来たら来たで満員電車でもみくちゃにされ、
仕事を始めればひっきりなしに電話がかかってきて……。
「なんか疲れたわ……」
肉体的な疲労よりも精神的な疲労が激しい。
そしてそれは、先ほど彼から聞いた鈴木さんの話も影響していた。
私は事務職が好きだ。
地味だし、全然クリエイティブじゃないし、毎日毎日同じような仕事で飽きる……と事務職を嫌う人も多いけど、私には性格的に合っていると思っている。
毎日同じような仕事でも全然飽きないし、同じような仕事の中でやり方や順番を変えたりしてどの方法が効率がいいかを検証するのも好きなのだ。
もうすでに決まった形のできているものをアレンジするのが好きなのだと思う。
今の仕事に関して言えば、仕事を教えてくれた隣の彼と私の波長が合ったということも大きい。
波長というとなんだかスピリチュアル的なそれのように聞こえてしまうけど、要は相性だ。
隣の彼や営業二課のみんな、さらに言えば会社全体との相性が良かった。
分からないことや苦手なこともあるし失敗もするけど(そして彼に怒られるけど)、それでも仕事をしていて楽しいし、事務職が合わないと思ったことはない。
対して、営業という仕事はマニュアルのようなものはない。
常に生身の人間と相対しているから、人によって対応を変えなければならないだろうし、もしかしたら同じ人でもその時々で変えていかなければならないのかもしれない。
だから営業は面白いという人もいれば、だから自分には向いていないという人もいる。
鈴木さんが営業という仕事に合っているかいないのかは、私には分からない。
指導してくれた先輩のやり方を貫き通して、そのうち上手くいくようになるかもしれない。
だけれども、もし鈴木さんが『先輩のやり方』や『営業』という仕事に限界を感じたら、その時は鈴木さんに合ったやり方や仕事を見つけてくれればいいな……と、仕事が終わって少し優しくなれた私は思う。
「これあげる」
机の上を片付けていると、彼が何かを投げてよこした。
それは、この会社のCMキャラクターのストラップだった。
「なんですか? コレ?」
「今日頑張ってたから、ご褒美」
「頑張ってたから、ごほうび……」
「そう。電車遅れてんのに急いで来て、俺たちが仕事しやすいように電話とってくれてたでしょ。だから」
言葉ではとても嬉しいことを言ってくれているけれど、そのCMキャラクターのストラップは大して可愛くない上に、なんだか古い感じがする。
長いこと机の中で眠っていたような……。
「高林さん……。これ、いらないからって体よく私に押し付けようとしてません?」
「……いや……、そんなことないよ」
じっと見ていると、彼は目を逸らした。
決定的じゃないか!!
「……まあ、高林さんがご褒美と言うなら、ありがたく頂戴しますよ。ありがとうございます」
「そうそう。もらっとけもらっとけ」
この際、どんな意図があったのかは追求しないでおこう。
今のコミュニケーションが私にとってはご褒美なのだから。
頑張ったら、自分にご褒美を上げることも大切。
「じゃあ、また明日。お先に失礼します」
「お疲れ様でした」
また明日。
私の楽しいお仕事が待っている。
***
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