愛と孤独はいつだって、お母さんのカレーの匂いがする
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記事:小川ゆいこ(ライティング・ゼミ日曜コース)
子どもの頃、好きな曜日は、木曜日だった。
「ただいまー!」
「おかえり。今日は、カレーの日だよ!」
わたしが学校から帰ってくると、必ずお母さんは、笑顔で抱きしめてくれた。
それは毎日のことなのだけど、木曜日は特別だ。
お母さんの柔らかい腕の中で、思いっきりカレーの匂いを吸い込む。
トントントントン……。
リズムよく野菜が刻まれている音が、ペコペコのお腹に気持ちよく響く。
毎週木曜日は、我が家、カレーの日。
ちゃんと壁掛けカレンダーにも、毎週木曜日に、カレーの印が付いている。
わたしは、お母さんがつくるカレーが大好きだった。
だから、わたしは木曜日が好きだった。
木曜日をわたしのお気に入りの曜日にしたお母さんの、異変に気付いたのは、中学2年生の秋のことだった。
その日も木曜日で、カレーの日だった。
「ただいまー!」
家のドアをたたいても、中々反応がない。
いつもはすぐに開けてくれるはずなのだけど……。
もう一度、たたいた。
ジャリジャリと、靴の下にある砂利を踏んで、音をならす。
今日はカレーの匂いがしない。木曜日なのに。
カチャっとドアが開いた。
「おかえり。頭、いたくてさ」
ぼそりと呟いたお母さんの目の下は、ぷっくり腫れている。
頑張ってつくった笑顔は、どこかもの悲しさがこぼれていた。
お母さんは、小さく鼻をすすって、コホンと咳をしてから、
「ごめんね、ご飯作るね」とキッチンへ向かっていった。
トントントントン……。
ゆっくりと、野菜を切る音が聞こえてくる。
その音がたまに途切れては、また再開する。
制服をハンガーにかけながら、わたしはお母さんの背中をちらりと見た。
確かそのとき、何か声をかけようと、口を開いた。
でも、すぐに飲み込んだ。
なぜだかは、わからなかった。
「お母さん、何かおかしいな」と、中学生ながらに、思った。
お母さんのカレーは、その日も美味しかった。
うつ病、という言葉が、こんなにも一般的になる、ずっと前のことだった。
それから10年程たった、去年の暮れに、お母さんは精神科の病院に入院した。
久々に帰郷をした。
病院に向かう車の中で、お父さんが、お母さんの入院の経緯について、淡々と話をしていた。
お酒の量が酷くて……。
夜中、徘徊してしまって……。
拒食症は薬が……。
うん、そっか、大変だね、なんて、
上の空で、返事をする。
全く知らない、誰かの話を聞いているようだった。
目の前の景色が、だんだんとぼやけていく。
左右一面の小麦畑の黄金色と、太陽のキラキラしたオレンジ色が混ざって、ビールをぶちまけたような澄み切った琥珀色の空が、果てしなく広がっていた。
とても、美しい景色だった。
まっすぐにのびている太い国道を、わたしたちを乗せた車は、ぐんぐん進んでいく。
病院になんて、着かなければいいのに、と思った。
お見舞いに行くと、お母さんは真っ白い箱のような部屋のベッドに、座っていた。
痩せ細って、うなだれていた。
こんなに痩せたお母さんをみるのは、初めてだった。
わたしを見るやいなや、「ごめんね」「ごめんね」と何度も言って、小さな女の子のように泣きじゃくった。
「大丈夫だよ」「大丈夫だよ」
わたしも何度も言って、お母さんの手をぎゅっと握った。
反対の手で、視界の滲んだ両目を、ゴシゴシと拭いた。
それからわたしたちは、他愛もない話をした。
わたしの馬鹿話に、声を上げて笑ってくれたりもした。
何だか、少し安心した。
それでも、時折、細くなった足首に目を落としながら、
「独りがこわい」「独りにしないでね」と言っていた。
なぜだろう。とても不思議だった。
この白い部屋には、お母さんがいる。
お父さんがいる。
わたしがいる。
3人で、他愛もない話をしている。
時折お母さんが笑ったり、うつむいたりしている。
この部屋は、お母さんの目には、どううつっているのだろうか。
わたしやお父さんは、いるのだろうか。いないのだろうか。
いや、お母さんは、いるのだろうか。いないのだろうか。
もしも仮に、お母さんが今の病状で死んでしまったとしたら、どうしよう、なんて、バカなこと思う。
トントントントン……
カレーの野菜を切る音が、耳の奥の方から聞こえてくる。
確かそのとき、わたしはお母さんに何か声をかけようと、口を開こうとしたのだ。
でも、なぜか、すぐに飲み込んだ。
どうして、あのときに、言葉を飲み込んでしまったのだろう。
恥ずかしかったのだろうか。聞いちゃいけないと思ったのだろうか。
あんなにも長い時間、お母さんと一緒に暮らしていたのに。
小さな小さな、後悔。
別に、お母さんの現状を大きく変えるわけでもないだろうに。
でも、でも…。
今すぐ、中学生のわたしに戻りたい。
お母さんに「ただいま」と言って、自分の部屋に戻る前に、
制服をハンガーにかける前に、
ちゃんと「だいじょうぶ?」と声をかけたい。
お母さんがわたしに毎日してくれたみたいに、ちゃんと抱きしめてやりたい……。
ある種の衝動が、わたしの心の中を、何度も何度も通り過ぎていく。
「独りがこわい」「独りにしないでね」
この白い部屋で、お母さんが呟くたびに、悔しさがむくむく込み上げた。
わたしたちは皆、母親のお腹の中から、つるんと生まれ落ちる。
その瞬間から、孤独なのだ。
友だちでも恋人でも、家族でさえも。
ただひたすらに「今、たまたま一緒にいる人」でしかない。
それなのに。
わたしたちは毎日、その「たまたま一緒にいる人」と、時間を共にする。
一緒に話して、笑って、ごはんを食べたりする。
だんだん、大切な人になっていく。
そして、自分が孤独であることを忘れていく。
だから、なのだろうか。
ありがとう。
ごめんね。
いただきます。
ごちそうさま。
だいじょうぶ?
手伝えること、ある?
当たり前のこと、大切なことを、ちゃんと伝えられないことがある。
上手に伝えられる自信がないから。
相手を傷つけたくないから。
自分が傷つきたくないから。
ビックリするくらいちっぽけな理由で、とてつもなく大切なことを、わたしたちは簡単に伝えそびれるのだ。
1mmの勇気さえあれば、小学生でも、幼稚園生でもできることなのに。
人間って、なんて馬鹿な生き物なんだろう。
お見舞いの時間が終わろうとしている時、わたしは何か、お母さんに伝えようと思った。いや、伝えなきゃ、と思った。
それが何だかわからないまま、出てきた想いを言葉にのせた。
「お母さん。がんばらないことを、がんばらないでね」
何もやることのない病院の一室で「がんばる」とか「がんばらない」とか、うつ病患者ではないわたしには、よくわからない。
それでもきっと、よかった。
わたしは、お母さんを抱きしめた。
確か今日は木曜日じゃないけれど、骨ばった腕の中から、やっぱりカレーのいい匂いがする気がした。
帰りの車の中、お父さんもわたしも、しばらく黙ったままだった。
ビールの色をした空は、もう深煎りコーヒーみたいな黒色になっている。
コーヒー色の空に浮かぶ、まん丸の月を見あげながら、ぼうっと今日あった出来事を、一つ一つ思い出した。
「がんばらないことを、がんばらないでね」
一日の終わりにふぅーっと長く深いため息をついた瞬間、その言葉たちはわたし自身へ、そっと返ってきた。
そうだ。どうせ、人は果てしなく孤独なのだ。
だからこそ、目の前の人に対して、わたしの伝えたいことを、ちゃんと伝えるのだ。
何だか、孤独ってもの、悪いものじゃないのかもしれない、と思った。
「ねぇ、今日家でカレー作るよ。どうせ、ちゃんとしたもの食べてないでしょ」窓の方を向きながら、わたしはつぶやくようにお父さんに言ってみる。
「おう、ありがとう」と、一言、返された。
わたしは、窓から月を眺めていたのだけれど、お父さんも隣で、笑っているのがわかった。
お母さん、カレーをつくる時に、何を入れていたのだろう。
お母さんのカレーみたいには、いかないかもしれないけれど、
きっと美味しくできあがる。
だって、カレーの匂いのする場所には、いつもお母さんがいるのだもの。
「おかえり。今日はカレーだよ!」
心の中で、お母さんと一緒にそっとつぶやく。
「はーい!」
中学生のわたしと、若いお父さんの声が、どこからか聞こえた気がした。
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