運命の1時間《プロフェッショナル・ゼミ》
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【東京・福岡・京都・全国通信対応】《日曜コース》
記事:紗那(プロフェッショナルゼミ)
※フィクション
14:40
時計をちらりと見る。
この時刻であれば15時からの先方との打ち合わせ場所に余裕を持って到着できる。身体にまとったグレーのストライプスーツのおかげで背筋が自然と伸びる。オーダーメイドで購入した自慢の一着だ。スリムタイプのスーツは身体にぴったりとフィットし、高身長であることを存分にアピールできる作りになっている。
今日は負けられない日なのである。かなり有力な企業との商談であり、この取引を上手くまとめられれば、昇格の話もかなり現実化してくる。そして打ち合わせの後にも……。僕は少しだけ憂鬱になった顔を元の表情に戻すと到着した有名ホテルのエレベーターホールで上層階行きのボタンを押した。
エレベーターホールでは何名かの客がエレベーターの到着を待っており、みな高級ホテルにふさわしい身のこなしの人々だった。ふかふかの絨毯に刺さる黒いハイヒールからスラリと伸びる目の前の女性の脚に自然と視線が向かう。黒いブラックドレスを着た彼女の首筋からうなじの辺りを眺めると、その透き通るような白さと美しさにクラクラする。過去の経験から、こういう時はその女性の顔を見ない方がいいことがわかっている。がっかりするのはごめんだ。
そんなことを考えているとエレベーターの扉が開き、僕は頭を切り替えてエレベーターの中に入る。商談場所のラウンジ階のボタンを押そうとすると、先ほどの黒いドレスの女性がすでにその階のボタンを押していた。
チラリと横目に彼女の姿を盗み見る。すっきりした顔立ちにバランスよく目鼻が配置されており、後ろ姿からの想像以上の見た目であった。僕は彼女を見て無意味に背筋をもう一度伸ばす。
エレベーターというのは不思議な空間だ。その四角い箱の中でどこの誰とも知らぬ複数名としばらくの間、密室空間で共に息をしなければならない。そして、大きな音も立てずその機械は着実に高層階へと登っていく。その静寂な中、不意に箱がグラリと揺れた。ドンと突き上げるような振動があった後、エレベーターは止まった。
「え!」
何が起きたかわからず、僕はキョロキョロとエレベーターの天井を眺める。
止まったのか? 強い香水の匂いを放つ右隣の女がオロオロと行き先階のボタンを強く叩く。
「え! これ止まっちゃったの?」
香水女は誰に言うでもない独り言のようにそう言うと、なぜか僕の顔を見た。
真正面から見た香水女は、白い肌に馴染んでいないメイクで七五三の少女を思い出させる風貌だ。塗りすぎたほっぺの赤いチークがやけに目を引く。
「止まったみたいですね。とにかく、緊急ボタンで連絡しましょう」
私は彼女の丸っこい輪郭を眺めながら、そう伝えると黄色い緊急ボタンを押した。
プルルプルルル
あの綺麗な彼女も、もう一人居合わせた幸薄そうなおじさんも香水女も乗り合わせた一同が、祈るようにその緊急電話のコール音に耳をすます。
プルルッ
「はい、こちら防災センターです」
寝起きのような少しやる気のない男の声が聞こえてくる。その瞬間、香水女の安堵のため息がもれる。
「すみません。エレベーターが止まってしまったみたいでして、20階あたりで動かなくなってしまいました」
私はチラリと時計を見た。
時刻は14:45
大丈夫だ。これですぐに救出してもらえれば商談には遅れずにすむはずだ。
「あー。えっと、そうですか。ちょっとエレベーター会社に連絡してみます」
相変わらずテンションの低い男は面倒臭さこの上ないという声のトーンで答える。
「どのくらいで出られますか?」
僕は少しイライラし、そのやる気のない男に問いかける。
「うーん。どうでしょうね。修理に来てもらうのに業者を呼ぶので1時間くらいはかかります」
「1時間?」
同乗していた4人の声が小さな箱の中で一斉に響く。
「ちょっと待ってよ! そんなにずっとここに閉じ込められるの!」
香水女は高い金切り声を上げながら、黄色い緊急ボタンに向かってすごい剣幕で訴えた。気弱そうなおじさんは肩を落とすと無言でエレベーターの隅に力なく座り込む。綺麗なあの女性も少しショックを受けたようで小さくため息をついていた。
私はもう一度時計に目を落とす。
14:50
まずい。1時間後では遅刻どころの騒ぎではない。まずは先方に連絡を入れなくてはいけないと思いスマートフォンを取り出す。しかし電波が弱く全く連絡がつかないのだ。僕は額に変な汗が流れてくるのを感じた。
チッ
無意識に舌打ちをする。
今回の商談のために入念な準備をしてきた。この勝負にさえ勝てば同期を差し置いて、いいポストに就けることは間違いないのだ。それなのにこんなエレベーターの故障で人生を狂わされてたまるものか。
どうするべきか。どうするのが最善策か。考えろ。考えるんだ。
「お願い! 出してよ! 早く! 15時までには絶対出して! こっちはね、人生かかってんのよ!」
その思考を遮るように香水女は大きな声で叫ぶとドンドンとエレベーターのドアを叩きだした。その振動で小さなエレベーターの箱が揺れる。
「お姉さん、ちょっとだけ落ち着きませんか」
あの綺麗な彼女だった。香水女の手を優しく掴むとニコリと微笑んでいる。
「ほら、ドア叩いても開くわけじゃないですし」
香水女は力が抜けたのか頭を抱えてへたり込んだ。
「お願いよ……今日は大切な日なのよ……」
小声でそう呟いた香水女の目には涙が溜まっていた。
「もう少し早くどうにかしてくれることはできないのですか?」
綺麗な彼女の穏やかな声が黄色の緊急ボタンに向かって話しかける。
「うーん。無理ですね。僕達では修理はできませんし、安全確認をしてからでないと動かせないんですよ。下手に動かして事故になったら嫌でしょう?」
この防災センターの男はイライラさせる天才のようだ。
「事故だなんて…待つしかないということですね?」
こんな非常事態でも凛とした表情を見せる彼女の横顔に不覚にもドキリとする。
「そういうことです。業者が来たらお伝えします」
プツン
男はそう一方的に伝えると電話を切ってしまったようだ。僕はもう一度スマートフォンの電波を確認するがやはり繋がらない。LINEさえ使い物にならない今、なす術がなかった。
時刻は15時になっていた。
遅刻だ。
僕は昇格の夢どころか、会社の信用まで失うことが確定した。もう無意味なのだから、時計を見るのはやめにしよう。
エレベーターの中は異様な雰囲気である。
見ず知らず、ただ偶然に乗り合わせた私たちはここで後1時間も過ごさないといけないのだ。他の3人の様子を見渡す。エレベーターの隅で魂が抜けたような顔で座り込んでいる幸の薄そうなおじさん。香水女はフリフリのピンクのワンピースの裾を掴みながら呆然と泣いていた。あの綺麗な彼女は相変わらず凛とした姿でハイヒールのまま立ってうつむいていた。
「ヒール脱いだほうがいいですよ」
「え?」
初めて真正面から見た彼女の顔に思わず視線をそらす。
「いや、疲れちゃいませんか?」
「あ、そうですね。ありがとうございます」
ぺこりと小さくお辞儀をすると彼女はするりと芸術的に美しい所作で黒いハイヒールを脱ぎ捨て、綺麗に自分の足元に並べた。
「座りましょうか?」
彼女は私を見て目配せをする。
「そうですね。長丁場ですから」
私と彼女が同時に腰を下ろすと、香水女がこちらをチラリと見た。
「本当に1時間出られないのよね?」
先ほどの勢いはなく、うなだれたような低い声がこちらにそう聞いてくる。
「はい。たぶん」
私の答えにもう一度、香水女の目に涙が溜まる。
「大事な用事があったんですね?」
彼女が優しい声で香水女に問いかけた。
「そうよ。今日は人生を変える日になる予定だったの」
香水女はピンクのワンピースを眺めながら大きくため息をつく。
「今日はね、大事な100回目のお見合いなの」
「100回」
私が思わずもらしてしまった驚きの声に気づき、香水女がこちらを睨む。
「そうよ100回よ。今回はあちらがすごく私の事を気に入ってくれていると聞いて人生で一番おしゃれしてきたのよ」
なるほど。
香水女の服装を改めて確認する。肩まで伸びた強くカールされた黒髪。赤いチークに目元を強調するメイク。ピンクのフリフリしたワンピースは彼女の少しふくよかな体型を余計に目立たせ、足元はエナメルのピンクのパンプスを履いていた。彼女なりの精一杯のオシャレなのだろう。
「あちらから気に入られるなんて初めてなんだから、絶対うまくいくはずなのよ! 絶対に運命の人だと思ったのに遅刻することになるなんて」
話しているうちに気持ちが高ぶってきたのか香水女はまたポロポロと涙をこぼした。
「泣いたら、お化粧落ちちゃいますよ! このあと会えるかもしれないんですよね? だったら可愛いままでいないと!」
彼女がハンカチを手渡すと香水女は、しばらく睨んでから苦い顔をして受け取った。
「それに運命は自分で作るものですよ」
どういう意味だろうか。男の僕にはよくわからないがその言葉を聞いて香水女は小さく頷いていた。
「待っててくれるかしら」
力なくつぶやくその声は彼女に救いを求めるようなセリフだった。
「待っててくれますよ。仮に……待っててくれない男なら、運命の男ではなかったということです」
二人は顔を見合わせながら頷きあっている。果たして本当に見合い相手は待っていてくれるのだろうか。そうであるならば、もう少し香水の匂いを飛ばしてから行った方がいいと言いたくなったが香水女を刺激する気もなかったので僕は黙って二人のやりとりを眺めていた。
「僕も人生がかかった日だったんです」
これまで隅で膝を抱えこみ一言も発さなかったおじさんが小さく声を出す。
「そうなんですか」
僕がそう言うとおじさんは初めてこちらに顔を上げた。
「再就職の面接を受ける予定で……」
しっかりと顔を見ると思っていたより若そうな顔だった。猫背とクタクタのスーツが彼をおじさんにみせている原因だろう。
「それは大事です! 何時からですか?」
「15時です」
うなだれたようにうつむく彼の顔を見て、彼の社会人人生で色々なことがあったであろうことは容易に想像できた。
「でもいいんです。僕はどうもいつもこうですから。タイミングが悪いというか。就職できなければ妻と別れるちょうどいい理由ができます。僕みたいな人が自分以外の人を幸せにするなんて無理な話です。妻のためにもこれで良かったのかも」
うなだれるおじさんに何て声をかけていいかわからず僕はオロオロする。
エレベーター内に重い空気が漂う。
「何言ってんの!」
静寂を破るように香水女の大きな声が響く。
「あんたね、逃げるんじゃないわよ! え! 私なんて99回見合いに失敗してんのよ! 私は結婚したくてしたくて仕方ないのよ! あんたは一度結婚ができた! それを自分の勝手な理由で簡単に諦めてんじゃないよ!」
早口で言葉を言い切ると香水女はそのまるまるした顔を怒りで真っ赤に染めていた。
「す、すみません」
おじさんは香水女に圧倒され言葉も出ないようだった。密室の四角い箱には異様な空気が漂う。
「ま、そんな怒らずに。僕たちはみんな閉じ込められた被害者ですから。みなさん今日は大事な日だったんですね。僕も大事な商談があったのですが遅刻です」
場の空気に耐えられなくなった僕は無理やり話題を変えるためにそう言った。
乗り合わせた全員がたまたま大事な日に乗ったエレベーターが止まるなんて、なんて運の悪いことだろう。
「そちらも気の毒ですね」
おじさんはもう目を合わせてくれないが、身体だけこちらに向けそうつぶやいた。
「ところで、あたなは? 何か大事な用が?」
僕が彼女の方を向くと彼女は目を合わせてにっこりと微笑んだ。
「私も人に会う予定でした。とても大切な人に」
大切な人? その言葉にだいぶがっかりした自分に驚いた。
「それは大丈夫なのですか?」
「大丈夫です。少なくとも今は。むしろ上手くいってますから」
どういう意味だろうか。彼女はこんな状況なのになぜかいたずらに笑っている。
「でも、こんな風に閉じ込められることなんて初めてですが、一人じゃなくてよかったと思います」
彼女はあたたかい目で私たちを交互に見る。
「偶然居合わせただけだけど、なんだか不思議な気持ちですね」
不思議な人だ。こんな異常事態の状況で呑気なことを言うものだなと思う。だけど僕は少なくともこの偶然が割と嫌じゃないことは確かだ。
おそらく彼女のおかげで。
「そうですね。普通ならすれ違い、会話もしないであろう赤の他人のはずなのに、こうして同じ異常事態に遭遇すると不思議と一体感がありますね」
僕はもう時計に目を落とすことはなくなっていた。
ガコン
急に大きな音がするとエレベーターは静かに何事もなかったかのように動き出した。
「動いたー!」
香水女は泣いていたのが嘘のようにすぐに立ち上がり、大きな声を出す。
ほんの数十秒でエレベーターは何事もなかったかのようにラウンジのある階に止まり、すんなりと扉が開いたのだ。あまりに呆気ないエレベーターからの解放に香水女以外の3人はポカンとしていた。
「それではみなさん、私は今度こそ幸せを掴んできますからね! あ、おじさん、ちゃんと面接受けなさいよ!」
香水女は早口でそう告げるとピンクのパンプスをカツカツ鳴らしながら、フロアへ颯爽と出て行った。残された僕たち3人は顔を見合わせると可笑しくなって笑いながら、一緒にフロアへと降り立った。
外界だ。
外界に戻ってこれた。
「では、僕はこれで。ちゃんと謝って面接を受けてきます。妻とのこともちゃんとしないと」
おじさんは相変わらずの猫背だけれど少しだけ声が大きくなった気もする。
「面接頑張ってくださいね!」
彼女がそう言うとおじさんはペコリとお辞儀をしてラウンジの中へ消えて行った。
「あの、少しだけ肩借りてもいいですか?」
横を向くと彼女の顔がこちらを向いていた。
「え! はいどうぞ」
突然の要望に戸惑いながらも頷くと、僕の肩に彼女は優しく手を添え、黒いヒールを片方ずつ履いた。ほんの数十秒の間だったが、アップにされた髪から、ふわりといい匂いがした。
「ありがとうございました! 冷静な方がいて助かりました」
彼女はそれだけ告げるとあっという間にラウンジの人ゴミの中で見えなくなってしまった。少しだけ期待していた僕はこんなものかと少しだけがっかりし、商談の事を思い出した。久しぶりに時計に目を落とすと、現実が戻ってきた。
その先のことは嘘のような本当の話だ。僕と彼女。いや、梨花は同じ日にまさかの再会を果たす。商談の後、僕は同じホテルで親に無理やりセッティングされたお見合いをする予定だったのだ。そして僕は、その食事場所でお見合い相手として彼女に遭遇したのだ。それを運命と呼ばずになんと呼ぶだろうか。すぐに意気投合した僕達はあっという間に結婚をすることになった。
そして結婚式当日、友人の田島がいたずらな顔で近づいてきた。
「お前さ、まさかこのホテルでお見合いしたわけじゃないよな?」
田島はニヤニヤと意味ありげに笑いながら、僕の顔を見る。
「いやさ、このホテルってお見合いが上手くいくって有名らしいんだよ。それには深い理由があって、ホテル側が運命を斡旋してくれるんだってさ!」
「運命を斡旋?」
「そうそう。つまり運命を装った大がかりな演出してくれるんだってさ。ウケるよな。まあ、ただの噂だろうけどさ」
僕は顔が上手く笑えていないことに気づいた。
「いや、ごめん! ごめん! そんな顔すんなよ! 多分都市伝説みたいなもんだよ」
「運命はね、自分で作るんです」
あのエレベーターの中での梨花の意味深な微笑みが蘇る。
少しだけ頭がクラクラした。
それはちょうど私が梨花に初めて会った時と同じような感覚だった。
僕は壮大な運命の演出に引っかかったのだろうか。
出会いは作り物だったのか、運命だったのかぼんやりとそんなことを考えながら目の前に確かに存在する美しい女を眺める。
「どうしたの? 難しい顔して?」
いや、壮大な演出だとしてもいいか。
「なんでもないよ」
少しだけ背筋に嫌な汗が流れた。
あの運命の1時間の日と同じように彼女は優しく笑っていた。
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