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記事:うらん(ライティング・ゼミ)

 
 
ムクがいないことに気付いたのは、日が落ちて、辺りの街灯が灯りはじめた頃だった。
 
その日、我が家は引っ越しで、朝から大忙しだ。手伝いに来た近所の人や父の職場の人たちがせわしなく動きまわり、お昼ごはんも、店屋物のかつ丼をそそくさとかきこむという慌ただしさだ。
 
私が小学四年生のとき、山梨県大月市から長野県飯田近郊の小さな町へ、引っ越しをしたのだった。
ムクというのは、その当時飼っていた犬の名前である。
甲斐犬という、山梨県産の日本犬だ。オオカミみたいな顔をしている。狩猟の伴犬だから、気性の洗い犬種だと言われているけれど、ムクは誰にでもすぐお腹を見せるし、顔もヤギのように間延びしている。
 
当時は今のような大手引っ越し業者はなく、――いや、あったのかもしれないけれど―― ほとんどの家庭が自分たちでやっていた。トラックだけは業者に頼み、作業は近所の人や職場の同僚らの手を借りる、というのが通例だ。
 
犬小屋は、だいぶ古くなっていたので捨てていくことにしていた。新天地では、ムクの小屋も新しくしよう。そういう心づもりである。
荷物を全てトラックに積み終えると、荷台にまだ余裕がある。
父の職場のおじさんが、「これも乗せちゃえ」と、犬小屋を荷台の一番後ろに乗せてしまった。
トラックはそのまま走り出した。荷台で古い犬小屋がこちらを向いている。
やにわに、ムクがトラックを追いかけた。トラックのスピードに追い付くはずがない。あっという間にトラックは見えなくなってしまった。
 
手伝いの人たちも帰り、掃除も済ませ、私たち家族がやっと一息ついたのは、もう夕暮れ時だ。
兄がふと漏らした。
「ところで、ムクは?」
トラックを追いかけたところまでは見ている。だが、その後のムクのことは誰も覚えていない。
どこまで追いかけたのだろう。迷子にでもなっているのか。
私たちは翌朝早くに発たなければいけない。それまでに戻らなければ、置いていくことになる。
父は、万が一に備えて、隣家の小俣さんにムクのことを頼んだ。ムクが、私たちが去ってから帰ってきたときのためである。
 
私たちの新生活は、ムク不在のまま始まった。
しばらくの間、私は新しい学校に慣れるのに精一杯だ。毎日の出来事が興奮に満ちている。私は懸命に土地の言葉を覚え、それを使い、また習慣にも従って、自分を取り巻く環境に馴染もうと努力した。頭は学校のことでいっぱいだ。
それでも、ムクのことを忘れた日はない。
毎日、学校から帰ると母に、「小俣さんから連絡あった?」と尋ねる。
返ってくる答えは、いつも同じだ。「ないわねぇ」と。
 
ひと月もすると、私はすっかり学校にも慣れ、友達もできた。楽しい。毎日が刺激的だ。
でも、ときどき一人でいるときに寂しく感じることがある。
町のスピーカーから、夕刻を告げるオルゴールが響く。辺りが黄昏てくる。うっすら肌寒い。庭の隅っこで犬小屋がスギナの茂みに埋もれている。
ムクはいない。
 
私たちが慣れてきたこともあって、父が、兄と私を映画に連れていってくれることになった。『ガメラ対なんとか』といった、怪獣映画だったと思う。
田舎町なので、映画を観られる機会はそうそうない。その日が来るのをとても楽しみにしていた。
ところが、当日、兄が風邪で熱を出したのだ。映画は取り止めである。
私は、何ともやるせない気持ちになった。仕方がないとは分かっていても、ぐずぐずとブーたれる。
「お兄ちゃんは熱を出すしさ、ムクはいないしさ、お習字の道具はみんなと違うしさ、逆上がりはできないしさ、あきらちゃんは結婚しないしさ……」
あきらちゃんというのは、親戚のお兄さんだ。当時、「あきらは30過ぎても結婚しなくて困る」と、大人たちがよく言っていたのだった。
私には関係のないことだ。でも、この世はそんな憂きことだらけのように思えて、思いつく限りありったけの厄介ごとを挙げたのだった。映画に行けないのをきっかけに、やるせない気持ちが一機に噴き出した。何をやっていても、どこか楽しくない。ムクがいないというのは、そういうことだ。
 
ムクが側にいるときは意識することはなかったけれど、ムクこそが私のかけがえのないものだったのではないか。それなのに、私はそれにそぐわしい扱いをムクにしたことがあっただろうか。ろくに世話もしなかったのではないか。
子どもだから、そんな難しい言葉で考えたわけではない。ただ、ムクあっての自分だということを、じんわりと感じたのだった。
 
ムクが行方不明になってふた月ほど経った頃だ。小俣さんから連絡があった。
ムクが帰ってきたのだ。
私たちが住んでいた家の近くをウロウロしていたらしい。だいふ痩せているし、汚れているけれど、間違いなくムクだという。おばさんが「ムクなの? ムクなのね!」と言って近付くと、おとなしく捕まったそうだ。
次の週末に、父と兄と私とで迎えにいくことになった。それまでの間、小俣さんが世話をしてくれる。
 
小俣さんの家の近くに車を停めると、私は転がり出るように飛び出した。
庭先で何かが動いている。
ムクだ。
思わず、ムクーっと叫ぶ。
動いていたものが、ぱたっと止まった。こちらを見る。すると、リード紐が届くぎりぎりのところまで飛び出してきた。紐がピーンと張っている。頭を上げたり下げたり、後ろ脚で立ったり、もう嬉しくてどうしていいか分からない、といった様子だ。
“僕を置いてどこへ行っていたんだよぉ”とでも言うように、ウォウォ唸っている。何言ってんだよ。いなくなったのは、そっちじゃないか。
私たちは駆け寄った。ムクは思い切り飛びかかってきた、いや、こなかった、いきなりその場でぐるぐる回りはじめる、回る、回る……、馬鹿だなぁ、そんなにぐるぐる回っているとバターになっちゃうぞ。私は近付いて、がしっとムクを押さえた。
ムクが前脚で私にのしかかる。尻尾がビュンビュン揺れている。わわわ、そんなに舐めないで。そうか、そんなに嬉しいか、私も嬉しいぞ。
ムクの勢いにおされて、私は尻もちをついた。ああ、ムク。
日が燦燦と照っている。
私がひと通り犬をかまったのを見届けて、今度は俺の番だとばかり、兄がムクを撫でている。
父は小俣さんに挨拶をしている。
ムク、新しい家に帰るよ。
 
この日からの私とムクとの繋がりは、もう以前のそれとは全く違うものになった。
 
すぐ側にあるときはそれと気付かなくて、手元から離れてしまったときに、どれだけかけがえのない存在だったのかを知ることがある。失うことによって、自分に与えられていたものを認識するときがある。
このライティング・ゼミも、もうすぐ終わりだ。毎週毎週、締め切りに追われるように記事を書いてきた。書き終えると、やれやれと一仕事終えたような気になる。そしてまた次の週も、締め切りに追われて記事を書き、やれやれと一息つく。その繰り返しだ。
その締め切りのある日々が、もうすぐ終わろうとしている。
 
このゼミが終わった後のことは、考えたことはなかった。もう締め切りに追われることはなくなる。気が楽になるのだろうか。
苦い漢方薬が、ゆっくりと身体に効いてくるように、締め切りに追われて記事を書く辛さが、徐々に徐々に、私の身体に眠っていたものを呼び覚ますように作用してきている。
記事を書くことは、もはや試練ではない。生きがいへの道へと変わりつつある。“書く”という行為が私の喜びとなっている。
そのライティング・ゼミが終わる。
ゼミが終わってしまうと、空虚な毎日になるのだろうか。何をやっていても楽しくなくなるのだろうか。
そういえば、あきらちゃんはまだ結婚していない。
 
いや。
あきらちゃんはまだ結婚していないけれど、この世はときめくような事で溢れているはずだ。あきらちゃんが結婚していないことだって、楽しいことかもしれない。
何かが自分のもとを離れてしまうとき、それは必ずしも失うことを意味するわけではない。そのものの存在をしっかり自分のなかに感じていれば、いつまでも自分のなかに存在し続けるはずだ。
大切なものが自分の手元にあったとき、それを両手で包んで持っていたとすれば、「そのものの存在をしっかり自分のなかに感じている」というのは、それを胸に抱いて持っているようなものだ。
だから、ちょっとやそっと手を開いたところで、消えたりはしない。たとえその姿が自分のもとを離れてしまっても、その存在は失われることはない。いつまでも、いつまでも、私のなかに火を灯し続ける。
 
このゼミが終わることは、私にとって“書く”ということから遠ざかることではなくて、“書く”こととの新たな出会いになると確信している。“書く”ということと私との関係が、ゼミを受講する前とは全く違うものになっているからだ。
ムクを一旦失って、ムクとの繋がりが変わったように。
 
もうすぐムクの命日がやってくる。
 
 
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2017-05-18 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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